第2話 死者は在庫を語る
泥道を歩くのは骨が折れる。
私の腕を掴んで引率する兵士は、無駄に歩幅が広かった。私が二歩で進む距離を、彼は一歩で跨ぐ。おかげで私はスキップに近い無様な歩調でついていく羽目になった。
「ちょっと、速いってば」
「捕虜に発言権はない」
「捕虜じゃなくて、テスト採用予定者よ」
訂正してみたが、兵士は鼻で笑っただけだった。ユーモアの通じない職場だ。
霧が深くなってきた。
前方から重低音が響いてくる。大型トラックのアイドリング音だ。
排気ガスの匂いが鼻をつく。こちらの軍隊は馬車が主力だったが、彼らは燃料で動く鉄の塊を何台も持っている。負けるわけだ。
トラックの列の横で、あの男――レオニス将軍が待っていた。
泥除けに革靴を乗せ、手帳にペンを走らせている。
近づくと、彼はペンを止め、私の足元から頭までを視線でスキャンした。
「逃げなかったか」
「朝食が出るまでは逃げない主義なの」
私は強がって見せたが、実際は膝が笑っている。空腹と寒さの限界が近い。
レオニスは顎でトラックの荷台をしゃくった。
「食事の前に仕事だ。俺は無能な人間と、嘘つきの人間が嫌いでね」
荷台には、麻布をかけられた「荷物」が積まれていた。
形を見ればわかる。人間だ。動いていない。
とたん、私の脳内ラジオがボリュームを上げた。
――寒い。誰か。
――ベルトがきつい。
――家に帰してくれ。
「うわ、騒がしい」
私は顔をしかめて耳を押さえた。
死体置き場は、私にとっては満員電車の中と同じだ。全員が独り言を大声で喋っている。
レオニスが私の反応を観察している。
「何が聞こえる」
「愚痴と未練の合唱よ。聞きたい?」
「具体的で、検証可能な事実だけを抽出してくれ」
注文の多い上司だ。
私はため息をつき、ノイズの嵐の中から、一番具体的で、かつ五月蝿い声を選び出した。
――時計。俺の時計。
荷台の真ん中あたりから、しつこく繰り返す声がある。
――銀の懐中時計だ。ベルタの写真が入ってる。内ポケットだ。盗まれたくない。
「……真ん中の人」
私は指差した。
「銀の時計を心配してる。内ポケットに入ってるって」
「時計か」
「ベルタって女の写真付き。盗まれるのが心配なんだってさ。色ボケね」
レオニスが部下に目配せする。
兵士が荷台に上がり、麻布をめくった。
泥と血にまみれた軍服の内ポケットを探る。
兵士の手が止まり、銀色の鎖を引き出した。
蓋を開ける。
「……女性の写真が入っています。裏に『ベルタへ』と刻印が」
周囲の兵士たちがざわめいた。
レオニスだけは表情を変えない。ただ、手帳に何かを書き込んだだけだ。
「合格だ。だが、まだ採用ではない」
「厳しいわね」
「三番倉庫へ行け。在庫管理の不備があるという報告だ。原因を突き止めろ」
*
三番倉庫は、カビと埃の博物館だった。
巨大なレンガ造りの建物に、木箱が山のように積まれている。
案内された私は、中に入るなり顔を覆った。
「……最悪」
臭いではない。音が、だ。
ここにあるのは死体ではないはずだが、死者の残留思念が壁や床に染み付いている。
それも、やたらと神経質な声だ。
――違う。
――比率が悪い。
――もっと混ぜろ。バレないように。
職人のような、あるいは詐欺師のような声が反響している。
私は頭痛をこらえながら、積み上げられた木箱に近づいた。
「小麦粉」と印字されている。
私は木箱の一つに手を触れた。
木材を通して、過去の記憶が流れ込んでくる。
――重すぎる。釘を打ちすぎだ。
この箱を運んだ誰かのぼやきだ。
それとは別に、もっと底冷えする声が聞こえる。
――白い粉なら、なんでもいい。石膏でも、殺鼠剤でも。
――腹に入れば同じだ。
私は手を引っ込めた。
背筋が寒くなる。これはただの横領ではない。もっと悪質な「仕込み」だ。
「ちょっと! 開けて!」
私は入り口の扉を叩いた。
「監督官を呼んで! 在庫が腐ってるわよ!」
外の見張りは反応しない。
「静かにしろ」
「言ってる場合じゃないの! これ、食べたら死ぬわよ!」
扉の向こうで足音が止まる気配がした。
数分後、閂が外される重い音が響いた。
扉が開き、逆光の中にレオニスが立っていた。
相変わらず、服の皺一つない。この泥だらけの戦場で、彼だけが別世界の住人のようだ。
「騒ぐなと言ったはずだが」
「緊急事態だからよ」
私は一番手前の木箱を蹴飛ばした。
「これ。中身、小麦粉じゃないわ」
レオニスが眉を上げる。
「袋は未開封だぞ」
「開封して、混ぜて、また閉じたのよ。やった本人の声が自慢げに喋ってる。『石膏と殺鼠剤を混ぜた』って」
レオニスは無言で部下にバールを手渡した。
バリ、と音を立てて蓋が開く。
中には白い粉袋が詰まっていた。
レオニスはナイフを取り出し、袋を小さく切り裂いた。
こぼれ落ちた粉を指先で取り、鼻に近づける。
「……無臭だ」
「でも、混ざってる」
「見た目ではわからん」
彼は粉を払うと、私を見下ろした。
「だが、お前が嘘をつくメリットがない」
彼はすぐに部下に向き直った。
声のトーンが一段階下がる。仕事モードの音だ。
「全在庫を封鎖。医務班に成分分析をさせろ。それから、今日の配給はビスケットの缶詰に切り替えろ。この粉を使ったパンは焼かせるな」
「はっ!」
部下が慌ただしく走り去る。
レオニスは手帳を取り出し、また何かを書き込んだ。
そして、ペン先を私に向けた。
「役に立つ耳だ」
「でしょ? 特別手当が欲しいくらい」
「命拾いした分の報酬としては十分だろう」
彼は手帳を閉じ、初めて私に背中ではなく、横顔を見せた。
「ついてこい。温かいスープくらいは出してやる」
その言葉を聞いた瞬間、私の腹が今日一番大きな音で鳴った。
レオニスが一瞬だけ、呆れたように目を見開いたのが見えた。




