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無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


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第18話 錆色の偽装

 工兵がバールを鉄板の隙間にねじ込んだ。

 金属が擦れ合う高い音が響き、外交官が不快そうに耳を塞ぐ。

 錆びついた鉄板が浮き上がり、橋の内部構造が露わになった。

 川面からの湿った風が、隙間から吹き上げてくる。


 「……これは」

 覗き込んだ工兵の声が強張った。

 彼は手袋を外し、素手でボルトの頭に触れた。指先に赤茶色の粉末が付着する。

 しかし、彼が指を擦り合わせると、その粉末は粘り気のあるペースト状に伸びた。


 「錆じゃない。グリスだ」

 工兵は汚れた指をレオニスに見せた。

 「錆びたように見える色のグリスが塗られています。ナットは手で回せるほど緩んでいる。これでは、重量のある車両が通過した瞬間に崩落します」


 外交官の口が半分開いたまま固まった。

 彼は工兵の指と、足元の鉄板を交互に見て、ハンカチを取り出した。

 「ば、馬鹿な。先週の点検では異常なしと……」


 「先週の点検後に塗られたんだ」

 レオニスは片膝をつき、構造材の闇を覗き込んだ。

 「しかも、プロの仕事だ。荷重がかかる一点だけを狙って緩めている。素人目には老朽化に見えるようにな」


 私は欄干に寄りかかり、ポケットの中でキャラメルの包装紙を剥いた。

 橋の下を流れる水音が、犯人の残した思考を増幅して伝えてくる。


 ――静かに。音を立てるな。

 ――対岸の光が見える。見つかるな。


 「……船ね」

 私はキャラメルを口に放り込んだ。

 「犯人は橋の上からじゃなく、下から来たわ。小舟で橋脚に取り付いて、下からボルトを緩めた」

 舌の上で甘い塊が溶ける。少し塩気が混じっているのは、川風のせいかもしれない。


 「下から?」

 外交官が欄干から恐る恐る下を覗いた。

 「そんな馬鹿な。ここは急流だぞ。夜中に船を出すなんて自殺行為だ」


 「死にたくないから、必死だったみたいよ」

 私は欄干の冷たい鉄を撫でた。

 そこには、濡れたロープが擦れた熱の記憶が残っていた。


 ――落ちるな。滑る。

 ――報酬は金貨だ。前金は貰った。

 ――『和解の握手』が落ちる様を見ろ。


 「『和解の握手』……今回の式典の目玉ね」

 私が呟くと、レオニスが立ち上がった。

 「捕虜交換のクライマックス、両軍の代表が橋の中央で握手をする瞬間のことか」


 「そう。その瞬間に、足場が抜ける仕掛け」

 私はキャラメルを奥歯で噛んだ。歯にへばりつく粘度。

 「代表たちが川に落ちれば、事故じゃ済まない。両軍とも『相手が罠を仕掛けた』と思って、その場で撃ち合いになるわ」


 外交官が青ざめ、欄干にしがみついた。

 「中止だ! 今すぐ式典の中止を宣言しろ! 本国へ電報を……」


 「待て」

 レオニスが外交官の肩を掴んだ。

 「今中止すれば、敵側はどう思う?」

 「そ、それは……こちらの都合で……」

 「『敵前逃亡』あるいは『和平の拒絶』と受け取られる。最悪の場合、向こうから攻撃の口実にされるぞ」


 「じゃあどうしろと言うんですか! このままでは全員川底だ!」


 レオニスは霧の向こう、対岸の陣地を見据えた。

 向こう岸でも、設営のハンマー音が響いている。

 あちら側にも、この崩落を待っている「観客」がいるはずだ。


 「直す」

 レオニスは短く言った。

 「今夜中に、すべてのボルトを締め直す。式典の準備を装ってな」


 「一晩で? この橋のボルトが何本あると思っているんです!」

 「全部を調べる必要はない」

 レオニスは私を見た。

 「レティ、お前が探せ。緩んでいる箇所だけをピンポイントで指示しろ。工兵がその後ろから締めていく」


 私は口の中のキャラメルを飲み込んだ。

 喉が甘さで焼ける。

 

 「簡単に言うわね。残業代、弾んでくれるんでしょうね?」

 「特級手当を申請してやる」

 「交渉成立」


 *


 日が落ちると、川霧はいっそう濃くなった。

 作業用の投光器が点灯され、橋の上は人工的な昼間のように照らされている。

 表向きは「赤絨毯の敷設と装飾」という名目だ。

 派手なモールや旗を持った兵士たちの影で、レンチを持った工兵たちが這い回っていた。


 私は橋の中央、一番太い鉄骨のそばにしゃがみ込んでいた。

 膝が冷たい鉄板に触れる。


 「……ここ。右の三本目」

 私が指差すと、背後の工兵が即座にレンチを噛ませる。

 ギッ、という鈍い音がして、ナットが締め上げられる。

 

 ――回るな。緩いままでいろ。

 

 ボルトに残った犯人の「願い」が、締め付けられる圧力とともに消滅していく。

 私は次の場所へ移動した。


 「次、その支柱の裏。塗装が剥げてる部分」


 レオニスは私の護衛兼、現場監督として横に立っていた。

 彼は腕を組み、周囲の闇を警戒している。

 対岸からの視線を感じているのだ。


 「順調か」

 「今のところはね。でも、犯人は念入りよ。主要な支えはほとんど細工されてる」

 私は立ち上がり、腰を叩いた。

 冷え込みがきつい。コートを着ていても、川面からの冷気が骨に染みる。


 「休憩するか」

 レオニスがポケットから水筒を取り出した。

 「中身は?」

 「甘い紅茶だ。リサに持たされた」

 「気が利くわね、あの先生」


 私は水筒を受け取り、蓋を開けた。

 湯気と共に、砂糖の甘い香りが漂う。

 一口飲む。熱い液体が食道を温める。

 生きている心地がした。


 その時、橋の下から水音がした。

 魚が跳ねた音ではない。

 何かが、水を切って近づいてくる音。


 私は水筒を持ったまま凍りついた。

 耳を澄ます。

 

 ――気づかれたか。

 ――明かりが多い。

 ――確認しに行け。


 「……レオニス」

 私は水筒を彼に押し付けた。

 「客よ。船で来た」


 レオニスは即座に反応した。

 彼は水筒を受け取ると同時に、腰のホルスターのボタンを外した。

 「場所は」


 「真下。橋脚の点検用ハシゴに取り付いてる」

 私は欄干から身を乗り出そうとして、レオニスに首根っこを掴まれて引き戻された。

 「顔を出すな。撃たれるぞ」


 彼は工兵たちにハンドサインを送った。

 レンチを置いて伏せろ、という合図だ。

 工兵たちが音もなく影に溶ける。


 レオニスは欄干の影に身を隠し、ホルスターから拳銃を抜いた。

 カチャリ、とスライドを引く音が、川音に紛れる。


 「数は」

 「足音は二つ。でも、船に残ってる気配がもう一つある」

 

 鉄のハシゴがきしむ音が聞こえた。

 濡れた靴底が、金属を踏みしめる音。

 

 ――バレてない。

 ――上は作業中だ。

 ――仕上げに爆薬をセットすれば確実だ。


 「爆薬を持ってる」

 私が囁くと、レオニスの目が冷たく光った。

 「修理の手間が省けるな」


 ハシゴの最上段から、濡れた手袋の手が伸びてきた。

 黒いニット帽を被った男の顔が、欄干の隙間から覗く。


 男の目が、レオニスの銃口と合った。


 「……あっ」


 男が声を発するより早く、レオニスは引き金を引かなかった。

 代わりに、彼は欄干を乗り越え、男の顔面を軍靴の底で踏み抜いた。

 

 ゴッ、という鈍い音。

 男は悲鳴を上げる間もなく、ハシゴから剥がれ落ちていく。

 水音が一つ。


 「一人目」

 レオニスは欄干に着地し、下を見下ろした。

 

 「撃たないで!」

 私は叫んだ。

 「爆薬を持ってるって言ったでしょ! 撃ったら橋ごと飛ぶわよ!」


 レオニスは舌打ちをし、銃を収めた。

 「面倒な客だ」


 下から、二人目の男の怒声が聞こえた。

 「何をした! 野郎、気づいてやがったな!」


 何かが投げ上げられる音がした。

 カラン、と乾いた音がして、私の足元に黒い塊が転がってきた。

 導火線から、火花が散っている。


 「……嘘でしょ」

 私はその黒い塊――ダイナマイトの束――を見つめた。

 導火線は短い。

 私の脳内ラジオが、火薬の歓喜の声を拾った。


 ――燃える。弾ける。

 ――今だ。今だ。今だ。

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