表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
17/29

第17話 霧の境界線と緩んだボルト

 目が覚めると、窓の外はすでに白く光っていた。

 私は枕元の懐中時計を確認しようとして、それが支給されていないことに気づく。

 太陽の高さからして、正午は近い。

 久しぶりに泥のように眠った。夢も見なかったし、誰かの遺言も聞かなかった。


 「……平和ね」


 私は伸びをして、ベッドから這い出した。

 同室のミレイナはとっくに出勤しており、彼女のベッドは軍隊式に皺ひとつなく整えられている。

 机の上には、私のジャム瓶が鎮座していた。

 赤いガラスが陽光を透かし、部屋の床にルビー色の影を落としている。


 私はスプーンを手に取り、瓶の蓋を開けた。

 朝食代わりのひと匙。

 甘酸っぱい果肉が舌の上で解ける。

 これさえあれば、パンがなくても、オートミールが壁紙の糊のような味でも生きていける気がした。


 身支度を整える。

 新しい制服はないので、昨日と同じ軍用コートを羽織る。

 鏡の前で髪を撫でつけ、少しだけ表情筋をマッサージした。

 今日は「昼までに顔を出せ」と言われている。

 重役出勤だ。


 *


 管理局の本庁舎は、昨日までとは違う種類の熱気に包まれていた。

 正面玄関には黒塗りの高級車が何台も停まり、運転手たちが退屈そうにタバコを吹かしている。

 制服組の兵士よりも、仕立ての良いスーツを着た文官や、勲章をぶら下げた外交官らしき人々の姿が目立つ。


 私は職員証を首から下げ、人の波を縫って進んだ。

 すれ違う人々から漂うのは、整髪料とコロンの匂い。

 汗と泥の匂いは、建物の裏口や地下室へと追いやられているようだ。


 レオニスの執務室へ向かう廊下も、今日は騒がしかった。

 ドアの前で、一人の男が衛兵と押し問答をしている。

 背の低い、丸眼鏡をかけた男だ。腕に抱えた革の鞄を大事そうに撫でている。


 「だから、署名が一つ足りないと言っているんだ! このままでは捕虜の移送リストが確定しない!」

 「閣下は会議中です。後ほど……」

 「後ほどでは遅い! 式典は明後日なんだぞ!」


 私はその横をすり抜けようとした。

 男が私に気づき、眼鏡の奥の目を丸くした。

 「おい、君! そこの子供! コーヒーのおかわりか? ならこの書類もついでに……」


 「いいえ」

 私は足を止めずに答えた。

 「私は砂糖の配達人です。苦いコーヒーには用がないので」


 私は衛兵に職員証を見せ、呆気にとられる男を置いてドアを開けた。


 中は静かだった。

 レオニスは机に向かっているのではなく、窓際に立って外を眺めていた。

 背中越しに、彼が深い溜息をついたのがわかった。


 「……外の騒ぎは収まったか」

 彼が振り返る。

 「いいえ。署名が欲しい小男が一人、ドアの前で地団駄を踏んでるわ」

 「外交局の役人だ。放置しろ。サインした瞬間に、彼らは責任を俺に押し付けて逃げる気だ」


 レオニスは窓から離れ、ソファに掛けてあった外套マントを手に取った。

 いつもの実戦用のものではない。式典用の、金糸の刺繍が入った重厚なやつだ。

 

 「出かけるぞ」

 「どこへ? ランチ?」

 「国境だ。捕虜交換の現場視察に行く」


 私はコートのポケットに手を突っ込んだ。

 「私の仕事は? 荷物持ち?」

 「安全確認だ。外交官たちは、レッドカーペットの毛足の長さは気にするが、その下が腐っているかどうかには無頓着だからな」


 *


 王都を出ると、景色は急速に色を失っていった。

 復興が進む市街地を抜け、未舗装の街道に入る。

 車列は長い。

 先頭と最後尾に護衛の装甲車。真ん中に、外交団を乗せたバスと、私たちのような実務部隊のジープ。

 

 揺れる車内で、私は流れる風景を目で追った。

 かつて激戦地だった平原には、まだ塹壕の跡が傷跡のように残っている。

 だが、草が生え始め、遠くには放牧された羊の群れが見えた。

 平和に見える。

 地面の下に、まだ無数の鉄と骨が埋まっていることを除けば。


 「……ねえ」

 私は隣で地図を広げているレオニスに話しかけた。

 「捕虜交換って、感動の再会みたいな感じなの?」


 「表向きはな」

 レオニスは地図に赤いペンで印をつけながら答えた。

 「実際は、不用品の交換市だ。怪我をして働けなくなった兵士や、維持費のかかる古参兵を互いに押し付け合う。そのついでに、数人の重要人物が取引される」


 「夢がないわね」

 「夢を見る場所じゃない。清算する場所だ」


 車列が減速した。

 前方に、霧に包まれた巨大な影が見えてくる。

 国境の川に架かる、古い鉄橋だ。

 橋の中央にはバリケードが築かれ、両軍の旗が向かい合って翻っている。


 「着いたぞ」

 レオニスが地図を畳んだ。

 「ここから先は中立地帯だ。不用意に喋るな。壁に耳ありだ」

 「壁の耳より、私の耳のほうが性能はいいわよ」


 車を降りる。

 川風が冷たい。湿った空気がコートの隙間から入り込んでくる。

 橋の手前には、仮設のテント村ができていた。

 明後日の式典に向け、工兵たちが急ピッチで設営を進めている。

 演台を組み立てる金槌の音、発電機の唸り声、指揮官の怒鳴り声。


 私は深呼吸をした。

 ここには、古い死者の声はない。川の流れがすべてを洗い流しているようだ。

 聞こえるのは、生者の苛立ちと疲労のノイズだけ。


 「こっちだ」

 レオニスが橋の方へ歩き出す。

 橋のたもとでは、外交官たちが図面を広げ、立ち位置の確認をしている。

 

 「将軍! 遅いですよ!」

 先ほどの丸眼鏡の男が、どこからともなく現れて駆け寄ってきた。

 「捕虜の待機場所ですが、あそこのテントでは狭すぎます。映りが悪い」

 「映り?」

 「新聞社のカメラマンが入るんです。もっとこう、人道的な配慮が見える配置に……」


 レオニスは男の言葉を聞き流し、橋の構造材に触れた。

 塗装の剥げた鉄骨。

 

 私はその横に立ち、欄干に手を置いた。

 冷たい鉄の感触。

 

 ――回せ。もっとだ。

 

 声がした。

 死者の声ではない。

 「道具」の声だ。それも、つい最近、強い力で扱われた記憶。


 ――緩めるんじゃない。逆だ。締めすぎるな。遊びを作れ。


 職人の声ではない。もっと隠微で、焦燥感を含んだ思考の残響。


 「……レオニス」

 私は小声で呼んだ。

 外交官の男はまだ喋り続けている。「赤十字の旗の位置が」どうとか。


 「なんだ」

 レオニスが私に視線を向ける。


 「この橋、工事した?」

 「補強工事が行われたはずだ。先週完了している」


 「補強じゃなくて、細工かも」

 私は欄干のボルトを指先でなぞった。

 見た目は錆びついているが、そこから聞こえる音は新しい。


 ――油を差せ。錆びに見える塗料を塗れ。

 ――合図で落ちるように。


 「ボルトが緩められてる。錆びたように見せかけて、油が差してあるわ」

 私が告げると、レオニスの目が細められた。


 「場所は」

 「ここだけじゃない。橋の中央。一番大きな支柱のあたりから、金属が悲鳴を上げてる。『支えきれない』って」


 レオニスは外交官の話を遮った。

 「失礼。安全確認を行う」

 「は? 今ですか? しかし、リハーサルが……」


 「工兵!」

 レオニスは男を無視して叫んだ。

 近くで作業していた兵士たちが驚いて顔を上げる。

 「橋の中央ブロックを封鎖しろ。床板を剥がして、支柱の接合部を点検だ」


 「な、何を勝手な!」

 外交官が顔を真っ赤にする。

 「式典の進行に関わるぞ! 誰の許可で……」


 「事故が起きてからでは遅い」

 レオニスは私に顎で合図した。

 「案内しろ。どのボルトだ」


 私は橋の中央へと歩き出した。

 足元の鉄板が、微かに揺れる。

 川面からは白い霧が立ち上り、対岸の敵陣営を隠していた。

 

 聞こえてくるのは、ボルトの声だけではない。

 霧の向こうからも、何かドロドロとした「悪意」の残響が漂ってくる。

 単なる手抜き工事ではない。

 誰かが、この交換式そのものを「落とそう」としている。


 私はコートのポケットの中で、ジャム瓶の代わりに持ってきたキャラメルを握りしめた。

 甘い匂いはしない。

 ここにあるのは、冷たい鉄と、殺意の臭いだけだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ