第17話 霧の境界線と緩んだボルト
目が覚めると、窓の外はすでに白く光っていた。
私は枕元の懐中時計を確認しようとして、それが支給されていないことに気づく。
太陽の高さからして、正午は近い。
久しぶりに泥のように眠った。夢も見なかったし、誰かの遺言も聞かなかった。
「……平和ね」
私は伸びをして、ベッドから這い出した。
同室のミレイナはとっくに出勤しており、彼女のベッドは軍隊式に皺ひとつなく整えられている。
机の上には、私のジャム瓶が鎮座していた。
赤いガラスが陽光を透かし、部屋の床にルビー色の影を落としている。
私はスプーンを手に取り、瓶の蓋を開けた。
朝食代わりのひと匙。
甘酸っぱい果肉が舌の上で解ける。
これさえあれば、パンがなくても、オートミールが壁紙の糊のような味でも生きていける気がした。
身支度を整える。
新しい制服はないので、昨日と同じ軍用コートを羽織る。
鏡の前で髪を撫でつけ、少しだけ表情筋をマッサージした。
今日は「昼までに顔を出せ」と言われている。
重役出勤だ。
*
管理局の本庁舎は、昨日までとは違う種類の熱気に包まれていた。
正面玄関には黒塗りの高級車が何台も停まり、運転手たちが退屈そうにタバコを吹かしている。
制服組の兵士よりも、仕立ての良いスーツを着た文官や、勲章をぶら下げた外交官らしき人々の姿が目立つ。
私は職員証を首から下げ、人の波を縫って進んだ。
すれ違う人々から漂うのは、整髪料とコロンの匂い。
汗と泥の匂いは、建物の裏口や地下室へと追いやられているようだ。
レオニスの執務室へ向かう廊下も、今日は騒がしかった。
ドアの前で、一人の男が衛兵と押し問答をしている。
背の低い、丸眼鏡をかけた男だ。腕に抱えた革の鞄を大事そうに撫でている。
「だから、署名が一つ足りないと言っているんだ! このままでは捕虜の移送リストが確定しない!」
「閣下は会議中です。後ほど……」
「後ほどでは遅い! 式典は明後日なんだぞ!」
私はその横をすり抜けようとした。
男が私に気づき、眼鏡の奥の目を丸くした。
「おい、君! そこの子供! コーヒーのおかわりか? ならこの書類もついでに……」
「いいえ」
私は足を止めずに答えた。
「私は砂糖の配達人です。苦いコーヒーには用がないので」
私は衛兵に職員証を見せ、呆気にとられる男を置いてドアを開けた。
中は静かだった。
レオニスは机に向かっているのではなく、窓際に立って外を眺めていた。
背中越しに、彼が深い溜息をついたのがわかった。
「……外の騒ぎは収まったか」
彼が振り返る。
「いいえ。署名が欲しい小男が一人、ドアの前で地団駄を踏んでるわ」
「外交局の役人だ。放置しろ。サインした瞬間に、彼らは責任を俺に押し付けて逃げる気だ」
レオニスは窓から離れ、ソファに掛けてあった外套を手に取った。
いつもの実戦用のものではない。式典用の、金糸の刺繍が入った重厚なやつだ。
「出かけるぞ」
「どこへ? ランチ?」
「国境だ。捕虜交換の現場視察に行く」
私はコートのポケットに手を突っ込んだ。
「私の仕事は? 荷物持ち?」
「安全確認だ。外交官たちは、レッドカーペットの毛足の長さは気にするが、その下が腐っているかどうかには無頓着だからな」
*
王都を出ると、景色は急速に色を失っていった。
復興が進む市街地を抜け、未舗装の街道に入る。
車列は長い。
先頭と最後尾に護衛の装甲車。真ん中に、外交団を乗せたバスと、私たちのような実務部隊のジープ。
揺れる車内で、私は流れる風景を目で追った。
かつて激戦地だった平原には、まだ塹壕の跡が傷跡のように残っている。
だが、草が生え始め、遠くには放牧された羊の群れが見えた。
平和に見える。
地面の下に、まだ無数の鉄と骨が埋まっていることを除けば。
「……ねえ」
私は隣で地図を広げているレオニスに話しかけた。
「捕虜交換って、感動の再会みたいな感じなの?」
「表向きはな」
レオニスは地図に赤いペンで印をつけながら答えた。
「実際は、不用品の交換市だ。怪我をして働けなくなった兵士や、維持費のかかる古参兵を互いに押し付け合う。そのついでに、数人の重要人物が取引される」
「夢がないわね」
「夢を見る場所じゃない。清算する場所だ」
車列が減速した。
前方に、霧に包まれた巨大な影が見えてくる。
国境の川に架かる、古い鉄橋だ。
橋の中央にはバリケードが築かれ、両軍の旗が向かい合って翻っている。
「着いたぞ」
レオニスが地図を畳んだ。
「ここから先は中立地帯だ。不用意に喋るな。壁に耳ありだ」
「壁の耳より、私の耳のほうが性能はいいわよ」
車を降りる。
川風が冷たい。湿った空気がコートの隙間から入り込んでくる。
橋の手前には、仮設のテント村ができていた。
明後日の式典に向け、工兵たちが急ピッチで設営を進めている。
演台を組み立てる金槌の音、発電機の唸り声、指揮官の怒鳴り声。
私は深呼吸をした。
ここには、古い死者の声はない。川の流れがすべてを洗い流しているようだ。
聞こえるのは、生者の苛立ちと疲労のノイズだけ。
「こっちだ」
レオニスが橋の方へ歩き出す。
橋のたもとでは、外交官たちが図面を広げ、立ち位置の確認をしている。
「将軍! 遅いですよ!」
先ほどの丸眼鏡の男が、どこからともなく現れて駆け寄ってきた。
「捕虜の待機場所ですが、あそこのテントでは狭すぎます。映りが悪い」
「映り?」
「新聞社のカメラマンが入るんです。もっとこう、人道的な配慮が見える配置に……」
レオニスは男の言葉を聞き流し、橋の構造材に触れた。
塗装の剥げた鉄骨。
私はその横に立ち、欄干に手を置いた。
冷たい鉄の感触。
――回せ。もっとだ。
声がした。
死者の声ではない。
「道具」の声だ。それも、つい最近、強い力で扱われた記憶。
――緩めるんじゃない。逆だ。締めすぎるな。遊びを作れ。
職人の声ではない。もっと隠微で、焦燥感を含んだ思考の残響。
「……レオニス」
私は小声で呼んだ。
外交官の男はまだ喋り続けている。「赤十字の旗の位置が」どうとか。
「なんだ」
レオニスが私に視線を向ける。
「この橋、工事した?」
「補強工事が行われたはずだ。先週完了している」
「補強じゃなくて、細工かも」
私は欄干のボルトを指先でなぞった。
見た目は錆びついているが、そこから聞こえる音は新しい。
――油を差せ。錆びに見える塗料を塗れ。
――合図で落ちるように。
「ボルトが緩められてる。錆びたように見せかけて、油が差してあるわ」
私が告げると、レオニスの目が細められた。
「場所は」
「ここだけじゃない。橋の中央。一番大きな支柱のあたりから、金属が悲鳴を上げてる。『支えきれない』って」
レオニスは外交官の話を遮った。
「失礼。安全確認を行う」
「は? 今ですか? しかし、リハーサルが……」
「工兵!」
レオニスは男を無視して叫んだ。
近くで作業していた兵士たちが驚いて顔を上げる。
「橋の中央ブロックを封鎖しろ。床板を剥がして、支柱の接合部を点検だ」
「な、何を勝手な!」
外交官が顔を真っ赤にする。
「式典の進行に関わるぞ! 誰の許可で……」
「事故が起きてからでは遅い」
レオニスは私に顎で合図した。
「案内しろ。どのボルトだ」
私は橋の中央へと歩き出した。
足元の鉄板が、微かに揺れる。
川面からは白い霧が立ち上り、対岸の敵陣営を隠していた。
聞こえてくるのは、ボルトの声だけではない。
霧の向こうからも、何かドロドロとした「悪意」の残響が漂ってくる。
単なる手抜き工事ではない。
誰かが、この交換式そのものを「落とそう」としている。
私はコートのポケットの中で、ジャム瓶の代わりに持ってきたキャラメルを握りしめた。
甘い匂いはしない。
ここにあるのは、冷たい鉄と、殺意の臭いだけだ。




