第16話 苺の種
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水道の蛇口を捻ると、錆の混じった水が勢いよく迸った。
私は石鹸を泡立て、指の股から爪の間まで、執拗に擦り合わせる。
あの安置所の、腐敗と川泥の臭いが皮膚に張り付いている気がしたからだ。
冷たい水が、泡と一緒に指先の熱を奪っていく。
「皮が剥けるぞ」
背後からタオルが差し出された。
私は蛇口を閉め、濡れた手をタオルに押し付けた。ゴワゴワとした粗い感触が心地よい。
「精神的な汚れは水じゃ落ちないのよ」
「物理的な汚れは落ちている。それで十分だ」
レオニスは洗面台の鏡越しに私を見た。
「顔色が戻ったな」
「糖分の在庫があるうちは大丈夫よ」
私はタオルを返し、懐のジャム瓶の位置を確かめた。
あの死体が囁いた名前――『アナスタシア』。
その響きが、喉の奥に刺さった小骨のように引っかかっている。
だが、レオニスには言わなかった。
言えば、私は「便利な道具」から「調査対象」に変わる。
この男は、職務のためなら私を解剖台に乗せることも躊躇わないだろう。
「行くぞ。今日の日報を片付ける」
レオニスが歩き出す。
私は鏡の中の自分――煤けた顔と、サイズの合わない軍用コートを着た小娘――に一度だけ舌を出し、その後を追った。
*
夜の執務室は、昼間とは違う静けさに満ちていた。
窓の外はすでに暗く、街灯の明かりがガラスに滲んでいる。
レオニスはヴァレクの机から押収した証拠品を金庫にしまい、重いダイヤルを回した。
ガチャリ、という金属音が、一日の終わりを告げる。
「これでヴァレクと、その背後の繋がりを洗える」
彼はデスクに戻り、一枚の書類を手に取った。
「それと、これだ」
彼が差し出したのは、厚手のカードだった。
私の顔写真――入局時に無愛想なカメラマンに撮られたもの――が貼られ、ラミネート加工されている。
『戦後処理局・特別調査員』という肩書きと、管理局の紋章。
「出来ていたのか」
私はカードを受け取り、光に透かしてみた。
「臨時、の文字が消えてるわね」
「今日から正式採用だ。身分証があれば、本局の食堂と資料室、それに地下の武器庫以外へは自由に出入りできる」
「武器庫はダメなの?」
「お前に爆薬を持たせたら、暖房代わりに使いそうだからな」
レオニスは皮肉っぽく口の端を上げた。
彼は引き出しから、万年筆と青い染料の瓶を取り出した。
「それから、給与の振込先口座だ。総務課に開設させた」
通帳らしき手帳が渡される。
中を開くと、すでに初任給と思われる金額が記載されていた。
「……悪くない額ね。これなら毎日ジャムが買える」
「無駄遣いするな。冬は長い。薪代と毛布代に消えるぞ」
レオニスは椅子に深く腰掛け、天井を仰いだ。
長い一日だった。
放火未遂、汚職の摘発、そして死体との対話。
彼の顔にも、隠しきれない疲労の色が滲んでいる。
「……帰っていいぞ。明日は早朝の呼び出しはしない。昼までに顔を出せ」
「あら、明日は鶏と一緒に起きなくていいの?」
「俺が起きられない。少し寝かせてくれ」
珍しく弱音を吐いた彼に、私は少しだけ親近感を覚えた。
この鉄面皮の将軍も、やはり人間なのだ。
「了解。ゆっくり休んで、ボス」
私は身分証と通帳をポケットにしまい、執務室のドアノブに手をかけた。
「あ、そうだ」
私は振り返った。
「『絡み合う二匹の蛇』の記章。あれ、調べておいてね」
レオニスの目が鋭くなった。
「わかっている。情報部に照会をかけているが、古い紋章だ。公には廃止されたはずの」
「廃止されたものが川底から出てくるなんて、ロマンがあるわね」
「悪趣味なロマンだ」
彼は手を振って私を追い払った。
私は苦笑し、部屋を出た。
背後で、彼が再び書類に向き合う音が聞こえた。
*
寮までの夜道は寒かった。
街灯の下を歩くと、自分の影が長く伸びたり縮んだりする。
私は新しい身分証を指で弄んだ。
『レティ』。
そこに記された名前は、私自身が選んだものだ。
『アナスタシア』ではない。
寮の玄関をくぐると、管理人の部屋からラジオの音が漏れていた。
明るい音楽。戦争が終わったことを祝うような、軽快なジャズ。
階段を登り、部屋のドアを開ける。
部屋の中は暖かかった。
同室のミレイナはすでにパジャマに着替え、ベッドの上で本を読んでいた。
「おかえり。遅かったわね」
彼女は本から目を離さずに言った。
「食堂、もう閉まってるわよ。夕飯どうしたの?」
「将軍の執務室で乾パンを少々」
「うわ、可哀想。味気ない生活ね」
「そうでもないわ」
私はコートを脱ぎ、ハンガーに掛けた。
そして、大切に抱えていたジャムの瓶を机の上に置いた。
赤いガラスが、ランプの光を受けて宝石のように輝く。
「それ、ミレイ商会の?」
ミレイナが身を乗り出した。
「高級品じゃない! どこで手に入れたの?」
「ちょっとした人助けのお礼」
「へえ。一口ちょうだい」
「スプーン一杯だけよ」
私は引き出しからスプーンを取り出し、瓶の蓋を開けた。
甘酸っぱい香りが、狭い部屋の空気を塗り替える。
スプーンですくった赤い果肉を口に含む。
種のつぶつぶとした食感と、濃厚な甘さが広がる。
「……んん、美味しい」
ミレイナもスプーンを舐めて頬を緩ませた。
「やっぱり本物は違うわね。食堂のゼリーとは大違い」
私は窓ガラスに映る自分の顔を見た。
そこには、ジャムの甘さに満足している、ただの少女がいた。
耳を澄ませてみる。
箪笥の裏からも、廊下からも、死者の声は聞こえない。
聞こえるのは、ミレイナがページをめくる音と、遠くを走る馬車の蹄の音だけ。
――逃げろ。銀の耳の……。
あの声が脳裏をよぎる。
私はそれを、ジャムと一緒に飲み込んだ。
今は考えない。
私には、帰る部屋があり、明日食べるための給料があり、そして甘いジャムがある。
それだけで十分だ。
「もう寝るわ。明日は昼まで寝る予定だから」
「いいご身分ね。私は朝からタイプライターと格闘よ」
ミレイナはランプを少し絞った。
私はベッドに潜り込み、毛布を頭まで被った。
暗闇の中で、ポケットの中の身分証を握りしめる。
プラスチックの角が掌に食い込む痛みだけが、確かな現実だった。
私はレティ。戦後処理局の調査員。
それ以外の何者でもない。
少なくとも、この瓶のジャムが空になるまでは。




