第15話 川底の呼び声
憲兵たちの足音が遠ざかっていく。
ヴァレク少佐は抵抗しなかった。ただ、青ざめた顔で床を見つめ、両脇を抱えられて倉庫から引きずり出されていった。彼が座っていた革張りの椅子には、座面の形が変わるほどの重みが残っていたが、主人はもういない。
「……手際はいいのね」
ミレイが腕を組み、ハンドバッグを肩にかけ直した。
彼女のワインレッドのドレスは泥と埃で汚れていたが、背筋はピンと伸びている。
「でも、私の損害が消えたわけじゃないわ。腐った麦の代金と、ブランドへの風評被害。請求書は分厚くなるわよ」
「正規の手続きを踏め」
レオニスはヴァレクの机に残された書類――配給チケットの束と、裏帳簿らしきメモ――を鞄に詰め込みながら答えた。
「管理局の財務課が対応する。ただし、支払いは査問会が終わってからだ」
「気が長い話ね。私の商会の運転資金が尽きる前に終わらせてほしいものだわ」
ミレイは私の方を向いた。
視線が、私が胸に抱えているジャム瓶に落ちる。
「そのジャム、早めに食べなさいよ。防腐剤は入っていないから」
「ええ。カビが生える前に胃袋に収めるわ」
「そう。……また会いましょう、レティ。気が変わったら、いつでも私の店に来なさい」
彼女はレオニスに軽く会釈をし、ヒールの音を高く響かせて倉庫を出て行った。
外から、彼女の部下たちを叱咤する声が聞こえてくる。
倉庫には、私とレオニス、そして壁際に直立する二人の衛兵だけが残された。
酸っぱい麦の匂いが、まだ鼻腔に張り付いている。
「戻るぞ」
レオニスが鞄の口を閉じた。
「この証拠品を本部に登録しなきゃならん。お前の仕事もまだ残っている」
「残業?」
「報告書の作成だ。俺が書くが、お前の証言が必要になる」
私はジャム瓶の冷たいガラスを撫でた。
「……パンがあれば付き合うわ」
*
帰りのジープは、行きよりも速度が出ていた。
レオニスは無言でハンドルを握り、視線を前方に固定している。
街灯が点灯し始めていた。王都の夕暮れは早い。
レンガ造りの建物の影が伸び、道行く人々の顔を隠していく。
私は助手席で、ジャム瓶の蓋を回した。
固い。
力を込める。
ポン、という軽い音がして真空が破れ、甘酸っぱい香りが車内に広がった。
埃と排気ガスの臭いが、一瞬で上書きされる。
私はポケットから、朝の残りのビスケットを取り出した。
砕けて粉々になっているが、味に変わりはない。
指でジャムを掬い、ビスケットの欠片に乗せる。
口に放り込む。
強烈な甘みが舌を打ちのめす。脳の裏側が痺れるような感覚。
「……生き返る」
私は息を吐いた。
「将軍も食べる?」
「運転中だ。それに、車内を汚すな」
「落ちないように舐めるから大丈夫よ」
私は二口目を運んだ。
糖分が血管を巡り、冷え切っていた手足に熱が戻ってくる。
ヴァレクの机から聞こえた、あのドロドロとした欲望の声の余韻が、少しずつ薄れていく。
管理局の正門が見えてきた。
巨大な鉄の門が、牙を剥くようにそびえ立っている。
衛兵がゲートを開ける。
ジープは減速せず、滑り込むように敷地内へ入った。
車を降りると、本庁舎の入り口に人だかりができていた。
担架が運び込まれている。
濡れたシートが被せられ、そこから滴る水が地面に黒い点々を描いていた。
「……なんだ?」
レオニスが眉を顰めた。
近くにいた職員が駆け寄ってくる。
「閣下! 川から揚がったそうです。カラス橋の下流で、漁師の網に掛かったと」
「身元は」
「所持品はありませんが、服装からして……ミレイ商会の御者かと」
ミレイが言っていた、襲われた荷馬車の御者だ。
殺されて、川に捨てられたのだろう。
レオニスが私を見た。
言葉はない。だが、その目は明確に「仕事だ」と告げていた。
私はジャム瓶の蓋を閉めた。
甘い時間は終了だ。
私はビスケットの粉がついた指を舐め取り、レオニスの背中を追って人だかりの方へ歩いた。
*
遺体は、地下の安置所ではなく、一時保管室のステンレス台に乗せられていた。
川の水と泥、そして腐敗のガスが混ざった強烈な臭気が充満している。
濡れたシートの下で、膨張した肉塊が沈黙していた。
部屋には私とレオニス、そして記録係の事務官が一人だけ。
事務官はハンカチで鼻と口を覆い、顔を背けている。
「……酷い状態だな」
レオニスは表情を変えずにシートを捲った。
顔は判別できないほど損壊している。魚に食われたのか、川底の岩にぶつかったのか。
「レティ」
レオニスが促す。
私は一歩近づいた。
ジャムの甘い余韻はもうない。胃の奥が冷たくなる。
私は台の縁に手を置いた。
耳を澄ます。
水を含んだ衣服。泥の詰まった爪。止まった心臓。
――寒い。暗い。
――息ができない。
溺死の苦しみがダイレクトに伝わってくる。
私は顔をしかめたが、耐えた。その先にある記憶を探る。
死の直前。誰に会ったか。何を聞いたか。
――止まれ。検問だ。
――嘘だ。こんな時間に検問なんて。
――顔を見られた。
男の声だ。怯えている。
――フードの男。銀色の記章。
――『始末しろ』。
「……検問を装った襲撃ね」
私は呟いた。
「フードの男たちが馬車を止めた。銀色の記章をつけていたって」
レオニスがメモを取る。
「記章の形はわかるか」
私はさらに深く潜った。
男の最期の視覚情報。網膜に焼き付いた残像を音声に変換する。
――蛇だ。絡み合う二匹の蛇。
――そして、あの女。
ノイズが混じる。
男の記憶の中で、誰かが馬車の荷台を覗き込んでいる。
――生きてる。まだ赤ん坊じゃないか。
――いや、この目は……。
男の意識が混濁している。
彼は死ぬ間際、馬車の荷台に隠れていた「何か」を見たようだ。麦袋ではない。
「……レオニス」
私は顔を上げた。
「この人、麦以外のものを見てる。荷台に誰かが隠れてたみたい」
「密航者か?」
「わからない。でも、襲撃者の一人が、それを見て驚いてる」
私は再び集中した。
襲撃者の声。御者の耳に残った、犯人の言葉。
――『探していたのはこれだ』。
――『コーデリアの忘れ形見』。
――『確保しろ。殺すな』。
「……『コーデリアの忘れ形見』」
私がその言葉を口にした瞬間、部屋の空気が変わった気がした。
レオニスのペンが止まる。
そして、遺体の残響が、私に向かって直接語りかけてきた。
いや、私ではない。
私の中にある「何か」に反応している。
――お前か。
――お前が、あの時の子供か。
――逃げろ。銀の耳の……『アナスタシア』。
私の心臓が大きく跳ねた。
アナスタシア。
知らない名前だ。私の名前はレティだ。番号か、あるいは愛称のような短い響きしか持っていないはずだ。
なのに、その名前を聞いた瞬間、背筋に電流が走ったような悪寒がした。
「……レティ?」
レオニスが私の顔を覗き込んでいる。
「どうした。顔色が悪い」
私は台から手を離し、一歩後ずさった。
「……なんでもない。ただ、水を含んだ服の音が気持ち悪かっただけ」
私は嘘をついた。
レオニスに言うべきではない気がした。
この死体は、私を「アナスタシア」と呼んだ。
それは、ただの御者が知るはずのない名前だ。
「情報は以上だ」
私はコートのポケットの中で、震える手を握りしめた。
「犯人は『二匹の蛇の記章』を持つ集団。目的は麦のすり替えと……『積み荷』の誘拐」
レオニスは私をじっと見つめていたが、やがて視線を外し、事務官に向いた。
「聞いたな。二匹の蛇の紋章について調査班を動かせ。極秘だ」
私は大きく息を吸い込んだ。
腐敗臭の中に、甘いジャムの香りが幻のように混じっていた。
私の平穏な職場は、思ったよりも足場が脆い場所に建っているのかもしれない。




