第14話 カビた麦
ジープの後部座席で、ミレイは不満そうに髪を直していた。
サスペンションの硬い車体が段差を乗り越えるたび、彼女の豊満な体が跳ね、ワインレッドのドレスが擦れる音がする。
「御者の腕が悪いのか、馬の質が悪いのか、どちら?」
彼女がバックミラー越しにレオニスを睨む。
レオニスはハンドルを握ったまま、視線だけを動かして答えた。
「この車は貴婦人をエスコートするために作られていない。砲弾と死体を運ぶためのものだ」
「あら、じゃあ乗っている私は死体扱い?」
「口が動くうちは生者としてカウントしてやる」
私は助手席で、懐のジャム瓶を両手で押さえていた。
ガラスが肋骨に当たる。
この振動で瓶が割れ、貴重な糖分がコートの裏地と一体化することだけは避けなければならない。
「……着いたぞ」
レオニスがブレーキを踏む。
車体がつんのめるように停車した。
目の前には、巨大な倉庫群が広がっている。
レンガ造りの建物が規則正しく並び、その間をトラックや荷馬車が行き交っていた。
空気には独特の匂いがある。乾燥した埃と、油と、そして大量の穀物が発酵したような酸っぱい匂い。
ミレイはドアを開け、地面に降り立った。
泥のついたハイヒールで地面を強く踏む。
その瞬間、彼女の顔つきが変わった。
車内での不平屋の貴婦人の顔は消え、獲物を前にした狩人の顔になる。
「案内なさい、将軍。私の麦をゴミ扱いした担当者はどこ?」
レオニスは無言で歩き出した。
私はジャム瓶の無事を確認し、慌ててその後ろにつく。
*
案内されたのは、倉庫群の奥まった場所にある建物だった。
入り口には衛兵が立っていたが、レオニスの顔を見ると、慌てて直立不動の姿勢をとる。
私たちはフリーパスで中に入った。
倉庫の中は薄暗い。
天井近くの明かり取りの窓から、埃の舞う光の筋が差し込んでいる。
床には麻袋が山のように積まれていた。
その一角、仮設の事務スペースのような場所に、一人の男がいた。
小太りの男だ。
制服のボタンが腹の肉で悲鳴を上げている。彼は机の上で、何かを必死に分類していた。
近づくと、それが切手のコレクションだとわかった。
ピンセットで小さな紙片を摘み、台紙に貼り付けている。
横には食べかけの焼き菓子と、湯気の立つ紅茶。
ここだけ別世界の優雅さだ。
「……優雅なご身分ね、ヴァレク少佐」
ミレイが声をかけた。
氷のような冷たさを含んだ声だ。
男――ヴァレク少佐は、ピンセットを取り落とした。
「うわっ! ……なんだ、ミレイ商会の女か」
彼は慌てて切手帳を閉じ、紅茶のカップを引き寄せた。
「アポイントメントもなしに困りますな。ここは軍の重要施設だ」
彼は慌てて足を下ろし、立ち上がろうとした。
「座っていろ」
レオニスが低く言った。
「話がある」
私は部屋の中を歩き回った。
男の机の横にある、鉄製のロッカー。
その取っ手から、強い残留思念が響いている。
――重い。鍵をかけた。
――誰も見ない。
――封筒に入った金貨。厚い。
「ねえ」
私はロッカーの前で立ち止まった。
「このロッカー、随分と嬉しそうね」
男の目が泳いだ。
「……何の話だ。備品入れだ」
彼は事務的に、後ろの麻袋の山を指差した。
「現物があそこにある。異臭が酷いので、早急に引き取ってもらいたい」
ミレイが眉を吊り上げる。
口を開きかけた彼女を、レオニスが手で制した。
「レティ」
レオニスが私を見た。
「翻訳だ」
私はため息をつき、麻袋の山へ歩み寄った。
酸っぱい匂いが強くなる。
カビと湿気の匂いだ。
私は一番手前の袋に手を触れた。粗い麻の感触。湿っている。
耳を澄ます。
穀物の声ではない。袋に染み込んだ「水」と「場所」の記憶を聞く。
――冷たい。流される。
――暗い橋の下。
――入れ替えろ。急げ。
男たちの声が聞こえる。昨日の食堂で聞いたのと同じ声だ。
だが、今回はもっと鮮明だ。彼らが「報酬」を受け取った時の音が混ざっている。
――重いな。硬貨じゃない。
――紙だ。軍票だぞ。
――『特別配給チケット』だ。酒と交換できる。
私は手を離し、ヴァレクの方を向いた。
「……麦を詰め替えた作業員たち、お酒が好きみたいね」
私が言うと、ヴァレクの眉がピクリと動いた。
「何の話だ」
「報酬の話よ。金貨じゃなくて、軍票でもなくて、『特別配給チケット』で支払われたって袋が言ってるわ」
私はレオニスを見た。
「ねえ将軍。特別配給チケットって、誰が発行できるの?」
レオニスの目が細められた。
「補給部隊の佐官以上の権限だ。一般の市場には出回らない」
ヴァレクがカップを置く音が、カチャリと大きく響いた。
「……子供の戯言だ。証拠にもならない」
「そうね。戯言かもしれない」
私はヴァレクの机に近づいた。
彼が隠そうとした切手帳の脇に、鍵のかかった引き出しがある。
そこから、強い「紙」の音がする。
束になった紙が、窮屈そうに押し込められている音。
――出せ。使わせろ。
――酒に変えろ。女を買わせろ。
「その引き出し」
私は指差した。
「中身、切手じゃないわよね? 未使用の配給チケットの束が、早く使ってくれって騒いでる」
ヴァレクの顔から血の気が引いた。
彼は無意識に引き出しの前に体を滑り込ませ、鍵穴を隠そうとした。
レオニスがゆっくりと歩み寄る。
軍靴の音が、死刑執行の足音のように響いた。
「ロッカーを開けろ」
命令だった。
男は震える手でポケットを探った。
鍵を取り出す。
それは軍の支給品のような真鍮製ではなく、銀色に光る新しい鍵だった。
「……違います、これは、ただ預かっただけで……」
男は言い訳をしようとしたが、レオニスの冷ややかな視線に射抜かれ、言葉を飲み込んだ。
彼は諦めたように鍵穴に鍵を差し込んだ。
カチャリ。
乾いた音がして、扉が開く。
中には、分厚い茶封筒が入っていた。
口が開いており、中から金貨の側面が覗いている。
「あら、随分と景気がいいのね」
私は口笛を吹いた。
「私の給料の十年分くらいありそう」
ミレイが封筒をひったくった。
中身を確認し、封筒の角にある小さな透かし模様を見つける。
「やっぱり。バルドの紋章よ」
彼女は男の顔に封筒を突きつけた。
「これで言い逃れはできないわよ。私の商売を邪魔して、ライバルから金を受け取った。軍法会議と、私の個人的な損害賠償請求、どっちが怖い?」
男は椅子に崩れ落ちた。
「……命令されたんだ。俺だって、やりたくなかった」
「誰に命令された?」
レオニスが問う。
「……言えない。言ったら殺される」
男は首を振った。
「バルド貿易だけじゃない。もっと上の……管理局の人間が絡んでる」
空気が凍りついた。
ただの商売敵の足の引っ張り合いではない。
もっと深い、組織的な腐敗の根がここにある。
「……へえ」
私は懐のジャム瓶を握り直した。
どうやらこのジャムは、思った以上に高い代償を要求してくるらしい。
甘い蜜の先には、大抵の場合、苦い毒が待っているものだ。




