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無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


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第131話 流れる泥

 西の空に浮かんでいた赤黒い月が地平線に沈む頃、私たちは街の境界を越えた。

 カイルは頭から布を被り、荷物を積んだ毛の長い獣の手綱を握って立っていた。レオニスが近づき、獣の背中から水袋を外し、自分の肩に掛け直す。

 無言のまま、カイルが先頭を歩き出した。


 舗装された地面が途切れ、乾いた砂が靴底を沈み込ませる。

 一歩踏み出すごとに、足首まで砂に埋まり、引き抜くのに余計な筋肉を使わされる。

 私はコートの裾を持ち上げ、前を行くレオニスの足跡を正確に踏んで歩いた。彼が踏み固めた場所なら、少しはマシだ。


 「……労働環境が最悪よ」

 私はブーツの中に入り込んだ砂の感触に顔をしかめた。

 「危険手当に加えて、靴の買い替え費用も請求するからね」

 「経費の申請は任務が終わってからだ」

 レオニスは振り返らずに答え、腰のポーチから布を取り出した。

 彼は立ち止まり、その布を私の頭からすっぽりと被せた。

 「日が昇る。首の後ろを焼かれたくなければ、被っておけ」


 東の空が白み始めると、空気の温度が急激に跳ね上がった。

 風が止む。

 熱された大気が肌に張り付き、汗が瞬時に噴き出しては乾燥していく。

 私は布の隙間から、波打つ砂の斜面だけを見つめて歩き続けた。


 先頭のカイルが、ふと足を止めた。

 彼は砂丘の陰に身を屈め、手を上げて私たちを制止する。

 レオニスが即座に膝をつき、私を自分の背後に引き寄せた。


 ブルルルル。


 内燃機関の排気音が、熱気を通して伝わってくる。

 砂を蹴り上げるタイヤの駆動音。

 私は頭の布を少しめくり、耳を澄ませた。

 エンジンの音に混じって、乗っている男たちの思考が流れ込んでくる。


 ――暑い。

 ――早く帰って酒が飲みたい。

 ――こんな場所、誰も通るわけないだろう。


 「……やる気のない連中ね」

 私は砂の上に腹ばいになり、レオニスの耳元で囁いた。

 「パトロールの車両よ。仕事の愚痴と、冷たい酒のことしか考えてないわ。勤務態度がなってない」

 「ならば、監査してやる必要があるな」

 レオニスは腰のホルスターから銃を抜いた。

 「だが、ここは隠れる場所がない。見つかるのは時間の問題だ」


 見渡す限り、岩場も木陰もない。

 ただの砂の斜面だ。


 私は砂の表面に手のひらを当てた。

 熱い。

 だが、その奥底から、エンジンの振動とは全く違う音が鼓膜を叩いていた。


 チョロチョロ。

 ゴボッ。


 水だ。

 表面は乾ききっているが、地中深くに水脈が通っている。

 水が砂の層を内側から溶かし、空洞を作り出している場所がある。


 「レオ」

 私は前方の斜面を指差した。

 「あそこの少し窪んだ場所。色が少し濃くなってる部分。あそこの下、泥になってるわ」

 「流砂か」

 「ええ。表面の砂が蓋をしてるだけよ。重いものが乗れば抜ける」


 カイルが私の指差した場所を見て、小さく頷いた。

 

 「使えるな」

 レオニスは銃の撃鉄を起こし、砂丘の稜線を見上げた。

 「俺が誘導する。お前たちはここに伏せていろ」


 彼は立ち上がり、砂を蹴って斜面を駆け上がった。

 稜線に姿を現した瞬間、エンジンの音が跳ね上がった。


 「いたぞ! 侵入者だ!」

 男の叫び声が響く。

 ダダダッ、と乾いた発砲音が連続し、レオニスの足元の砂が弾け飛ぶ。


 レオニスは立ち止まらず、窪みの方向へ向かって斜面を滑り降りた。

 彼の背後から、幅の広いタイヤを履いたバギーが砂丘を越えてくる。

 荷台に備え付けられた機関銃が、火を噴きながら彼を追う。


 レオニスは私の指定した窪みの手前まで走ると、急激に方向を変え、安全な硬い砂の層へと飛び退いた。


 追ってくるバギーの運転手は、最短距離で彼を轢き殺そうとハンドルを切った。

 前輪が、色の濃い砂の表面に乗り上げる。


 ズボッ。


 タイヤが砂を蹴る音はしなかった。

 砂そのものが液状化し、車体を飲み込む。

 バギーの前半分が一瞬で沈み込み、後輪が空転して泥を巻き上げる。


 「うわっ!」

 運転手と射手が、慣性の法則に従って前のめりに放り出された。

 彼らは泥状の砂の中に落ち、這い上がろうともがく。もがけばもがくほど、砂は彼らの足を引きずり込んでいく。


 レオニスは立ち止まり、銃を構えた。

 引き金を引く必要すらない。

 男たちは泥まみれになり、武器を取る余裕も失っていた。


 私は砂丘の陰から立ち上がり、布の上の砂を払った。

 「見事な泥遊びね」

 私はもがく男たちを見下ろした。

 「これなら、冷たい酒を飲む前にシャワーが必要よ」


 レオニスは銃を下ろし、周囲を警戒した。

 「長居は無用だ。他のパトロールが来る前に距離を稼ぐ」


 カイルが手綱を引き、獣を歩かせた。

 男たちが泥の中から助けを求める声を出したが、レオニスは一瞥もせずに背を向けた。


 「喉が渇いたわ」

 私が言うと、レオニスは歩きながら水筒を後ろへ差し出した。

 「ぬるいが、我慢しろ」


 私は水筒を受け取り、口に含んだ。

 革の臭いが移った生ぬるい水だが、砂で荒れた喉にはこれ以上ない報酬だ。

 

 「給料分の働きはしたわよ」

 私は水筒を返した。

 「ボーナスは、冷たい氷水でお願いね」


 レオニスは水筒を腰に戻し、無言で前を向いた。

 太陽はさらに高く昇り、私たちの影を短くしていく。

 砂の下からは、男たちの絶望する思考音が次第に遠ざかり、やがて風の音に溶けて消えた。

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