表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

130/150

第130話 乾いたグラス

 『砂漠の薔薇』のドアは、蝶番ちょうつがいが悲鳴を上げるほど重かった。

 レオニスが肩で押し開けると、店内の薄暗さと共に、強烈な酒の臭気が鼻孔を襲った。

 発酵した麦と、安物の蒸留酒、そして何日も洗っていない男たちの体臭が混ざり合った、えた臭い。


 「……薔薇ね」

 私は鼻を手で覆いながら呟いた。

 「枯れて腐った薔薇の匂いなら、看板に偽りなしだわ」


 店の中は満席に近かった。

 粗末な木のテーブルを囲んでいるのは、港でたむろしていた男たちよりもさらに柄の悪い連中だ。

 日焼けした肌に傷跡を晒し、腰にはナイフや銃を無造作にぶら下げている。

 私たちが足を踏み入れると、騒がしかった会話のボリュームが少しだけ下がった。

 値踏みする視線。

 余所者を見る、粘着質な目。


 レオニスは視線を無視し、カウンターの空いた席へ向かった。

 座面が破れたスツールに腰を下ろす。

 私も隣によじ登った。足が床につかない。


 「何にする」

 バーテンダーが布巾でグラスを拭きながら聞いた。片目に眼帯をした、無愛想な男だ。

 「水だ」

 レオニスが答える。

 「酒はあるが、水は売り切れだ」

 「氷が解けたやつでいい」


 バーテンダーは片眉を上げ、カウンターの下から茶色い瓶を取り出した。

 グラスに注ぐ。

 濁った液体。

 「特別サービスだ。腹を壊しても知らんぞ」


 レオニスは銀貨をカウンターに滑らせた。

 そして、グラスには口をつけず、低い声で切り出した。

 「人を探している」

 「誰だ。借金取りならお断りだ」

 「砂漠のガイドだ。西の岩山まで案内できる人間が欲しい」


 バーテンダーの手が止まった。

 店内の空気が、ピリリと張り詰める。

 近くのテーブルでカードをしていた男たちが、手を止めてこちらを見ていた。


 「……岩山だと?」

 バーテンダーが声を潜めた。

 「あそこは『蛇』の巣だ。近づくだけで撃たれるぞ」

 「用があるのはその『蛇』だ」


 ドッ、と店内で笑い声が上がった。

 嘲笑だ。

 

 「おいおい、聞いたかよ」

 後ろのテーブルにいた男が、椅子を揺らして絡んできた。

 禿頭に刺青を入れた大男だ。

 「都会の兄ちゃんが、蛇退治だってよ。観光気分か?」

 「可愛いお嬢ちゃん連れで、ピクニックのつもりらしいぜ」


 男たちが下卑た視線を私に向ける。

 私はカウンターの上のピーナッツの殻を指で弾いた。

 

 耳を澄ます。

 男たちの心音。

 嘲笑っているが、その奥には深い恐怖が根を張っている。


 ――関わるな。

 ――『蛇』の名前を出すな。

 ――聞かれたら俺たちまで殺される。


 彼らは笑うことで、自分たちの恐怖を誤魔化しているだけだ。

 『蛇』の支配は、この酒場の隅々にまで浸透している。


 「……やめておけ」

 バーテンダーが忠告した。

 「誰も行きたがらんよ。金の問題じゃない。命の問題だ」


 「金なら弾む」

 レオニスがさらに数枚の銀貨を積み上げた。

 「水と食料もこちらで用意する。道を知っているだけでいい」


 誰も手を挙げない。

 沈黙が広がる。

 レオニスがため息をつき、グラスを手に取ろうとした時だった。


 店の奥、一番暗い隅の席から、微かな音が聞こえた。

 

 カリッ。

 カリッ。


 何かを削る音。

 あるいは、研ぐ音。

 リズムが一定だ。

 そして、その音には、周囲の男たちの恐怖とは違う、もっと熱くて硬い感情が乗っていた。


 ――殺す。

 ――殺す。

 ――あの男を。必ず。


 「……いるわね」

 私はレオニスの袖を引いた。

 「志願者よ。金目当てじゃなく、復讐目当ての」


 レオニスが振り返る。

 隅の席に、小柄な人影があった。

 頭からボロボロの布を被り、顔を隠している。

 手元にはナイフ。

 テーブルの端で、刃を研いでいるのだ。


 私たちが視線を向けると、影が立ち上がった。

 ゆっくりとこちらへ歩いてくる。

 足音がしない。

 砂の上を歩くことに慣れた、独特の運び足だ。


 カウンターの隣に立つ。

 フードの下から、鋭い瞳が覗いた。

 子供だ。

 私と同じくらいの年齢の少年。肌は褐色で、頬には部族の証らしき白いペイントが施されている。


 「……俺が行く」

 少年の声は、乾いた砂のようにざらついていた。

 「岩山への道なら知っている。風の読み方も、流砂の場所もな」


 「ガキかよ!」

 さっきの禿頭の男が野次を飛ばす。

 「やめとけ兄ちゃん。そいつは『砂の民』の生き残りだ。嘘つきだぞ」


 少年は男を無視し、レオニスだけを見据えた。

 「条件がある」

 「言ってみろ」


 「俺を連れて行け。案内はする。だが、奴らのアジトに着いたら、俺は俺のやり方で動く。止めるな」


 レオニスは少年の手元を見た。

 握りしめられたナイフ。

 柄は古びた骨で作られ、何かの革紐が巻かれている。

 

 私は耳を澄ませた。

 そのナイフから聞こえる音。


 ――兄さん。

 ――父さん。

 ――返せ。返せ。


 遺品だ。

 このナイフには、死者の無念と、少年の執着が焼き付いている。


 「……『蛇』に何か奪われたのね」

 私が聞くと、少年はビクリと反応した。

 「家族か? それとも誇り?」


 「……全部だ」

 少年はナイフをさやに収めた。

 「集落は焼かれた。動ける者は連れ去られ、動けない者は殺された。俺だけが逃げ延びた」

 彼は唇を噛み締めた。

 「取り戻すんだ。連れて行かれた姉を」


 北の工場。

 王都の地下。

 そして南の帆船。

 どこでも同じことが行われている。

 『蛇』は人間を材料として消費しているのだ。


 レオニスがカウンターの上のグラスを手に取った。

 「名前は」

 「……カイル」

 「いいだろう、カイル。採用だ」


 レオニスはグラスを少年に差し出した。

 「飲め。契約の盃だ」


 カイルは躊躇ためらったが、グラスを受け取り、一気に飲み干した。

 むせそうになるのを堪え、手の甲で口を拭う。

 「……不味い水だ」

 「同感だ」


 レオニスは立ち上がり、銀貨をカウンターに残した。

 「出発はいつにする」

 「夜明け前だ」

 カイルが即答する。

 「日が昇れば砂漠は灼熱になる。夜の間に距離を稼ぐ」


 「わかった。港の入り口で落ち合おう」


 私たちは店を出ようとした。

 その時、後ろから禿頭の男が立ち上がり、カイルの肩を掴んだ。

 「おいおい、ガキ。調子に乗るなよ。お前みたいなのが……」


 カイルが動くより早く、レオニスが振り返った。

 手にはいつの間にか、店を出るために手に取った帽子――ではなく、カウンターにあったガラスの灰皿が握られている。


 ガシャッ!


 レオニスは灰皿を男の顔面に叩きつけた。

 吸い殻とガラス片が飛び散る。

 男は悲鳴を上げて顔を覆い、のけぞった。


 「……俺のガイドに触るな」

 レオニスは冷ややかに言い捨てた。

 「手が汚れる」


 店内の男たちが一斉に立ち上がろうとしたが、レオニスの殺気と、私の冷めた視線に気圧され、動きを止めた。

 彼らは本能で悟ったのだ。

 この余所者は、ただの観光客ではないと。


 私たちは堂々と店を出た。

 外の風は、相変わらず砂の味がした。

 だが、その中に、新たな者の匂いが混じっていた。


 「……やるじゃない、ボス」

 私はポケットの飴を取り出し、口に入れた。

 「灰皿代、また請求されるわよ」

 「必要経費だ」


 カイルは無言でフードを被り直し、闇の中へと消えていった。

 約束の時間には必ず来るだろう。

 彼のナイフが、血を求めて鳴いているのが聞こえたからだ。


 西の空に、赤黒い月が浮かんでいた。

 明日は長い旅になる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ