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無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


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第13話 商人の嗅覚

 執務室の空気は、古紙の埃と乾いた糊の匂いで淀んでいた。

 私の目の前には、人の背丈ほどもある書類の山が積まれている。

 『未処理』の箱から一枚取り出し、内容を確認し、『廃棄』か『保管』の箱へ放り込む。その単純作業の繰り返しだ。


 「……ねえ、将軍」

 私は手元の紙を『廃棄』の箱へ投げ入れた。

 「私の契約内容に、事務官の真似事は含まれていたかしら」


 レオニスは奥の重厚な机に向かい、羽ペンを走らせていた。

 「『業務遂行に必要な雑務』に含まれる。それに、お前を一人で外に放り出しておくと、どこで拾い食いをするかわからん」

 「失敬な。私が拾うのは有益な情報と、食べられる草だけよ」


 私は次の書類を手に取った。

 戦死公報の控えだ。名前の欄が滲んで読めない。

 紙の繊維から、微かな声がする。


 ――書き直せ。名前が違う。

 ――俺はまだ生きている。


 事務的なミスの残留思念だ。

 私はため息をつき、それを『要確認』の山へ回した。

 この部屋は静かだが、書類の一枚一枚が小さな墓標のように囁いてくる。


 その時、廊下から騒がしい足音が近づいてきた。

 革靴が床を蹴る、硬質で性急なリズム。

 それに続いて、制止しようとする衛兵の困惑した声が響く。


 「お待ちください! アポイントメントが……」

 「どきなさい。通るわよ」


 バン、と執務室のドアが乱暴に開かれた。

 風が吹き込み、私の積み上げた書類の塔が崩れそうになる。


 入ってきたのは、昨日の食堂で見たワインレッドのドレスの女――商人ミレイだった。

 ただし、昨日のような完璧な装いではない。

 ドレスの裾は泥で汚れ、綺麗に巻かれていた髪も少し解れている。ハイヒールのかかとには、乾いた草がこびりついていた。

 徹夜でどこかを歩き回ってきた証拠だ。


 「……騒がしいな」

 レオニスはペンを置き、顔を上げた。

 「ミレイ商会の代表か。苦情なら窓口へ行け」


 「苦情じゃないわ。取引よ」

 ミレイはレオニスの机まで大股で歩み寄ると、ハンドバッグから薄汚れた木片を取り出し、磨かれた天板の上に叩きつけた。

 ゴトッ、と重い音がする。


 「これは?」

 「橋の欄干の破片よ。昨日の夜中、泥の中を這いずり回って見つけてきたの」

 ミレイは勝ち誇ったように言った。

 「カラス橋の下に、荷馬車の車輪跡が残っていたわ。それも、軍の輸送車両と同じ幅のわだちがね。そしてこの破片には、私の商会の荷馬車に使っている塗料が付着している」


 レオニスは木片を手に取り、付着した塗料を指で擦った。

 「……なるほど。積み替えの痕跡か」


 「ええ。誰かが私の荷馬車を襲い、中身を腐った麦と入れ替え、空になった馬車を川へ突き落とそうとして失敗した。欄干にぶつかった跡があったわ」

 ミレイは腕を組んだ。

 「憲兵隊を動かして。場所は特定したわ。川底をさらえば、私の紋章が入った馬車が見つかるはずよ」


 レオニスは木片を机に戻した。

 「状況証拠としては十分だ。だが、よく一晩でそこまで辿り着いたな。あの橋は街道から外れた場所にある」


 ミレイの視線が動いた。

 レオニスから外れ、書類の山に埋もれている私へ向く。

 鋭い、値踏みするような目だ。


 「情報源がいたのよ」

 彼女は私の前まで歩いてきた。

 香水の匂いに混じって、川泥の生臭さが漂ってくる。

 「昨日の食堂で、すれ違いざまに囁いたのは貴女ね?」


 私は書類を整理する手を止めなかった。

 「人違いでは? 私はただの事務員です」

 「とぼけないで。その灰色のコート、見覚えがあるわ」


 ミレイは私の机に両手をつき、顔を近づけてきた。

 「なぜ知っていたの? 積み替えの時間も、場所も、天候まで正確だった。あんな夜中に、あんな場所に人がいるはずがない」


 「……幽霊が見たと言ったら、信じますか?」

 私は顔を上げ、彼女の目を見た。

 緑色の瞳には、恐怖ではなく、純粋な好奇心と計算の色が浮かんでいる。


 「幽霊でも悪魔でもいいわ」

 ミレイは即答した。

 「使える情報なら、出所は問わないのが商人のルールよ」

 彼女はハンドバッグを開け、中から小さなガラス瓶を取り出した。

 それを私の目の前に置く。


 「お礼よ。受け取りなさい」


 瓶の中身は、鮮やかな赤色だった。

 イチゴのジャムだ。果肉がたっぷりと残り、砂糖の結晶が光を反射している。

 軍の配給には絶対に出てこない、本物の嗜好品。


 私の喉が鳴った。

 書類整理の手が止まる。


 「……賄賂ですか」

 「先行投資よ」

 ミレイはニヤリと笑った。

 「貴女、名前は?」

 「レティ」

 「いい名前ね。レティ、私のところで働かない? 給料は今の倍出すわよ。それに、毎日こんなジャムが食べ放題」


 「断る」

 横から冷たい声が割って入った。

 レオニスがいつの間にか私の背後に立っていた。

 「その職員は、現在管理局との専属契約中だ。引き抜きは困る」


 「あら、将軍閣下」

 ミレイは怯まずに振り返った。

 「契約期間は? 違約金はいくら? 私が肩代わりしてもいいのよ」

 「金の問題ではない。彼女は国家機密に関わる業務を担当している」


 レオニスは私の肩に手を置いた。

 所有権を主張するような重みだ。

 「それに、彼女は甘いものに目がないが、飼い主を変えるほど安くはない」


 「そうかしら?」

 ミレイは私を見た。

 「どう、レティ? 堅苦しい軍隊より、商会のほうが自由よ」


 私は机の上のジャム瓶を手に取った。

 ずっしりとした重み。蓋を開けなくても、濃厚な甘い香りが想像できる。

 オートミール生活からの脱却。魅力的な提案だ。

 

 私は瓶を両手で抱え込み、レオニスを見上げた。

 「将軍、このジャムは没収?」


 「……報酬の一部として認める」

 レオニスは溜息混じりに言った。

 「だが、移籍は認めん」


 「だ、そうよ」

 私はミレイに向き直り、瓶を懐にしまった。

 「残念ながら、今の職場は福利厚生に『将軍の護衛』がついてるの。商会より安全そうだから、残るわ」


 ミレイは肩をすくめた。

 「残念。でも、借りは返したわよ」

 彼女はレオニスに向き直り、表情を引き締めた。

 「さて、将軍。犯人の目星はついているんでしょうね? 私の商売を邪魔した人間に、きっちりと落とし前をつけさせたいのだけれど」


 「ああ」

 レオニスは壁に掛けてあった外套を手に取った。

 「案内しよう。お前が川底から馬車を引き上げるより早く、証拠を掴める場所がある」


 「どこへ?」

 「補給部隊の倉庫だ。腐った麦を受け入れた担当者が、まだそこに座っているはずだ」


 レオニスは私に顎をしゃくった。

 「行くぞ、レティ。ジャムの分は働け」


 私は立ち上がり、コートの埃を払った。

 懐のジャム瓶が、カチリとボタンに当たる音がした。

 悪くない重みだ。

 私は空っぽだった胃袋に、これから詰め込まれるであろう甘味の予感を抱きながら、二人の背中を追った。

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