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無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


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第129話 熱砂の港

 船のエンジンが停止した時、船内を支配していた低い唸り声が消え、代わりに波が船腹を叩く音だけが残った。

 私は甲板のデッキチェアで目を覚ました。

 まぶたの裏が赤い。

 目を開けると、強烈な白い光が視界を刺した。南の海のような爽やかな日差しではない。肌を焦がし、水分を奪い取る、暴力的な熱線だ。


 「……暑い」

 私は呻いて起き上がった。

 喉が張り付いている。

 「ねえ、レオ。空調が壊れたの? それとも、ボイラーが爆発してここが灼熱地獄になったとか?」


 隣のチェアで地図を広げていたレオニスが、汗を拭いもせずに答えた。

 「ボイラーは無事だ。だが、推進軸が歪んでいる。無理をして嵐を突破したツケだ」

 彼は地図を折りたたみ、水平線を顎で示した。

 「自力航行は限界だそうだ。近くの港に緊急入港した」


 私は手すりに歩み寄り、下を見下ろした。

 そこには、青い海も、白い石畳の美しい港もなかった。

 

 茶色。

 視界の全てが、乾いた黄土色に塗りつぶされていた。

 錆びついた桟橋。崩れかけたレンガの倉庫。そして、その向こうに広がる、どこまでも続く砂の大地。

 風が吹くたびに、細かい砂煙が舞い上がり、街全体を霞ませている。


 「……どこよ、ここ」

 「西の最果てだ」

 レオニスが荷物を肩に担いだ。

 「地図には『渇きの港』と記されている。正規の航路からは外れた、密輸船や海賊が水を補給するためだけに寄る場所だ」


 タラップが下ろされる音がした。

 金属が擦れる乾いた音が、鳥の鳴き声一つしない静寂に響く。

 他の乗客たちは、客室から出てこようとしない。窓のカーテンを閉め切り、この荒涼とした景色を拒絶しているようだった。


 「降りるぞ」

 レオニスが歩き出す。

 「船の修理には一週間はかかるそうだ。待っていれば干物になる」

 「降りても干物になりそうだけどね」


 私はコートを脱ぎ、腕に抱えた。

 シャツ一枚でも汗が噴き出してくる。

 私たちはタラップを降り、乾いた大地に足を下ろした。

 ジャリ、という音がして、靴が砂に埋もれる。


 *


 港には、活気というものが欠落していた。

 荷揚げをするクレーンは動いておらず、赤錆が浮いて化石のようだ。

 数人の男たちが、建物の日陰に座り込んで、虚ろな目でこちらを見ている。

 彼らの肌は土色に焼け、唇は乾いてひび割れていた。


 「水……」

 男の一人が手を伸ばしてきた。

 「水をくれ……」


 レオニスは足を止めず、腰の水筒を外して男に投げた。

 男はそれを拝むように受け取り、震える手で蓋を開けて飲み干した。

 周りの男たちが羨ましそうに見ている。


 「気前がいいのね」

 私が言うと、レオニスは空になった水筒が転がるのを見届けてから答えた。

 「情報料だ。この街の『相場』を知るためのな」


 私たちはメインストリートらしき道を進んだ。

 両脇には日干し煉瓦の家が並んでいるが、扉は閉ざされ、窓には板が打ち付けられている。

 風が吹くと、砂が顔に当たって痛い。

 口の中がジャリジャリする。


 広場に出た。

 中央には井戸があったが、蓋がされ、南京錠が掛かっている。

 その横に、粗末なテントを張った露店が一軒だけ出ていた。

 店主は太った男で、扇風機の前で氷入りのグラスを揺らしている。

 この街で唯一、潤いを持っている人間だ。


 「水をくれ」

 レオニスがカウンターに銀貨を置いた。

 店主は銀貨を一瞥し、鼻で笑った。

 「足りねえよ、兄ちゃん」

 「銀貨一枚だぞ。王都なら樽で買える」

 「ここは王都じゃねえ。砂の国だ」


 店主はグラスの水滴を指で拭った。

 「ここでは水は銀と同じ価値がある。コップ一杯、銀貨三枚だ」


 「……暴利ね」

 私が口を挟むと、店主は嫌らしい目つきで私を見た。

 「嫌なら砂でも噛んでな。次の給水船が来るのは来月だ」


 レオニスは無言で銀貨を二枚追加した。

 店主はニヤリと笑い、汚れたガラス瓶に水を注いだ。

 濁っている。

 泥と鉄の臭いがする水だ。


 レオニスはそれを受け取り、私に渡した。

 「飲め。腹を下さない程度には濾過されている」

 「ありがとう。泥水も飲み慣れればスープみたいなものよ」


 私は一口飲んだ。

 生ぬるい。

 だが、細胞が歓喜するのを感じる。


 「……ねえ、レオ」

 私は水を飲みながら、周囲を見回した。

 広場の隅、建物の屋上、そして路地の影。

 そこには、住民ではない男たちが立っていた。

 彼らは武器を持っている。銃だ。

 そして、その腕には見覚えのある腕章が巻かれていた。


 絡み合う二匹の蛇。


 「気づいている」

 レオニスは視線を動かさずに言った。

 「監視されているな。この街全体が、巨大な検問所のようなものだ」


 耳を澄ます。

 乾いた風の音。砂が擦れる音。

 その奥にある、街の呼吸音を聞く。


 ――見るな。

 ――話すな。

 ――逆らえば水を止められる。


 住民たちの思考は、恐怖と渇きで干からびていた。

 北の教団のような熱狂的な洗脳ではない。

 もっと原始的な、生存本能を人質に取った支配。

 「水が欲しければ従え」。シンプルで、最強の脅迫だ。


 「……ここが入り口ね」

 私は瓶の水を飲み干した。

 「この砂漠の向こうに、奴らの巣がある。この街は、その門番に飼われているただの家畜小屋だわ」


 レオニスは店主に向き直った。

 「砂漠を越えたい。ガイドはいるか」


 店主の手が止まった。

 周囲の空気が凍りつく。

 監視役の男たちが、一斉にこちらを見た気配がした。


 「……死にたいのか?」

 店主は声を潜めた。

 「砂漠は『蛇』の庭だ。許可なき者が入れば、二度と帰っては来ない」

 「許可証なら持っている」

 レオニスは腰の銃を軽く叩いた。

 「通行料は鉛で払う」


 店主は顔を引きつらせ、首を振った。

 「知らねえよ。ガイドなんていねえ。とっとと失せな」

 彼はシャッターを下ろすような勢いで背を向けた。


 私たちは広場を離れた。

 視線が背中に突き刺さる。

 

 「歓迎されてないわね」

 「想定内だ」

 レオニスは砂埃を避けるように、スカーフで口元を覆った。

 「だが、誰もが『蛇』に従っているわけではないはずだ。支配が強ければ強いほど、歪みが生まれる」


 彼は路地の奥、古びた酒場の看板を見つけた。

 『砂漠の薔薇』。

 名前負けしているボロボロの店だ。

 だが、そこからは微かに、反抗的な音楽のベース音が漏れ聞こえていた。


 「行くぞ。まともな酒と、口の軽い情報屋を探す」

 「賛成。ついでに、泥水じゃない飲み物もね」


 私たちは砂を踏みしめ、薄暗い店の中へと足を踏み入れた。

 外の熱気とは違う、男たちの熱気が渦巻く場所へ。

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