第128話 傾く甲板
甲板へのハッチを押し開けた瞬間、暴力的な風雨が顔面を叩いた。
呼吸が止まる。
口の中に入ってきたのは酸素ではなく、塩辛い海水と雨の混合物だった。
私はレオニスのベルトを掴み、飛ばされないように踏ん張った。
「……天気予報は大外れね」
私は大声で叫んだが、その声はすぐに風に拐われて消えた。
「『波高し』どころじゃないわ。洗濯機の中よ!」
船体は大きく傾いていた。
右へ、左へ。
床板は雨で濡れて黒く光り、不用意に足を置けばそのまま海へ滑り落ちる滑り台と化している。
照明は落ちたままだ。
時折走る稲妻が、甲板上のシルエットを白く浮かび上がらせては、また闇に戻す。
その明滅の中、一人の男が立っていた。
船首楼の近く。
手すりに背を預け、嵐など存在しないかのように佇む影。
「……待っていたぞ、レオニス」
オズワルドの声は、風音を突き抜けて届いた。
彼は濡れたコートの襟を立て、帽子を押さえている。
「ボイラーの圧力は下がったようだな。私の計算よりも早かった」
レオニスが歩み寄る。
彼は銃を構えてはいなかった。この風では弾道が逸れるし、濡れた火薬が発火する保証もない。
彼は腰からナイフを抜いた。
北の山で熊を追い払うのに使った、無骨なサバイバルナイフだ。
「計算通りにいかないのが現場だ、大佐」
レオニスが間合いを詰める。
「あんたの計画は穴だらけだ。船は沈まんし、乗客も死なん」
「そうかな」
オズワルドは懐から警棒のようなものを取り出した。
振ると、ジャキッと金属が伸びる。先端に鋭利なスパイクがついた特殊警棒だ。
「船が沈まなくても、船長が消えれば船は迷走する。そして、邪魔な部下が消えれば、私の不快感も解消される」
彼は構えた。
隙がない。
足場が悪いのをものともせず、重心を低く保っている。
「……レティ、下がっていろ」
レオニスが私を制した。
「ここからは技術と経験の勝負だ。流れ弾の心配はないが、流れ落ちる心配はある」
「言われなくてもマストにしがみついてるわよ」
私は近くのウィンチに体を固定し、ロープを腕に巻き付けた。
濡れた甲板での格闘戦。
レオニスは疲労している。機関室での連戦に加え、この嵐だ。
対するオズワルドは万全の状態に見える。
オズワルドが動いた。
速い。
雨で滑る床を利用し、スケートのように距離を詰める。
警棒が横薙ぎに振るわれる。
ガキン!
レオニスがナイフで受け止める。
火花が散った。
重い衝撃音が響き、二人の体が密着する。
「腕は鈍っていないようだな」
オズワルドが警棒を押し込みながら笑う。
「だが、呼吸が乱れている。機関室で無駄に体力を使いすぎたな」
「……あんたが楽をしている分、誰かが汗をかかなきゃならんのでな」
レオニスが膝を入れて距離を取る。
船が大きく傾いた。
左舷側が持ち上がり、右舷が海面に突っ込むような角度になる。
「おっと」
オズワルドはよろめきもせず、傾斜に合わせてステップを踏んだ。
逆にレオニスは、濡れた床に足を取られ、膝をつきそうになる。
「足元がお留守だぞ」
オズワルドの警棒が振り下ろされる。
レオニスは転がりながら回避したが、コートの肩口が裂けた。
分が悪い。
この揺れの中では、平衡感覚に優れたオズワルドが有利だ。
彼は船の動きを予測しているかのように動く。
「……予測?」
私はウィンチにしがみつきながら考えた。
違う。彼は予測しているんじゃない。
波のリズムを知っているだけだ。
でも、波は不規則だ。完全に読むことはできない。
耳を澄ます。
風の唸り。波の衝撃音。
そして、船体そのものの軋み。
キリキリ、ギギギ……。
鉄骨が悲鳴を上げている。
船の骨組みは、波の衝撃を受ける直前に、水圧で歪んで音を立てる。
その音を聞けば、次はどちらに、どれくらいの角度で傾くかがわかる。
――右から来る。
――大きいぞ。
――船首が持ち上がる。
船体の声が聞こえる。
「……レオ!」
私は雨の中で叫んだ。
「右! 大きく傾くわ! 三秒後!」
レオニスが私を見た。
説明はいらない。彼は私の耳を信じている。
彼は体勢を低くし、右側の手すり方向に体重をかけた。
逆に、オズワルドは左からの攻撃を仕掛けようと踏み込んだ瞬間だった。
ドォォォォン!!
巨大な波が右舷に激突した。
船が急激に左へ傾く。
予期せぬ角度。
踏み込んでいたオズワルドの足が浮いた。
「なっ……」
彼のバランスが崩れる。
レオニスはその傾斜を利用した。
彼は滑り落ちるような勢いで加速し、無防備になったオズワルドの懐に飛び込んだ。
ナイフは使わない。
タックルだ。
全体重を乗せた肩が、オズワルドの腹部にめり込む。
「がはっ!」
オズワルドの体が吹き飛ぶ。
彼は甲板を滑り、船尾の手すりに激突した。
錆びた手すりが、衝撃でひしゃげる。
船が揺り戻しを始める。
今度は逆方向への傾斜。
「……終わりだ、大佐」
レオニスが起き上がり、肩で息をした。
オズワルドは手すりにもたれかかり、苦しげに咳き込んでいた。
警棒はどこかへ飛んでいっている。
「……見事だ」
オズワルドは口元の血を拭った。
「波を読んだか。いや、そこの嬢ちゃんの入れ知恵か」
彼は私を見て、ニヤリと笑った。
「便利な道具を持ったな、レオニス。だが、道具に頼りすぎると、自分の勘が鈍るぞ」
「道具ではない。相棒だ」
レオニスが告げる。
「あんたには理解できんだろうがな」
「ああ。理解できん」
オズワルドは手すりに手をかけ、立ち上がろうとした。
その時。
彼が背にしていた手すりの支柱が、金属疲労の限界を迎えた。
バキン。
乾いた音がして、手すりが外れる。
支えを失ったオズワルドの体が、背中から暗い海へと傾いた。
「あっ」
レオニスが手を伸ばす。
オズワルドも反射的に手を伸ばした。
指先が触れ合う距離。
だが、オズワルドは掴もうとはしなかった。
彼は伸ばした手を握り込み、拳を作った。
そして、笑った。
皮肉げで、どこか満足そうな笑みを浮かべて。
「……さらばだ」
彼は自ら後ろへ倒れ込んだ。
闇の中へ。
荒れ狂う波間へ。
「大佐!」
レオニスが手すりに駆け寄る。
ドボォン。
水音が一度だけ聞こえ、すぐに波音にかき消された。
レオニスはしばらく海面を見下ろしていたが、白い泡以外には何も浮かんでこなかった。
「……落ちたの?」
私はロープを解いて近づいた。
「ええ。自分から手を離した」
レオニスは濡れた髪をかき上げ、空を見上げた。
雨が目に入り、洗い流していく。
「死んだと思う?」
「あの高さと、この波だ。普通なら助からん」
彼は言いながらも、どこか確信を持てないような顔をしていた。
「だが、奴は一度死んで蘇った男だ。地獄の底に別荘でも持っているのかもしれん」
船の揺れが、少しだけ穏やかになった気がした。
嵐が去ったわけではない。
ただ、船内の「殺意」という重りが消えたことで、船が軽くなったような感覚だ。
「戻ろう」
レオニスが私の肩を抱いた。
「風邪を引く。それに、船長に報告しなきゃならん。進路がずれている」
私たちはハッチへと向かった。
振り返ると、壊れた手すりの向こうには、どこまでも続く暗い海だけが広がっていた。
オズワルドの歌声は、もう聞こえない。
ただ、嵐の風音だけが、古い軍歌のように低く唸り続けていた。




