第127話 蒸気の断末魔
ガンッ!
鼓膜を劈く金属音が、狭い前室に響き渡った。
敵の放った銃弾が、レオニスの構えた中華鍋の底で弾かれ、火花となって散る。
分厚い鋳鉄製の鍋には、白く削れた痕が残ったが、貫通はしていない。
「……調理器具にしては頑丈だな」
レオニスは鍋を盾にしたまま、低い姿勢で距離を詰めた。
「厨房の備品だ。あとで弁償しろよ」
「請求書はオズワルドに回す」
彼は鍋を振りかざし、一番近くにいた兵士の側頭部を殴りつけた。
ゴォン、という鐘のような音がして、兵士が崩れ落ちる。
残る三人が散開し、十字砲火を浴びせようと動く。
「行け、レティ!」
レオニスが叫ぶ。
「ここは俺が引き受ける。お前は中だ!」
私は頷き、彼が作った隙を突いて奥の扉へと走った。
背後で激しい銃声と、鍋が弾丸を弾く音が連続する。
レオニスなら大丈夫だ。フライパンで暗殺者を撃退した男が、中華鍋を持って負けるはずがない。
私はハンドルのついた重い防水扉を回した。
プシュッ、と蒸気が漏れる音がして、ロックが外れる。
扉を押し開ける。
途端に、熱波と轟音が私を飲み込んだ。
*
機関室は、巨大な獣の胃袋の中のようだった。
三階層分はある高い天井まで、パイプと歯車が埋め尽くしている。
中央には巨大なボイラーが鎮座し、その横でピストンが激しく往復運動を繰り返していた。
ガション、ガション、という駆動音が、会話を不可能にするほどの音量で響いている。
「……暑い」
私はコートのボタンを外した。
汗が瞬時に吹き出す。
赤い非常灯の下で、数人の機関士たちが計器にかじりついていた。
彼らはスパナやハンマーを握りしめ、何かを叫び合っているが、轟音にかき消されている。
私は手近な手すりに掴まり、下のフロアを見下ろした。
ボイラーの圧力計の針が、危険なレッドゾーンを指して震えている。
そして、その基部に、異質なものが取り付けられていた。
黒い箱。
そこから伸びるコードが、ボイラーの制御弁に直結されている。
耳を澄ます。
ピストンの轟音、蒸気の噴出音。
それらの隙間に、チクタクという無機質なリズムが刻まれている。
――時間だ。
――弾けろ。
――すべてを鉄屑に変えろ。
「……見つけた」
私は階段を駆け下りた。
機関士の一人が私に気づき、血相を変えて近寄ってきた。油まみれの初老の男だ。機関長だろう。
「おい! ここは立ち入り禁止だ! 客が来ていい場所じゃねえ!」
男が怒鳴る。
「圧力が下がらないんだ! 今にも爆発するぞ!」
「知ってるわよ!」
私も負けじと声を張り上げた。
「あそこの箱! あれが弁を固定してるんでしょ!」
私は黒い箱を指差した。
機関長が顔を歪める。
「ああ! 変な連中が押し入ってきて、それを取り付けていきやがった! 外そうとしたら火花が出たんだ! 下手に触ると起爆するぞ!」
「どいて。私がやる」
私は機関長を押しのけ、ボイラーの前にしゃがみ込んだ。
熱い。
鉄板からの輻射熱で、顔の皮が乾いていく。
箱はシンプルな作りだった。
だが、中身の構造は悪意に満ちている。
私は箱に耳を当てた。
――赤い線は罠だ。
――青い線はダミー。
――揺らすな。水銀スイッチが入っている。
「……面倒なオモチャね」
私はポケットから、レオニスが買った『戦術開缶器』を取り出した。
先端をドライバーに変形させる。
「北で使ったのと同じタイプかと思ったけど、少し改良されてるわ」
「嬢ちゃん、わかるのか!?」
機関長が背後でオロオロしている。
「静かにして。手が滑ったら、あんたも私も蒸し焼きよ」
私は慎重に箱のカバーのネジを回した。
震える指を、逆の手で押さえる。
船が波で大きく揺れた。
カタン。
箱の中で、水銀が動く音がした。
――傾いた。
――接触する。
――起爆シークエンス、準備。
「……待って待って」
私は息を止めた。
「まだよ。まだ爆発したくないでしょ?」
カバーが外れた。
中には、ダイナマイトの束と、複雑に絡み合った配線が詰まっていた。
タイマーの数字が、残り五分を切っている。
オズワルドは、私たちがここまで辿り着く時間さえ計算に入れていたのだ。
「ニッパーはある?」
私が手を出すと、機関長が腰の工具袋からペンチを渡してくれた。
「切れ味は悪いぞ」
「繋がってさえいなければいいわ」
私は配線の森を見つめた。
どの線を切ればいいのか。
北の工場では「黄色」だった。
だが、ここでは色が違う。すべてが黒い被覆で覆われている。見た目での判別は不可能だ。
「……意地悪」
私は目を閉じた。
線の内部を流れる、微弱な電流の音を聞く。
一本目。ジーッという低い音。これは電源だ。
二本目。無音。ダミー。
三本目。チリチリとしたノイズ。
――切るな。
――切れば回路が閉じる。
――ドカンだ。
これは罠だ。
残るは、ボイラーの裏側に回り込んでいる四本目の線。
そこから、命令信号のようなパルス音が聞こえる。
――維持しろ。
――圧力を逃がすな。
――弁をロックし続けろ。
「……これね」
私は四本目の線をペンチの刃に挟んだ。
「機関長、私がこれを切ったら、すぐにバルブを開けて。圧力を逃がして」
「あ、ああ! わかった!」
機関長がバルブのハンドルに手をかける。
深呼吸。
汗が目に入るが、拭う余裕はない。
船がまた大きく揺れる。
その揺れに逆らわず、私はペンチに力を込めた。
パチン。
感触が消えた。
箱の中から聞こえていた殺意の音が、フッと途切れる。
「今よ!」
「うおおおお!」
機関長がハンドルを回す。
プシュゥゥゥ――ッ!!
凄まじい音がして、安全弁から蒸気が噴き出した。
白い煙が視界を覆う。
圧力計の針が、ゆっくりとレッドゾーンから下がり始めた。
「……助かった」
機関長がその場にへたり込んだ。
「止まった……圧力が下がる……」
私は工具をしまい、箱の蓋を閉めた。
ただのガラクタに戻った爆弾。
「礼には及ばないわ。船が沈んだら私も困るもの」
私は立ち上がり、ふらつく足で階段を登った。
まだ終わりではない。
これは前座だ。
ボイラーを止めても、この騒ぎを引き起こした元凶が残っている。
前室に戻る。
扉を開けると、そこには静寂があった。
床には四人の兵士が転がっている。
そして、部屋の中央で、レオニスが中華鍋を杖代わりにして立っていた。
鍋の底はボコボコに凹み、彼のシャツは汗と煤で汚れているが、立っている。
「……終わったか」
彼が私を見て、短く聞いた。
「ええ。圧力は下がったわ。船は沈まない」
「上出来だ」
レオニスは凹んだ鍋を放り投げた。
カラン、カランと音が響く。
「行くぞ。主役が待ちくたびれている頃だ」
「甲板ね」
私は汗を拭い、コートの前を閉じた。
「嵐になってるわよ。足元に気をつけて」
私たちは階段を駆け上がった。
上に行くにつれて、風の音が強くなってくる。
船の揺れは激しさを増していた。
決着の時が迫っていた。




