第126話 冷めたスープ
甲板に通じるハッチのハンドルは、ビクともしなかった。
レオニスが全体重をかけて回そうとしたが、鉄の棒は錆びついたように固定されている。
内側から鍵をかけただけではない。金属が溶着したような、嫌な手応えがある。
「……焼き付けたな」
レオニスがハンドルから手を離した。
手袋の革が擦れる音が、風の音に混じって聞こえる。
「携帯用のバーナーか、あるいは即硬化性の接着剤だ。通常の手段では開かん」
「用意周到ね」
私はコートの襟を合わせ、強くなる海風に身を縮めた。
「昔の上司は、退路を断つのがお好きみたい」
「奴の戦術だ。袋小路に追い込んでから交渉する。……もっとも、今回は交渉決裂後の処刑らしいが」
船体が大きく揺れた。
波のせいではない。船の腹の底から、ドォンという重い衝撃が伝わってきたのだ。
足元の鉄板が振動し、靴底を痺れさせる。
「始まったか」
レオニスが船首の方へ歩き出した。
「ボイラー室への供給パイプを壊したか、あるいは圧力を暴走させたか。どちらにせよ、悠長にドアを直している時間はない」
彼は客室の窓――厚い強化ガラス――の前に立った。
「下がるぞ、レティ。ガラスの雨が降る」
「割るの? 弁償金がまた増えるわよ」
「請求先はオズワルドだ」
レオニスはジャケットで肘を覆い、ガラスの四隅を銃のグリップで叩いた。
ヒビが入る。
そして、助走をつけてショルダータックルを見舞った。
ガシャン!
分厚いガラスが砕け散り、船内の暖かい空気と光が漏れ出してくる。
私たちはガラス片を踏み越え、一等客室の廊下へと侵入した。
*
廊下は静かだった。まだ、異変に気づいている乗客は少ないらしい。
だが、私の耳には、船体全体がきしむ音が届いていた。
鉄骨が悲鳴を上げ、リベットが飛びそうになっているギリギリの音。
「……機関室は一番下ね」
私は床を指差した。
「ここから四階層下。階段を使う?」
「エレベーターは危険だ。電力がいつ落ちるかわからん」
その言葉が終わるか終わらないかのタイミングだった。
ブツン。
天井のシャンデリアが、瞬きするように消えた。
同時に、廊下の壁にあるブラケットライトも光を失う。
完全な闇。
「……予言者ね」
「経験則だ」
数秒後、ジジジという音と共に、足元の非常灯が点灯した。
血のような赤い光が、廊下を薄ぼんやりと染める。
遠くから、悲鳴が聞こえ始めた。
ダンスホールの音楽が止まり、グラスが割れる音と、客たちの狼狽える声が響く。
「行くぞ」
レオニスが走り出す。
私たちは階段を駆け下りた。
二階、三階。
下に行くにつれて、赤い光は濃くなり、熱気が増してくる。
そして、何かが焦げる臭いが漂い始めていた。
「ねえ、レオ」
私は走りながら聞いた。
「あの男、本気でこの船を沈める気なの? 自分も乗ってるのに」
「奴は逃走ルートを確保しているはずだ。小型艇か、あるいは救命ボートか」
レオニスは踊り場で足を止めず、さらに下へ向かう。
「オズワルドという男は、目的のためなら手段を選ばん。そして、その『目的』を『大義』と呼んで正当化する」
「大義?」
「『腐った国を一度殺して、作り直す』だそうだ。そのためには多少の犠牲――この船の乗客千人程度――は、必要経費だと考えている」
「……最悪の会計士ね」
私は吐き捨てた。
「人の命を消耗品費に計上するなんて」
厨房のあるフロアに出た。
コックや給仕たちが、懐中電灯を持って右往左往している。
作りかけの料理が放置され、冷めたスープの匂いが充満していた。
「どけ! 道を開けろ!」
レオニスが人混みをかき分ける。
「機関室への通路はどこだ!」
「あ、あっちだ! でも行けないぞ!」
コックの一人が震える指で奥を差した。
「防火扉が閉まっちまった! 電源が落ちて開かないんだ!」
私たちは厨房を突っ切った。
奥の通路。
そこには、巨大な鉄の壁――防火シャッターが降りていた。
本来なら火災を検知して閉まるはずのものだが、今は火などないのに道を塞いでいる。
人為的な操作だ。
「……手動レバーは?」
レオニスが周囲を探す。
「壊されてるわ」
私は壁から垂れ下がっているレバーの残骸を見た。
根元からねじ切られている。
そして、その切断面からは、まだ新しい金属の熱が感じられた。
――通さない。
――ここで待て。
――沈むまで。
「ここに残った『蛇』の仕業ね」
私はシャッターに耳を当てた。
向こう側から、蒸気の噴出音が聞こえる。
そして、複数の足音。
「向こうにいるわ。待ち伏せよ」
「数は」
「四人。呼吸が静か。あの『沈黙の部隊』と同じ臭いがする」
レオニスはシャッターを叩いた。
分厚い鉄板は、銃弾程度では貫通しない。
「ここを突破するのに時間をかければ、ボイラーが爆発する」
彼は周囲を見回した。
厨房。調理器具。そして、壁に埋め込まれたダクト。
「レティ、お前なら通れるか」
彼が指差したのは、天井付近にある排気口だった。
油で汚れた金網が嵌っている。
「厨房の排気ダクトだ。機関室の換気系と繋がっている可能性がある」
「……またネズミの真似?」
私は溜息をついた。
「いいわよ。でも、中は油まみれだわ。新しいコートが台無しね」
「クリーニング代は出す」
レオニスが調理台を引き寄せ、足場を作った。
私はそれに登り、排気口の金網をナイフで外した。
中は暗く、古い油の酸化した臭いが鼻をつく。
「俺はここをこじ開ける」
レオニスが言った。
「敵の注意を引きつける。お前はその隙に裏へ回って、内側からロックを解除しろ。……できるか?」
「任せて」
私はダクトの中に体を滑り込ませた。
「あんたこそ、死なないでよ。あの意地悪な元上司に引導を渡すんでしょ?」
「ああ。教育的指導の時間だ」
レオニスは調理場にあった巨大な中華鍋を手に取り、ブンと振った。
盾代わりにするつもりらしい。
私はダクトの奥へと進んだ。
手足がベトベトする。
下からは、レオニスがシャッターをガンガンと叩き、敵を挑発する声が聞こえてきた。
「おい、中にいるのはわかっているぞ! オズワルドの腰巾着ども!」
敵の気配が動く。
シャッターの向こうで、銃を構える音がした。
注意が扉に向いている。
今のうちだ。
私は匍匐前進の速度を上げた。
ダクトは迷路のように入り組んでいるが、風の流れと熱気を感じれば、機関室へのルートはわかる。
熱い。
奥へ進むほど、鉄板が熱を帯びてくる。
ボイラーが臨界点に近い証拠だ。
やがて、下が見える格子に辿り着いた。
機関室の前室だ。
下には、黒い戦闘服を着た男たちが四人、シャッターに向けて銃を構えている。
その背後には、制御盤があった。
赤いランプが点滅し、警告音が鳴り響いている。
私はポケットから、ミレイの店で補充した飴の缶を取り出した。
中身は満タンだ。
蓋を開ける。
缶を逆さにする。
バラバラバラッ!
数十個の飴玉が、格子を通って男たちの頭上に降り注いだ。
「なんだ!?」
「上だ!」
男たちが上を向く。
私はすでに移動していた。
別の開口部から飛び降り、制御盤の陰に着地する。
「誰だ!」
一人が気づいて銃を向ける。
だが、私はすでにシャッターの解除レバーに手をかけていた。
「ルームサービスよ!」
私は叫び、レバーを下ろした。
ガガガガッ!
モーターが回り、シャッターが上がり始める。
その隙間から、中華鍋を構えたレオニスが、猛牛のような勢いでスライディングしてきた。
「お待たせ!」
戦闘開始だ。
非常灯の赤い光の中で、私たちは再び並んで敵と対峙した。




