第125話 真鍮のライター
一等客室の廊下は、船の揺れに合わせて軋む音がする以外、墓場のように静まり返っていた。
厚い絨毯が敷き詰められた床は、足音を完全に吸い取る。
私は自分の部屋――103号室――のドアを開ける手を止め、一つ手前のドア、102号室の前で立ち尽くしていた。
「……まただ」
私はドアの木枠に耳を押し付けた。
ニスとワックスの匂いがする。
その奥から、微かだが、確かな旋律が漏れ出していた。
低いハミング。
途切れ途切れで、古いレコードのように擦れた音。
昨夜、甲板で聞いたのと同じ軍歌だ。
――進め。泥を噛んで。
――振り返るな。鉄の棺桶が待っている。
歌詞はない。だが、旋律に乗せられた思考が、歌詞以上の具体性を持って脳に流れ込んでくる。
塹壕。雨。腐った肉の臭い。そして、友軍の砲撃音。
「何をしている」
背後から声をかけられた。
レオニスだ。
彼は食堂から戻ってきたところで、手にはミネラルウォーターの瓶を持っていた。
「シーッ」
私は人差し指を唇に当て、102号室を指差した。
「歌ってる。あの幽霊よ」
「幽霊か」
レオニスは表情を変えず、ドアノブに視線をやった。
「鍵はかかっているな」
「ええ。それに、『Do Not Disturb(起こさないで)』の札が下がったままよ。昨日からずっと」
レオニスは水を一口飲み、ドアに近づいた。
彼にも聞こえたのだろうか。
いや、物理的な音は小さい。換気扇の音にかき消されるレベルだ。
だが、彼はドアの前で足を止め、眉間の皺を深くした。
「……この曲か」
「知ってるの?」
「第七機甲師団の行進曲だ。十年前に廃止された」
彼は短く答え、自分の部屋の鍵を開けた。
「中に入れ。廊下で立ち話をしていては、ボーイに不審がられる」
*
部屋に入ると、レオニスは上着を脱ぎ、ソファに投げ出した。
彼はサイドテーブルの引き出しから、船内案内図と乗客名簿――昨夜、私がパーサーのデスクから「借りて」きたもの――を取り広げた。
「見て」
私は名簿の1ページ目を指で弾いた。
「101号室、貿易商の夫婦。103号室、私たち。そして102号室……」
指差した欄は、空白だった。
名前も、乗船地も書かれていない。斜線が引かれているだけだ。
「『空室』扱いよ」
私はベッドに腰を下ろし、靴を脱いだ。
「予約は入っていない。客はいないはずなの。でも、中には誰かいる」
「密航者か?」
「一等客室に忍び込む密航者が、わざわざ鼻歌を歌うかしら」
レオニスは腕を組み、窓の外の暗い海を見つめた。
「……それに、あの鼻歌には癖がある」
「癖?」
「第三小節の音程が半音下がる。かつて俺の上官だった男が、よくそうやって歌っていた」
彼の声に、微かな緊張が混じる。
上官。
過去の亡霊。
「その人、生きてるの?」
「死んだはずだ」
レオニスは断言した。
「五年前の包囲戦だ。彼の指揮車は砲撃を直撃し、鉄屑になった。遺体の判別もできなかったが、あの状況で生き残れる人間はいない」
「でも、歌ってる」
私は壁の方――102号室との境界――を見た。
今は静かだ。
だが、さっき聞こえた思考音は、死者の残留思念特有の「ループ感」がなかった。
現在進行形で、何かを考え、何かを待っている「生きた意識」だった。
「確かめてくる」
レオニスが立ち上がった。
彼はホルスターを腰に巻き直し、ジャケットを羽織った。
「どこへ? 隣の部屋に突入する気?」
「いや。甲板だ」
彼はポケットからタバコとライターを取り出した。
真鍮製の、使い込まれたオイルライター。
「奴は喫煙者だった。食後には必ず風上へ行って、安物の葉巻を吸う癖があった」
「……もし、その『奴』だったら?」
「挨拶をするだけだ」
レオニスはドアノブに手をかけた。
「昔話に花を咲かせるか、あるいは墓穴を掘り直すか。相手の出方次第だ」
「ついていくわ」
私は靴を履き直した。
「あんたが感情的になって海に落ちないように、監視役が必要でしょ」
「好きにしろ。ただし、射線には入るな」
*
夜の甲板は、強風が吹き荒れていた。
波しぶきが手すりを越えて降り注ぎ、床板を黒く濡らしている。
客たちは皆、船内のダンスホールやバーに集まっているらしく、外には人影がない。
ただ、煙突から吐き出される黒煙だけが、星のない空に流れていた。
レオニスは風を避けるように、救命ボートの陰に立った。
ライターを擦る。
カチン。
小さな炎が生まれ、風に揺れる。
彼はタバコに火を点けず、ただその炎を見つめていた。
「……来ないわね」
私はコートの襟を立て、彼の後ろに隠れた。
「勘違いだったんじゃない?」
「奴は時間に正確だ。2100時。消灯ラッパの鳴る時間だ」
その時。
風上の方から、紫煙の匂いが漂ってきた。
レオニスのタバコではない。
もっと重く、癖のある香り。乾燥した草と、薬品の混じった臭い。
「……来た」
レオニスがライターの蓋を閉じた。
カチン、という音が闇に響く。
甲板の奥、闇の中から人影が現れた。
手すりに寄りかかり、海を見下ろしている男。
背が高い。軍用コートのような長い外套を着ている。
顔は帽子の影で見えないが、口元で赤い火種が明滅していた。
レオニスがゆっくりと歩み寄る。
足音は波音に消される。
だが、男は気づいていた。
レオニスが五メートル手前まで来たところで、男は振り返ることなく口を開いた。
「……足音が変わったな、レオニス」
低く、ざらついた声。
喉が焼けた古傷でもあるかのような、独特の響き。
「昔はもっと鋭かった。今は迷いがある。荷物が増えたせいか?」
男がゆっくりと振り返った。
月明かりが、彼の顔を照らす。
年齢は五十代半ば。
左半分に大きな火傷の痕があり、皮膚が引きつっている。
だが、残された右目は、猛禽類のように鋭く、理知的な光を放っていた。
「オズワルド大佐」
レオニスが足を止めた。
敬礼はしない。手はポケットの中、銃のグリップに置かれている。
「地獄の底から這い上がってきたのですか」
「地獄?」
オズワルドと呼ばれた男は、短く笑った。
「あそこは静かで良かったぞ。少なくとも、今の祖国よりは規律があった」
彼は葉巻を海に投げ捨てた。
ジュッ、と音がして火が消える。
「生きておられるなら、なぜ戻らなかったのです。軍部はあなたの葬儀まで行いました」
「戻る価値のある軍隊か? あれは」
オズワルドは手すりを背にして、レオニスを見据えた。
「予算委員会に媚びを売り、貴族の顔色を窺い、前線の兵士を駒として使い潰す。そんな組織に忠誠を誓うほど、私は若くない」
彼の言葉には、レオニス自身がかつて抱いていた失望と、同じ色が混じっていた。
だが、決定的に違うものがある。
オズワルドの右目には、失望の先にある「冷徹な決断」の色があった。
「だから、『蛇』に鞍替えしたのですか」
レオニスが問う。
オズワルドの眉が動いた。
「……ほう。そこまで掴んでいるか」
「北の工場。王都の地下。そして南の港。どこへ行っても、あなたの亡霊のような影が見え隠れしていました」
レオニスは一歩踏み出した。
「目的は何です。国を売って、何を手に入れるつもりだ」
「国を売る? 違うな」
オズワルドは首を振った。
「買い戻すのだよ。腐った持ち主からな」
彼は両手を広げた。
「王政は腐敗した。民衆は愚かだ。このままでは、隣国に食い荒らされるだけだ。だから我々は『管理』する。恐怖と薬物と、そして絶対的な規律によって」
「それが『蛇』の正義か」
「正義ではない。必要悪だ」
オズワルドの視線が、レオニスの後ろにいる私に向けられた。
「……そこのお嬢さんは?」
「部下です」
レオニスが私を隠すように立つ。
「部下? 違うな。ただの子供ではない」
オズワルドの目が細められた。
「その耳。……『検体』か」
ドキリとした。
彼は知っている。私のことを。
「王宮の地下から逃げ出したサンプルだな。まさか、レオニスが飼っているとは」
オズワルドは楽しげに笑った。
「皮肉なものだ。かつての私の部下が、私の研究の成果を連れ歩いているとは」
「研究?」
私が口を挟むと、オズワルドは頷いた。
「『アナスタシア計画』。私はその立案者の一人だ。君の両親を……勧誘したのも、私だよ」
頭の中で、何かが弾ける音がした。
両親の顔写真。
セピア色の笑顔。
それを奪った張本人が、目の前にいる。
「……あんたが」
私が前に出ようとすると、レオニスが腕で制した。
「動くな、レティ」
「優秀な素材だ」
オズワルドは私を品定めするように見た。
「まだ適合していないようだが、再教育すれば使えるだろう」
彼は懐中時計を取り出し、時間を確認した。
「さて、昔話はここまでだ。レオニス、選択肢をやろう」
「選択肢?」
「私の下へ戻れ。かつてのように、私の右腕として働け。そうすれば、新しい秩序の中で相応の地位を用意しよう」
オズワルドは手を差し出した。
「断れば?」
「この船は沈む」
彼は平然と言った。
「機関室には細工をしてある。あと数時間でボイラーが臨界点を超える。証拠隠滅だ。我々の移動ルートを知る者は、海の底に消えてもらう」
レオニスは差し出された手を見つめ、そして自分のポケットから真鍮のライターを取り出した。
カチン。
火をつける。
そして、オズワルドの足元に投げ捨てた。
「……断る」
レオニスは告げた。
「俺はもう、誰の命令も聞かない。俺のボスは、俺自身と、そこの生意気な小娘だけだ」
オズワルドは笑みを消し、冷徹な仮面を被り直した。
「残念だ。最高傑作だったのだがな」
彼は背を向け、闇の中へと歩き出した。
「さらばだ、レオニス。次は地獄で会おう」
彼は追手を防ぐように、ハッチの鍵を内側から閉ざして姿を消した。
残された甲板に、冷たい風が吹き抜ける。
「……沈むって言ったわよ」
私はレオニスの袖を掴んだ。
「ハッタリじゃない。あの男の心臓、嘘をついてないリズムだった」
「ああ。奴はやる」
レオニスは銃を確認し、機関室の方角――船の底――を見据えた。
「急ぐぞ。船が棺桶になる前に、ボイラーを止めなければならん」




