第124話 緑の羅紗
甲板の風下、救命ボートの陰に設置された簡易テーブルは、即席のカジノになっていた。
緑色の羅紗が敷かれた天板の上で、プラスチックのチップが小気味よい音を立てて積み上げられている。
プレイヤーは四人。
葉巻を咥えた太った貿易商、宝石で指を飾った貴婦人、退屈そうな若者、そして――今まさに椅子を引いて座ろうとしている、私のボスだ。
「……本気?」
私はレオニスの椅子の背に手をかけた。
「軍人恩給を全部スッて、素寒貧になるつもり?」
「元手は昨日の夕食代の残りだ。無くなっても痛くはない」
レオニスは懐から、数枚の紙幣と小銭を取り出してテーブルに置いた。
「チップに換えてくれ」
ディーラー役の男が、無表情にチップを数えて渡す。
レオニスの手元に、ささやかな塔ができた。
他のプレイヤーたちの手元にある城塞のようなチップの山に比べれば、掘っ立て小屋のような頼りなさだ。
「レートはミニマムだ。降りるなら今のうちだぞ、兄さん」
貿易商が煙を吐き出しながら忠告する。
「俺は昨夜からツキっぱなしでね。根こそぎ頂くことになる」
「手加減は無用だ」
レオニスはチップを弄びながら、私に視線を送った。
『始めろ』という合図だ。
私は彼の背後に立ち、退屈そうに欠伸をするふりをした。
目を閉じる。
海風の音、エンジンの振動、話し声。
それらをフィルターにかけて遮断し、テーブルの上、わずか数十センチ四方の空間の音だけに意識を絞り込む。
カードが配られる。
シュッ、シュッ。
紙が空気を切り、羅紗の上を滑る音。
――エース。
――絵札。
――外れ。
カードの声ではない。
ディーラーの指先が発する、微細な摩擦音だ。
カードの表面には、肉眼では見えない微小なエンボス加工(凹凸)が施されている。
指紋がそれに触れた時、わずかに異なる周波数の音が鳴る。
それを聞き分ける。
「……」
私はレオニスの右肩を指先でトントンと叩いた。
『良い手よ』。
レオニスはカードを確認もせずに、チップを放り投げた。
「コール」
ゲームが進む。
貿易商がレイズする。貴婦人が降りる。若者が迷った末にコールする。
場の空気が張り詰める。
「開けようか」
貿易商が自信満々にカードをめくった。
フルハウス。
強い手だ。
若者がため息をついてカードを伏せる。
レオニスがゆっくりとカードを表に向けた。
フォーカード。
「……運がいいな」
貿易商が顔をしかめた。
チップの山が移動する。レオニスの手元の塔が高くなった。
次のゲーム。
ディーラーがカードを繰る。
シャッ、シャッ……ズリュ。
異音がした。
カードが配られる瞬間、ディーラーの親指が、山札の一番上ではなく、底のカードを引き抜いた音。
ボトムディール。イカサマだ。
そのカードは、貿易商の手元へ滑っていった。
私はレオニスの左肩を強く掴んだ。
『罠よ。降りて』。
レオニスは即座にカードを投げ出した。
「フォールド」
「おや、弱気だな。ツキが落ちたか?」
貿易商がニヤリと笑い、勝利を収める。
ゲームは続いた。
私は音を聞き続けた。
ディーラーの指の摩擦音。
貿易商の呼吸の乱れ。心拍数の変化。
貴婦人がカードを揃える時の、爪が当たる音。
レオニスは負けない。
勝てる時だけ大きく張り、負ける時は最小限の傷で撤退する。
その判断は機械のように正確で、周囲のプレイヤーを苛立たせていった。
そして、数時間後。
レオニスの手元には、参加者全員のチップが集まっていた。
貿易商の顔は茹でダコのように赤くなり、額には脂汗が光っている。
「……おかしい」
貿易商がテーブルを拳で叩いた。
チップが跳ねる。
「お前、何かやってるな?」
場の空気が凍りついた。
ディーラーが手を止め、若者が席を立つ。
レオニスは表情を変えず、チップを整理していた。
「運も実力のうちと言うだろう」
「運で片付くレベルじゃねえ!」
貿易商が立ち上がり、レオニスの胸倉を掴もうと身を乗り出した。
「袖の中だ! 袖にカードを隠してるんだろ! 見せろ!」
レオニスは座ったまま、掴みかかってきた商人の手首を、下から軽く叩いた。
パシッ。
軽い音だが、急所に入ったのか、商人の手が弾かれる。
「触るな」
レオニスが低い声で告げた。
その瞳から、ギャンブラーの熱気が消え、戦場の指揮官の冷たさが顔を出す。
「俺の袖にあるのは腕だけだ。確認したければしてもいいが、その代わり……」
彼はテーブルの上のナイフ――チーズを切るためのシルバーナイフ――を指先で回転させた。
ギラリと光が走る。
「あんたの袖の中も改めさせてもらうぞ。特に、そのディーラーとの間で行き来している『視線』のやり取りも含めてな」
商人の顔が引きつった。
ディーラーが目を逸らす。
図星だ。彼らが組んでカモを探していたことは、呼吸の同調音でバレバレだった。
「……チッ」
商人は舌打ちをし、椅子を蹴倒して背を向けた。
「止めた止めた! こんなシケたテーブルで遊んでられるか!」
彼は逃げるように甲板から去っていった。
後ろめたい人間ほど、引き際は早い。
残されたのは、山のようなチップと、気まずそうなディーラーだけ。
「換金だ」
レオニスがチップをディーラーに押し付けた。
「手数料はいらん。全額、紙幣でくれ」
*
船室に戻ると、レオニスは封筒に入った札束をベッドの上に放り投げた。
「……悪くない実入りだ」
「悪くないどころか、一等客室の追加料金が払える額よ」
私は札束を数えもせずに、サイドテーブルのメニュー表を広げた。
「ルームサービスを頼みましょう。今夜は豪華にいくわよ」
「またステーキか?」
「いいえ。甘いもの」
私はメニューの一番下、デザートの欄を指差した。
「プリン。それも、バケツみたいな大きさのやつを特注で作らせるの」
「……腹を壊すぞ」
「壊さないわよ。私の胃袋は、甘味専用の別腹を装備してるんだから」
レオニスは呆れたように肩をすくめ、上着を脱いでハンガーに掛けた。
「好きにしろ。ただし、俺の分はコーヒーだけでいい」
「砂糖は?」
「……三つだ」
私は笑い、呼び鈴に手を伸ばした。
窓の外では、夜の海が穏やかな波音を立てている。
北の山での貧乏生活が嘘のような、甘くて堕落した夜が始まろうとしていた。




