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無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


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第123話 海軍式治療法

 天井から吊り下げられたクリスタルのシャンデリアが、不吉な振り子のように左右へと揺れていた。

 カチ、カチ、というガラス同士が触れ合う微細な音が、私の頭蓋骨の内側で反響し、吐き気を増幅させる。

 私は一等客室のふかふかしたベッドの上で、シーツを頭から被り、ダンゴムシのように丸まっていた。


 「……止めて」

 シーツの中で呻く。

 「誰か、この揺れる地面を止めて。ネジで固定してよ」


 地面が動く。

 その事実だけで、私の三半規管はストライキを起こしていた。

 北の貨物列車は縦揺れだったからまだ耐えられた。だが、この船の動きは違う。

 ぬるりとした、予測不能な横揺れ。内臓が浮き上がり、次の瞬間に押し下げられる感覚が永遠に続く。


 ガチャリ。

 重厚なドアが開く音がした。

 廊下から、活気のある話し声と、食器の触れ合う音が流れ込んでくる。

 私はさらに深くシーツに潜った。


 「まだ寝ているのか」

 レオニスの声だ。

 呆れるほど張りがあり、健康的な響きを含んでいる。

 ベッドが沈んだ。彼がサイドテーブルに何か重いものを置いた音。


 「……出て行け」

 私はシーツ越しに抗議した。

 「今の私は、揺れるもの全てが敵なの。あんたの足音も、心臓の音も、全部が私を酔わせる」


 「食事の時間だ」

 レオニスは私の抗議を無視し、シーツの端を掴んで剥ぎ取った。

 「うわっ!」

 眩しい。

 窓から差し込む午後の陽光が、目を焼く。


 レオニスは腕まくりをしたシャツ姿で、私の顔を見下ろしていた。

 顔色は良い。むしろ、海風に当たって血色が良いくらいだ。

 腹が立つ。


 「起きろ。食えば治る」

 彼が指差したサイドテーブルには、銀色のカバーが掛かった大きな皿が置かれていた。

 隙間から、強烈な匂いが漂ってくる。

 焦げた脂。ニンニク。そして、獣の肉の濃厚な香り。


 「……何それ」

 私は鼻を押さえた。

 「おかゆ? それとも果物?」

 「サーロインステーキだ。脂身多めのな」


 私は絶句した。

 吐き気が喉元までせり上がる。

 「正気? 胃の中身が逆流しそうな人間に、脂の塊を食べさせる気?」


 「海軍式の治療法だ」

 レオニスは真顔でカバーを開けた。

 湯気と共に、分厚い肉の塊が現れる。表面では脂がパチパチと音を立て、溶けたバターが黄金色の川を作っていた。

 付け合わせは、揚げたジャガイモの山。


 「胃袋を空にするから酔うんだ。重いものを詰め込めば、胃が安定する」

 「どんな理屈よ」

 「船乗りから聞いた。実際に効果がある」


 彼はナイフとフォークを手に取り、肉を一口大に切り始めた。

 肉汁が溢れ出す。

 普段なら食欲をそそる光景だが、今の私には拷問器具を見せられている気分だ。


 「いらない。水だけでいい」

 私は枕に顔を埋めた。

 「無理やり食わせたら、あんたの靴の上に全部戻すわよ」


 「構わん。新しい靴を買う口実になる」

 レオニスは私の襟首を掴み、強引に上半身を起こさせた。

 背中にクッションを押し込み、固定する。

 そして、肉を刺したフォークを口元に突きつけた。


 「口を開けろ」

 「嫌」

 「噛まずに飲み込めばいい。薬だと思え」


 彼の目は本気だった。

 この男は、部下の健康管理に関しては独裁者になる癖がある。

 私は観念して、口を少しだけ開けた。

 肉が放り込まれる。


 噛む。

 脂が口いっぱいに広がる。

 ……気持ち悪い。

 だが、飲み込んで胃に落ちた瞬間、不思議な感覚があった。

 胃袋の中に「重り」ができたような、どっしりとした安定感。


 「……あれ?」

 「どうだ」

 「まだ気持ち悪いけど、胃が暴れるのが止まったかも」


 「続けろ」

 レオニスは次々と肉を切り、私の口へ運んだ。

 私は雛鳥のように口を開け、咀嚼し、飲み込んだ。

 脂っこいジャガイモも、塩気が効いていて意外と喉を通る。


 皿が空になる頃には、私の顔から青白さが消えていた。

 満腹感が、脳の平衡感覚のズレを誤魔化しているようだ。


 「……信じられない」

 私は空になった皿を見つめた。

 「本当に効くなんて」

 「先人の知恵だ。俺も昔、初めて輸送船に乗った時はお前と同じ顔をしていた」


 レオニスはナプキンで私の口元を拭い、水を渡してくれた。

 「外に出るぞ。風に当たれば完全に治る」


 *


 甲板に出ると、強い潮風が髪を乱した。

 手すりに掴まり、水平線を見る。

 海は深い藍色をしていて、白い波頭が彼方まで続いている。

 船は大きく揺れていたが、ステーキの重りのおかげか、以前のような浮遊感は感じない。


 「……あんた、船にも詳しいのね」

 私は風に声を乗せた。

 「陸軍の将軍様だと思ってたけど」


 レオニスは手すりに肘をつき、煙草を取り出した。

 火をつけるが、風ですぐに消えそうになる。

 「昔、海兵隊との合同演習があった。島嶼とうしょ防衛の任務だ。一ヶ月ほど船で生活したことがある」

 「へえ。その時に船酔いしたわけ?」


 「……ノーコメントだ」

 彼は煙を吐き出し、視線を逸らした。

 図星らしい。

 あの鉄面皮の将軍が、洗面器を抱えて青くなっている姿を想像すると、少しだけ気分が晴れた。


 「今回の船旅は長くなりそうね」

 私は海を見下ろした。

 船体が波を切る白い泡。

 その下には、底知れない深淵が広がっている。


 「次の寄港地まで数日だ」

 レオニスが言った。

 「それまでは休息だ。食って、寝て、体力を戻せ」

 「そうね。でも、毎食ステーキは勘弁して」


 私は大きく伸びをした。

 コルセットのない体は自由だ。

 揺れる甲板の上でバランスを取りながら、私はポケットの中の飴の缶を叩いた。

 中身は満タンだ。

 これなら、どんな荒波も乗り越えられる気がした。


 「……あ、そうだ」

 私はレオニスを振り返った。

 「さっきの肉代、経費で落ちる?」

 「申請書を書けばな」

 「じゃあ、夕飯の分も書いておいて。今度はデザート付きでね」


 レオニスは呆れたように肩をすくめ、タバコの吸い殻を携帯灰皿にしまった。

 船は汽笛を鳴らし、西の海へと進んでいく。

 私たちは並んで、沈みゆく夕日を眺めていた。

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