第121話 焦げた風向き
港からの風が、錆びた鉄条網を揺らして金属的な音を奏でていた。
第4製薬工場の敷地は広大だった。
コンクリートで舗装された地面のひび割れから雑草が顔を出し、メインの建屋である巨大な倉庫が、夕闇の中で黒い影を落としている。
ミレイは真新しい南京錠の鍵を指先で回しながら、ため息をついた。
「……高い買い物だったわ」
彼女はヒールのつま先で地面を叩いた。
「外壁はボロボロ、窓枠は歪んでる。中の機械もメンテナンスが必要よ。ガストンのやつ、整備費をケチっていたわね」
「文句は後だ」
レオニスが倉庫の屋根を見上げた。
そこには、私たちが配置した見張り――港の荒くれ者たち――が、退屈そうに座り込んでいるシルエットが見える。
「奴は来る。『燃やしてやる』と言った目は本気だった」
私は工場の壁に背中を預け、足元の小石を蹴った。
「来るなら早めがいいわね。蚊が多くて敵わないわ」
パチン。
首筋に止まった蚊を叩き潰す。
「消火栓の水圧は確認したか」
レオニスが近くにいた男――港湾組合の若頭――に聞いた。
「おうよ。ホースも繋いである。放水準備は万端だ」
男はニヤリと笑い、手に持った鉄パイプを掌に打ち付けた。
「火事場泥棒が出ても、こいつで叩き出してやるよ」
頼もしいが、相手は泥棒ではない。
私は目を閉じた。
風の音。波の音。
そして、風上から漂ってくる、微かな異臭。
ガソリン。
あるいは、揮発性の高い溶剤。
それが、ゴム底の靴音と共に近づいてくる。
――撒け。
――風上だ。
――一気に燃やせ。
「……来たわ」
私は目を開け、北側のフェンスを指差した。
「北西の角。風上よ。液体が入った缶を持ってる」
レオニスが即座に反応した。
「総員、北側へ! ホースを構えろ!」
男たちが走り出す。
その直後、フェンスの向こうから火のついた瓶が投げ込まれた。
放物線を描いて飛んでくるガラス瓶。
その口には、油を吸った布が詰められ、赤々と燃えている。
ガシャン!
瓶がコンクリートに砕け、炎が広がった。
ボォォォッ!
赤い舌が地面を舐める。
「消せ!」
レオニスの号令と共に、放水が始まった。
高圧の水流が炎を打ち据える。
だが、火は消えない。油を含んだ炎は水に浮き、逆に広がりを見せた。
「水じゃダメだ!」
若頭が叫ぶ。
「砂だ! 砂をかけろ!」
フェンスの向こうから、さらに数本の瓶が飛んでくる。
今度は倉庫の壁を狙っていた。
窓ガラスが割れ、火種が建物の中へと飛び込む。
「中に入られた!」
ミレイが悲鳴を上げる。
「私の工場が!」
「慌てるな」
レオニスがミレイの肩を掴んで落ち着かせた。
「レティ、火種の位置は」
私は耳を澄ませた。
建物の中。
炎が爆ぜる音。
何が燃えているかによって、音は違う。
紙なら軽く、木ならパチパチと、そして化学薬品なら……。
シュゥゥゥ……。
低い、吸気音のような燃焼音。
「……資材置き場」
私は叫んだ。
「一階の奥! 古いパレットが燃えてる! でも、その横にドラム缶があるわ。中身は……引火性の溶剤!」
「爆発するぞ!」
レオニスが走り出した。
「俺が中をやる! お前たちは外の敵を抑えろ!」
彼は炎の上がる窓から中へ飛び込んだ。
私は外に残り、フェンスの向こうの気配を探った。
瓶を投げている実行犯たち。
彼らの背後に、指示を出している男がいる。
――燃えろ。もっとだ。
――全焼させれば保険が下りる。
――俺のものにならないなら、灰になればいい。
ガストンだ。
彼は近くにいる。
安全な場所から高みの見物を決め込んでいるわけではない。自分の手で火をつける快感に酔うために、現場に来ている。
「……ボリス!」
私は近くにいた組合長に声をかけた。
彼は巨大な消化器を抱え、泡を撒き散らしていた。
「なんだ嬢ちゃん! 危ねえから下がってろ!」
「放水の向きを変えて!」
私はフェンスの向こう、闇に沈んだ植え込みを指差した。
「火を消すんじゃないわ。あそこ! あの茂みに向かって、全力で水をぶちまけて!」
「ああん? あそこには火はねえぞ」
「いいから! あそこにガストンがいるのよ!」
ボリスはニヤリと笑った。
「了解だ。シャワーのプレゼントといこうじゃねえか」
彼はホースを持っている男たちに合図した。
「野郎ども! 筒先を右に向けろ! あの茂みを洗い流せ!」
三本のホースが一斉に向けられた。
バルブが全開になる。
太い水流がアーチを描き、フェンスを越えて植え込みを直撃した。
バシャアァァァッ!
枝葉が吹き飛び、泥水が舞い上がる。
そして、茂みの陰から悲鳴が上がった。
「ぐわぁっ! な、なんだ!」
「冷てぇ!」
白いスーツを着た男――ガストンが、ずぶ濡れになって転がり出てきた。
彼の周りにいた用心棒たちも、水圧に足を取られて無様に転倒する。
彼らが持っていた火炎瓶が手から滑り落ち、自分たちの足元で割れた。
ボッ!
ガストンのスーツの裾に火がつく。
「あ、熱っ! 消せ! 消せぇ!」
彼は地面を転げ回り、泥だらけになりながら火を消そうともがいた。
「ざまあみろ!」
港湾労働者たちが歓声を上げる。
彼らはフェンスを乗り越え、混乱するガストンたちを取り囲んだ。
鉄パイプとスパナを持った男たちの壁。
「……勝負ありね」
私は倉庫の方を振り返った。
窓から黒煙が噴き出しているが、火の勢いは弱まっている。
レオニスが中から消化器を持って出てきた。
顔は煤だらけだが、眉毛は焦げていない。
「ドラム缶は無事だ」
彼が咳き込みながら報告する。
「熱で膨張していたが、冷却した。爆発は免れた」
ミレイが安堵のため息をつき、その場にへたり込んだ。
「……寿命が縮んだわ」
彼女は汚れたハイヒールを脱ぎ捨てた。
「ガストンは?」
「あっちで泥レスリングの最中よ」
私は人だかりの方を顎で示した。
ボリスがガストンの襟首を掴み、何かを怒鳴りつけているのが見える。
その横で、サイレンの音が近づいてきていた。
警察だ。今頃になってようやく到着したらしい。
「……タイミングが悪すぎるわね」
私は肩をすくめた。
「放火の現行犯逮捕。これでお縄よ」
レオニスが私の頭に手を置いた。
彼の手袋からは、焦げた木と、消化剤の粉っぽい匂いがした。
「よくやった。お前の指示がなければ、工場は消し炭だった」
「別に。自分の職場を守っただけよ」
私は彼の掌の熱を感じながら言った。
「ここで解毒剤を作らなきゃいけないんでしょ? 燃やされたら困るもの」
警察車両が止まり、警官たちが降りてくる。
ガストンが連行されていく様を、私たちは並んで眺めていた。
夜風が煙を散らしていく。
焦げ臭さは残っていたが、それはもう脅威の臭いではなく、祭りのあとの残り香のようだった。




