表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

121/130

第121話 焦げた風向き

 港からの風が、錆びた鉄条網を揺らして金属的な音を奏でていた。

 第4製薬工場の敷地は広大だった。

 コンクリートで舗装された地面のひび割れから雑草が顔を出し、メインの建屋である巨大な倉庫が、夕闇の中で黒い影を落としている。

 ミレイは真新しい南京錠の鍵を指先で回しながら、ため息をついた。


 「……高い買い物だったわ」

 彼女はヒールのつま先で地面を叩いた。

 「外壁はボロボロ、窓枠は歪んでる。中の機械もメンテナンスが必要よ。ガストンのやつ、整備費をケチっていたわね」


 「文句は後だ」

 レオニスが倉庫の屋根を見上げた。

 そこには、私たちが配置した見張り――港の荒くれ者たち――が、退屈そうに座り込んでいるシルエットが見える。

 「奴は来る。『燃やしてやる』と言った目は本気だった」


 私は工場の壁に背中を預け、足元の小石を蹴った。

 「来るなら早めがいいわね。蚊が多くて敵わないわ」

 パチン。

 首筋に止まった蚊を叩き潰す。


 「消火栓の水圧は確認したか」

 レオニスが近くにいた男――港湾組合の若頭――に聞いた。

 「おうよ。ホースも繋いである。放水準備は万端だ」

 男はニヤリと笑い、手に持った鉄パイプを掌に打ち付けた。

 「火事場泥棒が出ても、こいつで叩き出してやるよ」


 頼もしいが、相手は泥棒ではない。

 私は目を閉じた。

 風の音。波の音。

 そして、風上から漂ってくる、微かな異臭。


 ガソリン。

 あるいは、揮発性の高い溶剤。

 それが、ゴム底の靴音と共に近づいてくる。


 ――撒け。

 ――風上だ。

 ――一気に燃やせ。


 「……来たわ」

 私は目を開け、北側のフェンスを指差した。

 「北西の角。風上よ。液体が入った缶を持ってる」


 レオニスが即座に反応した。

 「総員、北側へ! ホースを構えろ!」


 男たちが走り出す。

 その直後、フェンスの向こうから火のついた瓶が投げ込まれた。

 放物線を描いて飛んでくるガラス瓶。

 その口には、油を吸った布が詰められ、赤々と燃えている。


 ガシャン!


 瓶がコンクリートに砕け、炎が広がった。

 ボォォォッ!

 赤い舌が地面を舐める。


 「消せ!」

 レオニスの号令と共に、放水が始まった。

 高圧の水流が炎を打ち据える。

 だが、火は消えない。油を含んだ炎は水に浮き、逆に広がりを見せた。


 「水じゃダメだ!」

 若頭が叫ぶ。

 「砂だ! 砂をかけろ!」


 フェンスの向こうから、さらに数本の瓶が飛んでくる。

 今度は倉庫の壁を狙っていた。

 窓ガラスが割れ、火種が建物の中へと飛び込む。


 「中に入られた!」

 ミレイが悲鳴を上げる。

 「私の工場が!」


 「慌てるな」

 レオニスがミレイの肩を掴んで落ち着かせた。

 「レティ、火種の位置は」


 私は耳を澄ませた。

 建物の中。

 炎が爆ぜる音。

 何が燃えているかによって、音は違う。

 紙なら軽く、木ならパチパチと、そして化学薬品なら……。


 シュゥゥゥ……。


 低い、吸気音のような燃焼音。


 「……資材置き場」

 私は叫んだ。

 「一階の奥! 古いパレットが燃えてる! でも、その横にドラム缶があるわ。中身は……引火性の溶剤!」


 「爆発するぞ!」

 レオニスが走り出した。

 「俺が中をやる! お前たちは外の敵を抑えろ!」


 彼は炎の上がる窓から中へ飛び込んだ。

 私は外に残り、フェンスの向こうの気配を探った。

 瓶を投げている実行犯たち。

 彼らの背後に、指示を出している男がいる。


 ――燃えろ。もっとだ。

 ――全焼させれば保険が下りる。

 ――俺のものにならないなら、灰になればいい。


 ガストンだ。

 彼は近くにいる。

 安全な場所から高みの見物を決め込んでいるわけではない。自分の手で火をつける快感に酔うために、現場に来ている。


 「……ボリス!」

 私は近くにいた組合長に声をかけた。

 彼は巨大な消化器を抱え、泡を撒き散らしていた。

 「なんだ嬢ちゃん! 危ねえから下がってろ!」


 「放水の向きを変えて!」

 私はフェンスの向こう、闇に沈んだ植え込みを指差した。

 「火を消すんじゃないわ。あそこ! あの茂みに向かって、全力で水をぶちまけて!」


 「ああん? あそこには火はねえぞ」

 「いいから! あそこにガストンがいるのよ!」


 ボリスはニヤリと笑った。

 「了解だ。シャワーのプレゼントといこうじゃねえか」


 彼はホースを持っている男たちに合図した。

 「野郎ども! 筒先を右に向けろ! あの茂みを洗い流せ!」


 三本のホースが一斉に向けられた。

 バルブが全開になる。

 太い水流がアーチを描き、フェンスを越えて植え込みを直撃した。


 バシャアァァァッ!


 枝葉が吹き飛び、泥水が舞い上がる。

 そして、茂みの陰から悲鳴が上がった。


 「ぐわぁっ! な、なんだ!」

 「冷てぇ!」


 白いスーツを着た男――ガストンが、ずぶ濡れになって転がり出てきた。

 彼の周りにいた用心棒たちも、水圧に足を取られて無様に転倒する。

 彼らが持っていた火炎瓶が手から滑り落ち、自分たちの足元で割れた。

 

 ボッ!


 ガストンのスーツの裾に火がつく。

 「あ、熱っ! 消せ! 消せぇ!」

 彼は地面を転げ回り、泥だらけになりながら火を消そうともがいた。


 「ざまあみろ!」

 港湾労働者たちが歓声を上げる。

 彼らはフェンスを乗り越え、混乱するガストンたちを取り囲んだ。

 鉄パイプとスパナを持った男たちの壁。


 「……勝負ありね」

 私は倉庫の方を振り返った。

 窓から黒煙が噴き出しているが、火の勢いは弱まっている。

 レオニスが中から消化器を持って出てきた。

 顔は煤だらけだが、眉毛は焦げていない。


 「ドラム缶は無事だ」

 彼が咳き込みながら報告する。

 「熱で膨張していたが、冷却した。爆発は免れた」


 ミレイが安堵のため息をつき、その場にへたり込んだ。

 「……寿命が縮んだわ」

 彼女は汚れたハイヒールを脱ぎ捨てた。

 「ガストンは?」


 「あっちで泥レスリングの最中よ」

 私は人だかりの方を顎で示した。

 ボリスがガストンの襟首を掴み、何かを怒鳴りつけているのが見える。

 その横で、サイレンの音が近づいてきていた。

 警察だ。今頃になってようやく到着したらしい。


 「……タイミングが悪すぎるわね」

 私は肩をすくめた。

 「放火の現行犯逮捕。これでお縄よ」


 レオニスが私の頭に手を置いた。

 彼の手袋からは、焦げた木と、消化剤の粉っぽい匂いがした。

 「よくやった。お前の指示がなければ、工場は消し炭だった」


 「別に。自分の職場を守っただけよ」

 私は彼の掌の熱を感じながら言った。

 「ここで解毒剤を作らなきゃいけないんでしょ? 燃やされたら困るもの」


 警察車両が止まり、警官たちが降りてくる。

 ガストンが連行されていく様を、私たちは並んで眺めていた。

 夜風が煙を散らしていく。

 焦げ臭さは残っていたが、それはもう脅威の臭いではなく、祭りのあとの残り香のようだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ