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無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


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第102話 沈黙の入札

 天井の扇風機が、湿った空気を重苦しく掻き回していた。

 羽根が回転するたびに、ブォン、ブォンという低い音が頭上から降り注ぎ、会場に充満した葉巻の煙を散らしている。

 私は柱の陰で、汗ばんだ背中を冷たい石の表面に押し付けた。

 暑い。

 気温のせいだけではない。会場を埋め尽くす男たちの熱気と、金が動く瞬間の独特な焦げ付くような臭いが、酸素を薄くしていた。


 「……始まったな」

 レオニスが腕組みをしたまま、低い声で言った。

 彼の視線は、壇上に立つ競売人に固定されている。


 カーン!

 木槌が台を叩いた。

 乾いた音が、私語を断ち切る。


 「第4製薬工場、土地および建物一式!」

 競売人が声を張り上げた。

 「開始価格は二百万! さあ、どなたから!」


 「二百万!」

 即座に手が挙がった。

 最前列、白いスーツの男――ガストンだ。

 彼は葉巻を口の端に咥えたまま、番号札を高く掲げている。その横顔には、勝利を確信した者の傲慢な笑みが張り付いていた。


 「二百五十万」

 反対側から、涼やかな声が響く。

 ミレイだ。

 彼女は黒い扇子を閉じ、静かに札を上げた。

 

 ガストンが鼻で笑い、葉巻の灰を床に落とした。

 「三百万!」

 「三百五十万」

 「四百万!」


 数字が跳ね上がっていく。

 会場がどよめいた。

 通常の相場を遥かに超えている。

 他の参加者たちは早々に降り、ただ二人の一騎打ちを呆れた顔で眺めていた。


 「……金を持ってるな」

 レオニスが呟く。

 「銀行の融資停止はまだ届いていないのか?」

 「届いてないわね。あいつの心臓の音、まだ余裕があるもの」


 私は目を閉じた。

 視覚を遮断し、ガストンの胸元から発せられる音に集中する。

 ドクン、ドクン。

 規則正しいリズム。

 焦りはない。むしろ、興奮している。


 そして、彼の内ポケットから、カサリという紙の音がした。

 

 ――切り札だ。

 ――知事の署名入りだ。

 ――これで開発許可も独占できる。


 「……レオ」

 私は目を開けた。

 「あいつ、懐に何か隠してる。金だけじゃないわ。行政からの『特別許可証』みたいな書類を持ってる」

 「許可証?」

 「『この工場はバルド貿易が優先的に使用する権利を有する』みたいなやつよ。金で負けても、それを出してごねるつもりだわ」


 ミレイに知らせる必要がある。

 私は会場の壁際に沿って移動した。

 彼女の席からは死角になる位置だが、彼女は時折、扇子越しにチラリとこちらを見ている。


 私は柱の陰から手を出し、指で胸ポケットを叩くジェスチャーをした。

 そして、首を横に振る。

 『相手は隠し玉を持ってる。油断するな』という合図。


 ミレイが瞬きを一つした。

 伝わったらしい。

 彼女は姿勢を正し、さらに声を張り上げた。


 「五百万!」


 会場が静まり返った。

 五百万。小型の船が二隻買える額だ。

 

 ガストンが椅子を蹴るようにして立ち上がった。

 顔が赤い。

 「この……ふざけるな! 六百万だ! 俺には銀行がついているんだ!」


 彼は叫び、後ろを振り返った。

 銀行関係者の席を探しているのだ。

 「おい、ルーカス! 承認しろ! 六百万だ!」


 だが、銀行席にルーカス氏の姿はなかった。

 彼はさっき、電話ボックスへ走ったきり戻っていない。

 代わりに、若い行員が青ざめた顔で座っているだけだ。


 「ルーカスはどうした!」

 ガストンが怒鳴る。


 その時、会場の扉が開いた。

 入ってきたのは、汗だくのルーカス氏だった。

 彼は髪を振り乱し、競売人の元へ駆け寄った。

 手には、電話の受話器を握りしめすぎて赤くなった痕が残っている。


 「ま、待った!」

 ルーカス氏が叫んだ。

 「ストップだ! その入札は無効だ!」


 「なんだと?」

 ガストンが振り返る。

 「何を言っている、ルーカス。俺の融資枠は……」


 「凍結された!」

 ルーカス氏はガストンの顔を見ずに、競売人に向かって宣言した。

 「当行は、バルド貿易に対する全ての融資を一時停止する! 担保物件に重大な瑕疵かしが見つかった!」


 「なっ……」

 ガストンが絶句する。

 葉巻が手から滑り落ち、床のカーペットを焦がした。


 耳を澄ます。

 ガストンの心臓の音。

 ドクン!

 一気に跳ね上がり、不整脈のように乱れ打つ。


 ――嘘だ。

 ――バレたのか。裏帳簿が。

 ――金がない。払えない。


 彼の思考が、自信から恐怖へと反転する音が聞こえる。


 「馬鹿な! 間違いだ!」

 ガストンがルーカス氏に詰め寄る。

 「俺を誰だと思っている! 『蛇』とのパイプもあるんだぞ!」


 口走った。

 焦りのあまり、公衆の面前で言ってはいけない単語を。

 会場がざわつく。

 「蛇? あの密輸組織か?」

 「やっぱり黒い噂は本当だったのか」


 ルーカス氏は後ずさった。

 「知らん! 私は何も聞いていない! とにかく金は出さん!」


 競売人が木槌を持ち直した。

 冷ややかな事務的な目。

 「……資金の裏付けがない入札は無効です。ガストン氏、退席を」


 「待て! 俺にはこれがある!」

 ガストンは懐に手を伸ばした。

 あの書類だ。知事の署名入り許可証を出そうとしている。


 その手が、途中で止まった。

 私が投げたパチンコ玉くらいの大きさの氷――さっき給水機からくすねたもの――が、彼の手首の神経叢しんけいそうにヒットしたからだ。

 

 「あぐっ!」

 ガストンが手を引っ込める。

 腕が痺れて動かないようだ。


 その隙に、ミレイが立ち上がった。

 彼女はガストンを一瞥もしない。

 ただ、競売人に向かって、静かに、しかし会場の隅々まで届く声で言った。


 「五百万。キャッシュで払うわ」


 彼女の部下が、革のトランクをテーブルの上に置いた。

 開ける。

 札束が詰まっている。

 銀行の信用状ではない。現ナマだ。

 これ以上の信用はない。


 競売人が頷いた。

 木槌を振り上げる。


 「五百万! 他にありませんか!」

 シーンとする会場。

 ガストンは痺れた腕を押さえ、わなないている。


 「ありませんね。……落札!」


 カーン!


 木槌の音が、ガストンの野望を粉砕した。

 

 「くそっ……くそぉぉぉっ!」

 ガストンが椅子を蹴り飛ばした。

 彼は充血した目でミレイを睨み、それから柱の陰にいる私たちを見つけた。

 私と目が合う。

 私はニッコリと笑って、空になった手のひらをヒラヒラと振ってみせた。


 「……殺してやる」

 ガストンの口が動いた。声は聞こえなかったが、その形ははっきりと読み取れた。

 「俺の工場だ。誰にも渡さん。燃やしてやる」


 彼は用心棒を引き連れ、足音荒く会場を出て行った。

 ルーカス氏も、逃げるように裏口へ消える。


 「……終わったな」

 レオニスが壁から背中を離した。

 「いや、これからだ」

 私はガストンの去った扉を見つめた。

 「あいつの心臓、まだ止まってないわ。むしろ、殺意で加速してる」


 耳に残る残響。

 『燃やしてやる』。

 それは単なる負け惜しみではない。具体的な計画を含んだ思考音だった。


 ミレイがこちらに歩いてくる。

 彼女は勝利の余韻に浸ることなく、厳しい顔をしていた。

 「聞いた?」

 「ええ」

 私は頷いた。

 「工場の鍵は手に入れたけど、建物が残るかどうかは別問題みたいね」


 「行くぞ」

 レオニスが歩き出した。

 「祝杯は後だ。今は消火器の準備が必要だ」


 私たちは熱気の残る会場を後にした。

 外に出ると、港の方角から黒い煙のような雲が湧き上がっているのが見えた。

 ただの雲ではない。

 何かが焦げる臭いが、風に乗って漂い始めていた。

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