第12話 怒声
食堂棟は、寮の向かいにあった。
二階建ての木造建築から、湿った湯気と、茹でた穀物の匂いが漏れ出している。
ミレイナは私の腕を引くことなく、半歩先を小走りで進んでいく。彼女の革靴が地面を叩く音が、空腹の合図のように聞こえた。
「急いで。C班の連中が来る前に入らないと、席がなくなるから」
「そんなに混むの?」
「席取り合戦よ。ここは軍属も文官も一緒くただから」
入り口の扉を開けると、熱気と騒音が一度に押し寄せてきた。
数百人が座れる長いテーブルが何列も並び、その隙間を給仕係と職員たちが縫うように行き交っている。
金属の皿がぶつかる音。咀嚼音。怒鳴り声に近い話し声。
ここには死者はいない。生きている人間たちの、食欲という名のエネルギーが渦巻いているだけだ。
私たちは配給の列の最後尾に並んだ。
前の男の背中が汗臭い。
列は遅々として進まない。
「最悪」
ミレイナが爪先で床を突いた。
「見て、今日のメニュー」
彼女が指差した先、配給カウンターの黒板には、チョークで『オートミール』とだけ書かれていた。付け合わせの記載はない。
十分ほど待って、ようやく順番が回ってきた。
不機嫌そうな調理兵が、私の差し出したアルミのトレーに、寸胴鍋からおたまで何かを叩きつけた。
灰色で、粘り気のある塊。湯気は立っているが、食欲をそそる香ばしさはない。濡れた段ボールのような匂いがする。
「パンは?」
私が聞くと、調理兵は顎で鍋をしゃくった。
「品切れだ。文句があるなら補給部に言え」
私は無言でトレーを受け取った。
後ろでミレイナが「えーっ」と声を上げるのが聞こえたが、私は足を止めずに空席を探した。
窓際の席が一つ空いている。
私はそこへトレーを滑り込ませ、椅子を確保した。
「……ひどい」
ミレイナが向かいの席に座り、トレーを睨みつけた。
「これじゃ糊よ。壁紙を貼るのに丁度いいわ」
「栄養はあるわよ。たぶん」
私はスプーンを灰色の塊に突き立てた。
重い。
口に運ぶ。味はない。穀物の殻が舌に残る。
噛まずに飲み込む。胃が重みを感じて反応する。燃料としては機能しそうだ。
「ねえ、知ってる?」
ミレイナはスプーンでオートミールをかき混ぜながら、声を潜めた。
「補給物資が届かないの、ただの事故じゃないらしいわよ」
「火事があったんでしょ?」
「それだけじゃないの。商人が値を吊り上げてるって噂。足元を見てるのよ」
私は二口目を飲み込んだ。
商売とはそういうものだ。需要と供給。
だが、その時、食堂の入り口付近で怒号が響いた。
「ふざけるんじゃないわよ!」
女性の高い声だ。
数百人の咀嚼音が止まり、視線が一斉に入り口へ向く。
自動ドアのない入り口に、一人の女性が立っていた。
目立つ。
ここにいる全員が灰色や紺色の軍服、あるいは地味な事務服を着ている中で、彼女だけが鮮やかなワインレッドのドレスを着ていた。
肩には毛皮のショール。髪は丁寧に巻かれ、耳元で黄金の飾りが揺れている。
年齢は二十代後半だろうか。化粧の乗った美しい顔が、今は怒りで歪んでいた。
彼女の目の前には、太った補給将校が困り顔で立っている。
「ミレイさん、困ります。ここは関係者以外……」
「関係者は私よ!」
ミレイと呼ばれた女は、手に持っていた革の鞄を近くのテーブルに叩きつけた。
バン、と乾いた音が響く。
「契約通り、最高級の小麦粉を納品したはずよ。なのに検収書には『廃棄レベルのくず麦』ですって? 私の商会の信用に関わるわ!」
「事実ですから」
補給将校はハンカチで額を拭った。
「倉庫に届いたのは、カビだらけの麦でした。兵士に食わせたら腹を壊す。だから支払いはできない」
「馬鹿を言わないで。私が検品して送り出したのよ!」
女は一歩も引かない。
周囲の兵士たちが「あれが噂の強欲商人か」「いい服着やがって」と囁き合う声が聞こえる。
「ミレイ商会」という名前には聞き覚えがあった。戦時中から軍に物資を卸している大手だ。
彼女がその代表らしい。
「現物を見せなさいよ! 今すぐ!」
ミレイが叫ぶ。
補給将校は溜息をつき、部下に合図した。
部下が麻袋を一つ、足元に引きずってきた。
袋には『ミレイ商会』の焼き印がある。
将校がナイフで袋を切り裂く。
ざらり、と中身が床にこぼれた。
黒ずんだ、湿った麦だ。酸っぱい腐敗臭が漂い、近くのテーブルの兵士が鼻をつまむ。
「……ほら、これだ」
将校が勝ち誇ったように言った。
「これが最高級ですか? お宅の商売も地に落ちたもんだ」
ミレイは絶句した。
彼女はこぼれた麦を手に取り、信じられないという顔で凝視している。
「……嘘よ。こんなもの、扱ったことがない」
「事実はここにある。さあ、帰ってくれ。衛兵!」
衛兵たちがミレイを取り囲もうとする。
私はスプーンを置いた。
聞こえる。
彼女の足元の、あの麻袋から。
――重い。
――濡れた。川の水だ。
――橋の下で入れ替えられた。
穀物の「声」ではない。袋そのものの記憶だ。
麻の繊維が、扱われた状況を覚えている。
――夜中だ。雨が降っていた。
――荷馬車を止めて、中身を移した。
――『これでアイツの顔に泥が塗れる』。男が笑った。
私は残りのオートミールを口に放り込み、水を飲んで流し込んだ。
ミレイナが小声で「どうなるの?」と聞く。
「退場させられるわね」
私はナプキンで口を拭いた。
「でも、あの商人の言ってることは正しいわ」
「え? だって、あんなに腐ってるのに」
「腐らせたのよ。誰かが」
私は立ち上がった。
まだ業務時間外だ。契約書には「残業は上司の許可が必要」とは書いていなかったが、自分からトラブルに首を突っ込む義務もない。
だが、あの腐った麦の声には続きがあった。
――『管理局の新しい局長への手土産だ』。
管理局。私の新しい職場だ。
そこに泥を塗ろうとしている奴がいる。それはつまり、私の平穏な寝床と、チョコレートの支給を脅かす敵ということになる。
ミレイが衛兵に腕を掴まれ、振り払おうとしている。
「離して! 私は納得していない!」
私はトレーを持って、返却口へ向かうフリをして彼女たちの近くを通った。
そして、すれ違いざまに、誰にも聞こえないような小声で呟いた。
「……カラス橋の下。昨日の夜中、雨の中での積み替え作業。心当たりはない?」
ミレイの動きが止まった。
彼女がハッとして周囲を見回すが、私はすでに通り過ぎ、トレーを洗い場へ放り込んでいた。
カチャン、と金属音が響く。
私は振り返らずに食堂の出口へ向かった。
ヒントは置いてきた。
あの商人が本当に「やり手」なら、これだけで動くはずだ。
もし動けないなら、それまでの人間だということだ。
「ちょっとレティ、待ってよ!」
ミレイナが慌てて追いかけてくる。
私は出口の冷たい風を浴びながら、明日の朝食が少しでもマシになることを祈った。




