表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/29

第12話 怒声

 食堂棟は、寮の向かいにあった。

 二階建ての木造建築から、湿った湯気と、茹でた穀物の匂いが漏れ出している。

 ミレイナは私の腕を引くことなく、半歩先を小走りで進んでいく。彼女の革靴が地面を叩く音が、空腹の合図のように聞こえた。


 「急いで。C班の連中が来る前に入らないと、席がなくなるから」

 「そんなに混むの?」

 「席取り合戦よ。ここは軍属も文官も一緒くただから」


 入り口の扉を開けると、熱気と騒音が一度に押し寄せてきた。

 数百人が座れる長いテーブルが何列も並び、その隙間を給仕係と職員たちが縫うように行き交っている。

 金属の皿がぶつかる音。咀嚼音。怒鳴り声に近い話し声。

 ここには死者はいない。生きている人間たちの、食欲という名のエネルギーが渦巻いているだけだ。


 私たちは配給の列の最後尾に並んだ。

 前の男の背中が汗臭い。

 列は遅々として進まない。


 「最悪」

 ミレイナが爪先で床を突いた。

 「見て、今日のメニュー」


 彼女が指差した先、配給カウンターの黒板には、チョークで『オートミール』とだけ書かれていた。付け合わせの記載はない。


 十分ほど待って、ようやく順番が回ってきた。

 不機嫌そうな調理兵が、私の差し出したアルミのトレーに、寸胴鍋からおたまで何かを叩きつけた。

 灰色で、粘り気のある塊。湯気は立っているが、食欲をそそる香ばしさはない。濡れた段ボールのような匂いがする。


 「パンは?」

 私が聞くと、調理兵は顎で鍋をしゃくった。

 「品切れだ。文句があるなら補給部に言え」


 私は無言でトレーを受け取った。

 後ろでミレイナが「えーっ」と声を上げるのが聞こえたが、私は足を止めずに空席を探した。

 窓際の席が一つ空いている。

 私はそこへトレーを滑り込ませ、椅子を確保した。


 「……ひどい」

 ミレイナが向かいの席に座り、トレーを睨みつけた。

 「これじゃのりよ。壁紙を貼るのに丁度いいわ」

 「栄養はあるわよ。たぶん」


 私はスプーンを灰色の塊に突き立てた。

 重い。

 口に運ぶ。味はない。穀物の殻が舌に残る。

 噛まずに飲み込む。胃が重みを感じて反応する。燃料としては機能しそうだ。


 「ねえ、知ってる?」

 ミレイナはスプーンでオートミールをかき混ぜながら、声を潜めた。

 「補給物資が届かないの、ただの事故じゃないらしいわよ」

 「火事があったんでしょ?」

 「それだけじゃないの。商人が値を吊り上げてるって噂。足元を見てるのよ」


 私は二口目を飲み込んだ。

 商売とはそういうものだ。需要と供給。

 だが、その時、食堂の入り口付近で怒号が響いた。


 「ふざけるんじゃないわよ!」


 女性の高い声だ。

 数百人の咀嚼音が止まり、視線が一斉に入り口へ向く。

 自動ドアのない入り口に、一人の女性が立っていた。

 

 目立つ。

 ここにいる全員が灰色や紺色の軍服、あるいは地味な事務服を着ている中で、彼女だけが鮮やかなワインレッドのドレスを着ていた。

 肩には毛皮のショール。髪は丁寧に巻かれ、耳元で黄金の飾りが揺れている。

 年齢は二十代後半だろうか。化粧の乗った美しい顔が、今は怒りで歪んでいた。


 彼女の目の前には、太った補給将校が困り顔で立っている。


 「ミレイさん、困ります。ここは関係者以外……」

 「関係者は私よ!」


 ミレイと呼ばれた女は、手に持っていた革の鞄を近くのテーブルに叩きつけた。

 バン、と乾いた音が響く。

 「契約通り、最高級の小麦粉を納品したはずよ。なのに検収書には『廃棄レベルのくず麦』ですって? 私の商会の信用に関わるわ!」


 「事実ですから」

 補給将校はハンカチで額を拭った。

 「倉庫に届いたのは、カビだらけの麦でした。兵士に食わせたら腹を壊す。だから支払いはできない」

 「馬鹿を言わないで。私が検品して送り出したのよ!」


 女は一歩も引かない。

 周囲の兵士たちが「あれが噂の強欲商人か」「いい服着やがって」と囁き合う声が聞こえる。

 

 「ミレイ商会」という名前には聞き覚えがあった。戦時中から軍に物資を卸している大手だ。

 彼女がその代表らしい。


 「現物を見せなさいよ! 今すぐ!」

 ミレイが叫ぶ。

 補給将校は溜息をつき、部下に合図した。

 部下が麻袋を一つ、足元に引きずってきた。

 袋には『ミレイ商会』の焼き印がある。


 将校がナイフで袋を切り裂く。

 ざらり、と中身が床にこぼれた。

 黒ずんだ、湿った麦だ。酸っぱい腐敗臭が漂い、近くのテーブルの兵士が鼻をつまむ。


 「……ほら、これだ」

 将校が勝ち誇ったように言った。

 「これが最高級ですか? お宅の商売も地に落ちたもんだ」


 ミレイは絶句した。

 彼女はこぼれた麦を手に取り、信じられないという顔で凝視している。

 「……嘘よ。こんなもの、扱ったことがない」

 「事実はここにある。さあ、帰ってくれ。衛兵!」


 衛兵たちがミレイを取り囲もうとする。


 私はスプーンを置いた。

 聞こえる。

 彼女の足元の、あの麻袋から。


 ――重い。

 ――濡れた。川の水だ。

 ――橋の下で入れ替えられた。


 穀物の「声」ではない。袋そのものの記憶だ。

 麻の繊維が、扱われた状況を覚えている。


 ――夜中だ。雨が降っていた。

 ――荷馬車を止めて、中身を移した。

 ――『これでアイツの顔に泥が塗れる』。男が笑った。


 私は残りのオートミールを口に放り込み、水を飲んで流し込んだ。

 ミレイナが小声で「どうなるの?」と聞く。

 

 「退場させられるわね」

 私はナプキンで口を拭いた。

 「でも、あの商人の言ってることは正しいわ」

 「え? だって、あんなに腐ってるのに」


 「腐らせたのよ。誰かが」

 私は立ち上がった。

 まだ業務時間外だ。契約書には「残業は上司の許可が必要」とは書いていなかったが、自分からトラブルに首を突っ込む義務もない。

 

 だが、あの腐った麦の声には続きがあった。

 

 ――『管理局の新しい局長への手土産だ』。

 

 管理局。私の新しい職場だ。

 そこに泥を塗ろうとしている奴がいる。それはつまり、私の平穏な寝床と、チョコレートの支給を脅かす敵ということになる。


 ミレイが衛兵に腕を掴まれ、振り払おうとしている。

 「離して! 私は納得していない!」


 私はトレーを持って、返却口へ向かうフリをして彼女たちの近くを通った。

 そして、すれ違いざまに、誰にも聞こえないような小声で呟いた。


 「……カラス橋の下。昨日の夜中、雨の中での積み替え作業。心当たりはない?」


 ミレイの動きが止まった。

 彼女がハッとして周囲を見回すが、私はすでに通り過ぎ、トレーを洗い場へ放り込んでいた。

 カチャン、と金属音が響く。

 私は振り返らずに食堂の出口へ向かった。


 ヒントは置いてきた。

 あの商人が本当に「やり手」なら、これだけで動くはずだ。

 もし動けないなら、それまでの人間だということだ。


 「ちょっとレティ、待ってよ!」

 ミレイナが慌てて追いかけてくる。

 私は出口の冷たい風を浴びながら、明日の朝食が少しでもマシになることを祈った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ