第101話 濡れた革表紙
防波堤のコンクリートは、夜明けの太陽に照らされて微かに湯気を立てていた。
私はその上に座り込み、靴の中から海水を捨てた。
ジャバ、という音がして、小さなカニが一匹、水と一緒にコンクリートの上に転がり落ちる。カニは慌てて横走りで隙間に逃げ込んでいった。
「……私も逃げたい」
私は濡れたコートを絞った。
塩水を含んだウールは重く、乾く気配がない。髪はバサバサで、肌には塩の結晶が浮いている気がする。
「ねえ、レオ。私の人生設計に『深夜の遠泳』なんて項目はなかったはずよ」
隣で上着を絞っていたレオニスが、無言で革の帳簿を差し出した。
「中身を確認しろ。文字が読めなければ、ただの濡れた紙屑だ」
私は帳簿を受け取った。
表面の革は水を吸って変色していたが、中の紙は油紙で加工されていたらしく、水分の侵入を免れていた。
ページをめくる。
青い染料で記された数字の列。日付。取引相手の名前。
そして、ページの端に走り書きされたメモ。
『裏金』
『賄賂』
『次回の融資枠』
「……無事よ」
私はページを指で弾いた。
「ガストンの汚い腹の中身が、全部ここに書いてある。銀行からの融資を、本来の目的以外――『蛇』への上納金や、違法薬物の仕入れ――に使っていた証拠もね」
レオニスは濡れた髪をかき上げ、立ち上がった。
「行くぞ。ミレイが待っている。競売が始まる前に、この爆弾を適切な場所に仕掛けなければならん」
私たちは朝の港を歩いた。
市場の準備をする人々が、ずぶ濡れの私たちを奇異な目で見ている。
だが、今の私には彼らの視線を気にする余裕はなかった。
懐の帳簿が、早く使ってくれと熱を帯びているように感じられたからだ。
*
ミレイの支店の裏口を叩くと、すぐに鍵が開いた。
中に入ると、湯気の立つコーヒーの香りが迎えてくれた。
ミレイは執務机に向かい、鏡を見ながらイヤリングをつけていた。
真珠のイヤリング。勝負服だ。
彼女は私たちの姿を鏡越しに見て、眉をひそめた。
「……海から上がったばかりの妖怪みたいね」
「人魚と言ってほしいわ」
私は帳簿を机の上に置いた。水滴が染みを作る。
「ほら、お土産。バルド貿易の命綱よ」
ミレイは手を止め、帳簿を開いた。
彼女の目が、数字の列を高速で走る。
商人の目だ。利益と損失、そして弱点を瞬時に見抜く目。
「……なるほど」
彼女は口元に笑みを浮かべた。
「二重帳簿どころか、架空取引のオンパレードね。担保に入れている第4工場の資産価値を、実態の三倍に見せかけて銀行から融資を引き出している」
「これが銀行にバレればどうなる?」
レオニスがタオルで頭を拭きながら聞く。
「即時、融資停止よ」
ミレイは帳簿を閉じた。
「それどころか、全額一括返済を求められるわ。今のガストンにそんな現金はない。競売どころじゃなくなる」
彼女は時計を見た。
「競売の開始まであと二時間。会場には銀行の代表も来るはずよ。融資担当の頭取代理がね」
「その代理人に、これを見せればいいのか」
「ただ渡すだけじゃダメよ」
ミレイは立ち上がり、ジャケットを羽織った。
「銀行家というのは臆病な生き物なの。怪しい風体の人間から渡された濡れた帳簿なんて、信じないわ。正式なルートか、あるいは『抗えない状況』で突きつける必要がある」
「抗えない状況?」
私が首を傾げると、ミレイは窓の外を指差した。
通りを挟んだ向かい側。
レンガ造りの重厚な建物がある。
『南方海洋銀行』。
「頭取代理のルーカス氏は、毎朝決まった時間に、銀行の裏手にあるカフェで朝食をとるの。クロワッサンとエスプレッソ。それを邪魔されるのが大嫌いな神経質な男よ」
「……わかったわ」
私は濡れたコートを脱ぎ捨てた。
「朝食のテーブルに、激辛のスパイスを届ければいいのね」
*
カフェのテラス席は、朝日を避けるようにシェードが下ろされていた。
その一番奥の席に、ルーカス氏は座っていた。
銀縁眼鏡をかけ、新聞を広げている。テーブルの上には、冷めかけたエスプレッソと、食べかけのパン。
彼の周りには、目に見えない壁があるようだった。
誰も近づかない。店員さえも、用事がなければ近寄ろうとしない。
私は店の裏口から回り込み、植え込みの陰に隠れた。
レオニスは反対側、路地の角で待機している。
私たちの格好は、ミレイの店で借りた乾いた服に着替えていたが、それでもこの高級カフェには不釣り合いだ。
耳を澄ます。
ルーカス氏の思考音。
――ガストンめ。返済が遅れている。
――今日の競売で工場を安く買い叩き、転売して穴埋めにするつもりか。
――リスクが高い。本部の監査が近いというのに。
彼は迷っている。
ガストンとの癒着を続けるべきか、切り捨てるべきか。
決定的な理由を探している。
私は植え込みから小石を拾った。
そして、ルーカス氏の足元へ投げた。
コツン。
靴に当たる音。
「……ん?」
ルーカス氏が新聞を下げ、足元を見た。
その隙に、レオニスが動いた。
彼は風のようにテラスを横切り、ルーカス氏のテーブルに、あの帳簿を置いた。
音もなく。
そして、そのまま立ち止まらずに通り過ぎる。
「……なんだ、君は」
ルーカス氏が顔を上げた時には、レオニスの背中はもう人混みの中に消えかけていた。
テーブルには、濡れて変色した革表紙の帳簿だけが残されている。
「忘れ物かね?」
彼は不審そうに帳簿を手に取った。
表紙を開く。
中から、一枚のメモが滑り落ちた。ミレイが書いたものだ。
『貴行の金庫に穴が開いています。ご確認を』
ルーカス氏の目が、ページに吸い寄せられた。
数字を見る。
サインを見る。
裏取引の記録を見る。
彼の顔色が、クロワッサンのような狐色から、灰のような土気色へと変わっていく。
持つ手が震え、エスプレッソのカップがカチャカチャとソーサーを叩いた。
――馬鹿な。
――全部嘘だったのか。担保価値も、在庫も。
――騙された。私の責任問題になる。
「……会計だ!」
ルーカス氏は叫び、紙幣をテーブルに叩きつけた。
彼は帳簿を小脇に抱え、半分も食べていないパンを残して立ち上がった。
その足取りは、散歩を楽しむ紳士のものではなく、火事場から逃げ出す被害者のそれだった。
「……成功ね」
私は植え込みから出て、彼が残したクロワッサンを見た。
もったいない。
手を伸ばそうとしたが、レオニスに戻ってこいと手招きされたので諦めた。
「種は蒔いた」
レオニスが路地の陰で言った。
「あとは、会場で芽が出るのを待つだけだ」
「毒花が咲くわよ。ガストンにとってはね」
私たちはカフェを後にした。
港の方角から、始業の鐘が鳴っている。
競売の開始時刻が迫っていた。
*
競売会場は、港湾組合の大会議室だった。
扇風機が回っているが、熱気は収まらない。
タバコの煙と、男たちの脂汗の臭いが充満している。
会場の前方には、競売にかけられる物件のリストが掲示されていた。
目玉商品は『第4製薬工場』。
最低落札価格は、目が飛び出るような高額だ。
最前列の席に、ガストンが座っていた。
白いスーツ。昨日のオープンカーの男だ。
彼は両隣に用心棒を侍らせ、余裕たっぷりに葉巻をくゆらせている。
時折、周囲の参加者を睨みつけ、無言の圧力をかけていた。
「俺に逆らって入札するなよ」という脅しだ。
ミレイが入ってきた。
彼女は黒いドレスを着て、喪服のような帽子を被っていた。
だが、その表情は晴れやかだ。
彼女はガストンの反対側、最前列の端に座った。
私たちは会場の後ろ、立ち見席の柱の陰に陣取った。
ここなら全体が見渡せる。
「……来たわ」
私が囁いた。
会場の入り口から、青ざめた顔の男が入ってきた。
ルーカス氏だ。
彼は銀行関係者の席には座らず、会場の電話ボックスの方へ直行した。
受話器を握りしめ、早口で何かを怒鳴っている。
――本店か! 緊急事態だ!
――ガストンの口座を凍結しろ! 今すぐだ!
――担保は空っぽだ! 騙されたんだよ!
電話ボックスのガラス越しに、彼の焦燥が伝わってくる。
「銀行が動いたな」
レオニスが腕を組んだ。
「これでガストンの手足は縛られた」
壇上に競売人が上がった。
木槌を鳴らす。
カーン!
「これより、第4製薬工場の競売を開始します!」
ガストンが葉巻を消し、札を握りしめた。
彼はまだ知らない。
自分の財布の底に、私たちが大きな穴を開けたことを。
「さあ、見物ね」
私は柱にもたれかかった。
「成金が破産する瞬間なんて、そうそう見られるショーじゃないわ」




