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無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


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第118話 塩辛い着水

 警報ベルの音が、船倉の鉄壁に反響して脳を揺さぶっていた。

 私は耳を塞ぐ暇もなく、目の前のデスクへ飛び込んだ。

 スーツの男が、グラスを放り出して帳簿に手を伸ばしている。彼の目的は確保ではない。横にあるオイルランプの炎に、紙束を突っ込もうとしているのだ。


 「燃やさせない!」

 私はデスクの上を滑るように身を乗り出し、男の手首を両手で掴んだ。

 男の指先が、革表紙まであと数センチのところで止まる。

 ランプの火が揺れた。


 「離せ、ドブネズミ!」

 男が叫び、逆の手で私の髪を掴もうとする。

 私は構わず、全体重をかけて彼の手首をデスクに叩きつけた。

 

 ゴンッ。

 

 男が痛みに指を開く。

 その隙に、私は帳簿をひったくった。

 ずっしりと重い。湿気を吸った紙と、厚い革の感触。

 そこから、書き込まれた数字の「欲望」が、指先を通して流れ込んでくる。


 ――隠せ。

 ――裏金だ。

 ――証拠を残すな。


 「……確保したわ!」

 私は帳簿を懐にねじ込み、床に転がって距離を取った。


 直後、私の頭上が風を切った。

 護衛の男が振り下ろした警棒だ。

 私がいた場所のデスクの角が砕け散る。


 「殺せ!」

 スーツの男が怒鳴る。

 「帳簿を取り戻せ! あれが外に出れば終わりだ!」


 護衛が私に向き直る。

 その背後から、レオニスが迫っていた。

 彼は銃を撃たず、グリップを握ったままの拳を、護衛の腎臓あたりに叩き込んだ。


 ドスッ。

 鈍い音。

 護衛が息を詰まらせ、膝から崩れ落ちる。

 レオニスはそのまま走り抜け、私の襟首を掴んで立たせた。


 「走るぞ。上が騒がしい」

 「出口は?」

 「来た道は塞がれた。甲板への貨物用リフトを使う」


 私たちは船倉の奥へ走った。

 研究員たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い、実験体の檻からはうめき声が響いている。

 背後から、スーツの男が別の護衛を引き連れて追いかけてくる気配がした。


 *


 貨物用リフトの金網の中に入り、レオニスがボタンを叩いた。

 ガガガ、とモーターが唸り、床が上昇を始める。

 鉄格子の隙間から、下のフロアが見える。

 スーツの男が、私たちを見上げて何かを叫んでいた。

 

 ――逃がすな。

 ――上の部隊に連絡しろ。

 ――海に沈めろ。


 「……歓迎されてないわね」

 私は帳簿が落ちないようにコートのボタンを留めた。

 「ガストンは? まだ姿を見てないけど」

 「奴はここにはいない。この船はただの工場だ。奴は安全な陸の上で、上がりの金だけを待っている」


 リフトが甲板レベルに到達した。

 扉が開く。

 潮風が吹き込んできたが、それは自由の匂いではなかった。

 甲板には、すでに十人以上の男たちが待ち構えていたからだ。

 手にはバールやレンチ、数丁の銃が見える。


 「いたぞ!」

 「囲め!」


 「……強行突破だ」

 レオニスが私を背後に隠し、銃を構えた。

 だが、撃たない。

 弾数が足りないのと、マズルフラッシュでこちらの位置を固定されるのを嫌っているのだ。


 「海へ飛び込む」

 彼が短く告げた。

 「は? ここから?」

 私は手すりの向こう、漆黒の海面を見下ろした。

 高さがある。それに、夜の海は冷たい。

 「無理よ。私、カナヅチじゃないけど、魚でもないのよ」


 「ここにいれば魚の餌だ」

 レオニスは周囲を見回した。

 包囲網が狭まる。

 船尾側の手すりまでは約二十メートル。だが、その間には男たちが壁を作っている。


 「道を開ける」

 レオニスが銃口を上に向けた。

 狙いは敵ではない。

 頭上、メインマストから伸びる太いロープの結び目だ。

 巨大な帆桁ヤードを支えている、滑車の留め具。


 「レティ、耳を塞げ」


 パン!


 一発の銃声が夜空に響いた。

 火花が散り、留め具が弾け飛ぶ。

 支えを失った帆桁が、重力に従って落下を始めた。

 

 ブォン!


 風を切る音と共に、数トンの木材とロープの塊が、甲板上の男たちの頭上に降り注ぐ。

 

 「うわぁっ!」

 「あ、危ない!」


 男たちが悲鳴を上げて左右に散った。

 ドガァァン!

 帆桁が甲板に激突し、木片を撒き散らす。

 バリケードのように、敵の集団が分断された。


 「今だ! 走れ!」

 レオニスが私の手を引く。

 私たちは混乱する男たちの間を縫って、船尾の手すりへと疾走した。


 「待て! 撃て!」

 誰かが叫ぶ。

 背後で発砲音がしたが、狙いは定まっていない。弾丸が足元の鉄板を叩く。


 手すりに到達した。

 下は暗い海面。

 波が白く砕けている。


 「……高いわよ、レオ!」

 足がすくむ。

 「飛ばなきゃ死ぬ!」

 レオニスは問答無用で私を抱え上げた。

 「鼻をつまめ!」


 「ちょっと、心の準備が……!」


 彼は躊躇ためらわなかった。

 私を抱えたまま、手すりを乗り越え、虚空へと身を投げた。

 

 浮遊感。

 風の音。

 そして、暗い水面が急激に迫ってくる。


 ドボォン!


 衝撃。

 冷たい水が全身を打ち据え、視界が泡と闇に塗りつぶされた。

 息ができない。

 体が沈んでいく。

 コートが水を吸って重い。懐の帳簿が鉛のように胸を圧迫する。


 パニックになりかけたその時、強い力が私の腕を引いた。

 レオニスだ。

 彼は水中でも冷静だった。

 私の腰を掴み、水面へとキックする。


 プハッ!


 海面に顔を出した。

 酸素を吸い込む。塩辛い味が口いっぱいに広がる。

 「……げほっ、ごほっ!」

 「泳げるか」

 レオニスが髪をかき上げながら聞いた。

 「……なんとか。でも、帳簿が重い」


 頭上を見上げる。

 黒い帆船の甲板から、懐中電灯の光がいくつも海面を照らしていた。

 「いたぞ! 撃て!」

 水面に水柱が立つ。


 「潜れ!」

 レオニスが私の頭を押さえる。

 私たちは再び水中に潜り、船の影を利用して沖へと泳ぎ出した。


 冷たさが体力を奪っていく。

 だが、胸元の帳簿の感触だけは確かだった。

 これが、ガストンを、そして『蛇』を追い詰めるための最強の武器になる。

 私は海水を飲み込みそうになりながら、必死で水をかいた。

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