第117話 黒い帆船
波が船腹を叩く音が、不規則なリズムで鼓膜を揺らしていた。
ミレイが用意した手漕ぎボートは、観光用の華奢なものではなく、荷運び用の頑丈な木造船だった。
私は船首に座り、湿った海風を吸い込んだ。
昼間の熱気は嘘のように引いているが、海面から立ち上る湿度は変わらない。肌に塩が張り付くような感覚がする。
「……静かだな」
レオニスがオールを漕ぎながら呟いた。
彼がオールを水に入れるたび、布で巻かれた支点が音もなく回転し、黒い水面が滑らかに後ろへ流れていく。
水音さえ立てない。熟練の潜入工作員の技術だ。
「港の灯りが遠いわね」
私は後ろを振り返った。
ポルト・ロッサの街明かりが、水平線の彼方でぼんやりとした帯になっている。
私たちは沖合数キロの地点まで来ていた。
月はない。
星明かりだけが、波頭を白く縁取っている。
「あそこだ」
レオニスが顎をしゃくった。
進行方向、闇の中にさらに濃い影が浮かんでいる。
巨大な帆船だ。
帆は畳まれているが、マストが墓標のように空へ突き刺さっている。
舷側灯も、甲板の作業灯も点いていない。完全なブラックアウト状態だ。
「……幽霊船ね」
私は目を細めた。
「見た目はただの廃船だけど、中身が詰まってる音がする」
耳を澄ます。
波音の向こう側。
船の鉄板と木材がきしむ音。
そして、船倉の奥深くから響く、重苦しい換気ファンの唸り。
――回せ。空気を入れ替えろ。
――臭いが漏れる。
――静かに運べ。
「エンジンは止まってるけど、別の動力源が動いてるわ」
私はレオニスに伝えた。
「ボイラーの音。それと、薬液を循環させるポンプの音。北の工場や王宮の地下で聞いたのと同じリズム」
レオニスは頷き、オールの動きを止めた。
慣性でボートが進む。
私たちは船の死角、アンカーチェーンが垂れ下がっている船尾側へと回り込んだ。
船体にボートを寄せる。
フジツボだらけの船肌が、目の前に壁となって立ちはだかった。
腐った海藻と、錆びた鉄の臭い。
そしてその奥に、甘く危険な薬品の香りが混じっている。
「登るぞ」
レオニスが垂れ下がったロープ梯子――密輸業者が使う荷揚げ用のものだろう――に手をかけた。
「上に見張りは?」
「二人。甲板でタバコを吸ってる。でも、海側じゃなくて街の方を見てるわ」
私はレオニスの背中に続き、梯子を登った。
ロープが湿っていて滑る。
下を見ると、黒い海が口を開けて待っていた。落ちれば、サメの餌か、あるいは藻屑だ。
手すりを乗り越え、甲板に降り立つ。
足音を殺す。
甲板は広く、積み上げられたコンテナや防水シートを被せられた資材が、迷路のような影を作っていた。
「……あそこだ」
レオニスが物陰から指差す。
船橋の明かりが消えている。
だが、甲板の中央にあるハッチから、微かな光が漏れ出していた。
見張りの男たちが、船首の方で話し込んでいる。
「……いつまでここで待機なんだ」
「積み荷が満杯になるまでだろ。ガストン様からの指示待ちだ」
「気味の悪い仕事だぜ。下の連中、また一人死んだぞ」
会話が聞こえる。
レオニスと目を見合わせる。
強行突破はリスクが高い。
私たちはコンテナの影を伝い、中央ハッチへと接近した。
ハッチは半開きになっていた。
隙間から、生温かい空気が吹き上げてくる。
私は鼻を押さえた。
王都の地下で嗅いだ、あの琥珀色の液体の臭い。それがもっと濃縮され、饐えた体臭と混ざり合った、吐き気を催す悪臭。
「行くぞ」
レオニスがハッチをくぐり、鉄の階段を下り始めた。
私も続く。
階段を下りるにつれ、機械の駆動音が大きくなり、何とも言えないうめき声のような音が聞こえてきた。
*
船倉は、地獄の釜の底だった。
本来なら積み荷を入れるための広いスペースが、鉄格子とビニールシートで区切られ、即席の実験室兼牢獄に改造されている。
天井のパイプからは白い蒸気が噴き出し、床には色とりどりのケーブルが這い回っていた。
「……なんだこれは」
レオニスが息を呑む。
鉄格子の向こうには、人間が詰め込まれていた。
男も女もいる。
彼らは粗末な服を着せられ、腕には点滴のチューブが繋がれている。
目は虚ろで、口からは涎を垂らし、ただぼんやりと天井を見つめていた。
私は格子に近づいた。
彼らの心の声を聞く。
――気持ちいい。
――ふわふわする。
――働きたい。ご主人様のために。
「……洗脳済みね」
私は拳を握りしめた。
「恐怖を抜くんじゃない。自我を溶かして、従順な労働者に作り変えてるんだわ」
奥の区画では、白衣を着た男たちが作業をしていた。
彼らは実験台に拘束された男に、注射器で何かを打ち込んでいる。
液体の色は、薄い緑色。
北の工場で作っていたものとは違う。もっと精製された、強力な薬物だ。
「……投与量を増やせ」
研究員の一人が指示する。
「南のプランテーションは過酷だ。痛みを感じる神経は邪魔になる」
「了解。脳の前頭葉を麻痺させます」
男が痙攣し、白目を剥く。
だが、悲鳴は上げない。声帯が既に潰されているのか、あるいは叫ぶ気力さえ奪われているのか。
「……許せん」
レオニスの手が、腰の銃に伸びた。
「こいつら、人間をただの消耗品に変えている」
「待って」
私は彼の手首を掴んだ。
「まだ撃たないで。証拠が要るわ」
「この惨状が証拠だろう」
「動かぬ証拠よ。この船の航行記録とか、取引の帳簿とか。それがないと、ガストンを追い詰められない」
私は視線を巡らせた。
部屋の隅、デスクワーク用のスペースがある。
そこに、一人の男が座っていた。
白衣ではなく、スーツを着ている。
バルコニーから見下ろすように、下の惨状を眺めながらワインを飲んでいた。
「……ガストンじゃないわね」
「代理人か、あるいは『蛇』の監査役か」
男の机の上には、分厚い革表紙の帳簿が置かれている。
耳を澄ます。
帳簿の声。
――数字が合わない。
――裏金。賄賂。
――次の取引は明日。
「あそこよ」
私は指差した。
「あの帳簿。あれに全ての金の流れと、誘拐された人たちのリストが載ってる」
レオニスが頷く。
「奪うぞ。音を立てずに近づく」
私たちは物陰を利用して移動した。
配管の陰、積み上げられた木箱の隙間。
床は濡れて滑りやすいが、ミレイがくれたゴム長靴のおかげで足音はしない。
デスクの真下まで来た。
男はまだワイングラスを揺らしている。
彼の背後には、護衛らしき男が一人、壁にもたれて立っていた。
「……俺が護衛をやる」
レオニスが囁く。
「お前は帳簿を確保しろ」
「了解。合図は?」
「なしだ。俺が動いたら走れ」
レオニスが息を吸い込んだ。
筋肉が収縮する音。
飛び出す寸前の、張り詰めた弦のような気配。
その時。
船内放送のスピーカーから、ざらついたノイズが流れた。
『侵入者あり。甲板の見張りが一人、海に落ちた』
男がグラスを置いた。
護衛が銃を構える。
「……バレたか」
レオニスが舌打ちをする。
「予定変更だ。強行突破する」
彼が飛び出した。
隠密行動は終わりだ。
ここからは、力づくの奪取劇になる。
「確保ーっ!」
私は叫びながら、デスクに向かって全速力で走った。
薬品の臭いが鼻を突き、警報のベルが鳴り響く。
地獄の釜の底で、宴が始まろうとしていた。




