第116話 北からの荷物
港湾地区の空気は、境界線を境にして明確に分かれていた。
ミレイの商会がある西側は、活気と商魂の熱気が渦巻いているが、東側――バルド貿易が支配する区画――は、どこか澱んだ、湿った緊張感に包まれている。
私たちは作業着の上からさらに油汚れを塗りたくり、日雇い労働者の列に紛れ込んでいた。
「……姿勢がいい」
私は前の男の背中を小突いた。
「もっと猫背にして。軍隊の行進じゃないのよ」
「骨格の構造上、これ以上曲げると腰を痛める」
レオニスは不満げに肩を回した。
彼の顔には、私が道端の機械油で描いた即席の隈と髭がある。薄汚れたハンチング帽を目深に被れば、何とか荒くれ者に見えなくもない。
列が進む。
手配師の男が、労働者たちを品定めしていた。
「お前と、お前。あっちの船だ。……そこのデカイの、こっちに来い」
手配師がレオニスを指差した。
「力はありそうだな。特別手当が出る現場だ。口の堅い奴が要る」
「口は堅いほうです」
レオニスが野太い声を作って答える。
「相棒も一緒で頼みます。こいつは目端が利く」
手配師は私を一瞥し、鼻で笑った。
「チビだな。まあいい、隙間に入るのには役立つだろう。ついてこい」
私たちは採用された。
案内された先は、一般の荷揚げ場から隔離された、高いフェンスに囲まれた区画だった。
そこには、塗装の剥げた中型の貨物船が停泊している。
船体に書かれた船名は塗りつぶされ、どこの所属かもわからない。
「あの木箱を倉庫へ運べ」
手配師がタラップの下に積まれた荷物を指差した。
「中身は精密機械だ。落としたら海に沈めるぞ」
レオニスが無言で木箱を持ち上げた。
私も小さな箱を抱える。
見た目よりも重い。
そして、重心が定まらない。中で液体が揺れる感触がする。
「……機械にしては、タプタプ言ってるわね」
私はレオニスの後ろを歩きながら囁いた。
「精密機械って、今は液体状で出荷されるのかしら」
「オイル漬けの部品かもしれん。だが、この重さは金属ではないな」
私たちは倉庫の中へと入った。
外の陽光が遮断され、薄暗い空間に裸電球が頼りなく揺れている。
カビと、埃と、そして鼻の奥を刺激する酸っぱい臭い。
指定された場所に箱を下ろす。
すでに大量の同型の箱が積み上げられていた。
作業員たちは無言で往復している。誰も無駄口をきかない。監視役の男たちが、警棒を持って目を光らせているからだ。
「……調べるぞ」
レオニスが次の荷物を取りに行くふりをして、積まれた箱の裏側へと回った。
監視役の視線が外れる一瞬の隙。
私は箱の一つに手を触れた。
粗い木の感触。
そこから、この荷物が辿ってきた長い旅路の記憶が流れ込んでくる。
ザザァ……ザザァ……。
波の音ではない。
もっと冷たい、凍りついた風の音。
――積め。急げ。
――検問は買収済みだ。
――北の港を出れば、あとは自由だ。
「北から来たわ」
私は箱に耳を押し付けた。
「雪の匂いがする。それと、あの廃鉱山と同じ土の気配」
さらに深く潜る。
箱の中身。
ガラス瓶の中で揺れる液体の声。
――混ぜるな。振るな。
――揮発する。
――精製前の原液だ。
「……当たりよ」
私は顔を上げた。
「精密機械なんかじゃない。薬の材料。北の工場で作っていた『恐怖を消す薬』の、さらに濃い原液みたい」
レオニスが木箱のラベルを確認する。
表向きは『工業用潤滑油』と書かれているが、その下にうっすらと別の焼印が透けていた。
独特の形状をした文字。
王都の地下や、北の廃坑で見た、あの旧王国の文字だ。
「読めるか」
「ええ」
私は指でなぞった。
「『Vi(毒)』……いいえ、『薬』とも読める。『変質させるもの』という意味ね」
「ビンゴだな」
レオニスが周囲を警戒しながら言った。
「バルド貿易はただの商売敵じゃない。『蛇』の物流部門そのものだ。北で作った違法薬物をここに運び込み、加工して売りさばいている」
「加工?」
「原液のままだと扱いづらい。商品にするには、安定させる必要がある」
彼は倉庫の奥、厳重に鍵がかけられた鉄扉の方角を見た。
「あそこで何かやっているはずだ」
その時、倉庫の入り口から怒声が響いた。
「おい! そこの二人! 何サボってやがる!」
手配師がこちらを睨みつけている。
警棒を持った監視役が、威圧的に歩み寄ってきた。
「……休憩は終わりだ」
レオニスがエプロンで手を拭い、何食わぬ顔で歩き出した。
「すみませんね、相棒が腰を痛めたもんで」
彼は監視役の横を通り過ぎる際、わざとらしくよろめき、相手の肩に手を置いた。
「おっと」
「触るな! 汚い手で!」
監視役が彼の手を振り払う。
レオニスは卑屈に頭を下げ、私を促して作業に戻った。
再び荷運びの列に加わる。
私はレオニスのポケットが、さっきより少し膨らんでいるのを見逃さなかった。
彼が監視役にぶつかった際、腰から鍵束をスったのだ。
「……やるわね」
「手癖の悪い部下を持ったおかげだ」
彼は木箱を担ぎながら、口の端だけで笑った。
日が傾き、作業が終わる頃には、私たちの体は汗と埃で泥人形のようになっていた。
手配師から日当を受け取る。
わずかな銀貨。
重労働の対価としては安すぎるが、情報の対価としては十分だ。
「明日の朝も来いよ」
手配師が言った。
「次は積み込み作業だ。加工済みの商品を船に乗せる」
「へえ、どこへ行くんです?」
私が無邪気に聞くと、手配師は急に声を低くした。
「詮索するな。……『幽霊船』行きの荷物だ」
「幽霊船?」
「夜になると沖に出る黒い船だよ。関わるとろくなことがねえ」
手配師は気味悪そうに肩を震わせ、事務所へ戻っていった。
私たちは港を出て、人目のつかない路地に入った。
レオニスがポケットから鍵束を取り出し、ジャラリと鳴らした。
「倉庫の奥の鍵だ。今夜、忍び込む」
「その前に、あの『幽霊船』の話が気になるわ」
私は海の方角を見た。
夕闇が迫る水平線に、不自然な影が浮かんでいるのが見える。
「加工した薬を、どこへ運ぶのか。もしかしたら、海の上に『工場』があるのかもしれない」
「水上工場か。証拠隠滅には最適だな」
レオニスは鍵を握りしめた。
「今夜は忙しくなりそうだ。ミレイに報告してから、船の準備をさせる」
「ボート?」
「ああ。幽霊退治には、小回りの利く船が必要だ」
私たちはミレイの支店へと急いだ。




