第115話 熱帯の商戦
麻袋の表面は粗く、素手で掴むと指の皮が削れるような感触がした。
中身はコーヒー豆だ。
焙煎される前の青臭い豆の匂いが、麻の繊維を通して漂ってくる。
私はそれを肩に担ごうとしてよろめき、隣にあった木箱に背中を打ち付けた。
「……重い」
私は呻き声を漏らし、ずるずると床に座り込んだ。
「ねえ、私の契約内容は『高度な情報収集と交渉』じゃなかった? これじゃただの港湾労働者よ」
レオニスが私の横を通り過ぎ、同じ麻袋を軽々と二つ、両肩に担いで運んでいく。
彼は帆布のエプロンを着け、袖を捲り上げている。玉のような汗が二の腕を伝い、日焼けした肌の上を滑り落ちていた。
「労働に貴賤はない。それに、体を動かせば飯が美味い」
「野蛮人」
倉庫の中は蒸し風呂のようだった。
天井のファンが回っているが、熱気をかき回しているだけに過ぎない。
外からは、船の汽笛とカモメの声、そして荷揚げ人足たちの威勢のいい掛け声が響いてくる。
「休憩よ、休憩」
私は麻袋を枕にして寝転がった。
「これ以上働くと、私がコーヒー豆みたいに乾燥して出荷されちゃうわ」
コツ、コツ、と硬いヒールの音が近づいてきた。
ミレイだ。
彼女は氷の入ったグラスを二つ、お盆に乗せて現れた。
白い麻のスーツを着こなし、この暑さの中でも涼しい顔をしている。
「お疲れ様。サボるなら見えないところでやりなさい」
彼女はグラスを木箱の上に置いた。
中身は薄緑色の液体。ライムとミントの水だ。
「生き返る……」
私は飛び起きてグラスを掴み、一気に煽った。
酸味が喉を突き抜け、胃袋を冷やす。
レオニスも荷物を下ろし、グラスを受け取った。
「……それで、本題はいつだ」
彼は水を飲み干し、氷をガリリと噛み砕いた。
「ただの荷運びのために俺たちを呼んだわけではないだろう」
「ええ。人手が足りないのは事実だけど、あなたたちにはもっと『専門的』な仕事をしてもらわないとね」
ミレイは懐から一枚の地図を取り出し、木箱の上に広げた。
この港町の地図だ。
港湾地区の倉庫や工場が詳細に描かれているが、その大半が赤く塗りつぶされている。
「赤い部分は?」
私が聞くと、ミレイは扇子で地図を叩いた。
「敵の陣地よ。『バルド貿易』。ここ数年で急成長した新興商会で、今やこの港の物流の大半を握っているわ」
バルド貿易。
かつて王都で、腐った麦を軍に納品し、私たちが摘発した補給将校と癒着していた商会だ。
「因縁の相手だな」
レオニスが地図を睨む。
「奴らがこの街の元締めか」
「ええ。やり方が汚いのよ」
ミレイは顔をしかめた。
「買収、脅迫、放火。欲しい物件があれば手段を選ばない。おかげで私の商会も、主要な倉庫をいくつか奪われたわ」
彼女は地図の一点を指差した。
港の東側、埋立地にある大きな区画。
『第4製薬工場』と書かれている。
「ここよ」
ミレイが言った。
「あなたたちが持ち帰った『白い種子』。あれを量産して解毒剤を作るには、この工場の設備が必要なの。最新の抽出機と、無菌室が揃っている」
「持ち主は?」
「今はバルドの所有よ。でも、稼働はしていない。奴らはここをただの麻薬倉庫として使っているという噂があるわ」
私の耳が反応した。
麻薬倉庫。
「……奪えばいいの?」
私が聞くと、ミレイは首を横に振った。
「強盗は商人の流儀じゃないわ。買い取るのよ」
「売ってくれると思う?」
「向こうから『売りたい』と言わせる状況を作るの」
その時、表の通りから騒がしい音が聞こえてきた。
トラックのクラクション。
そして、我が物顔で怒鳴り散らす男の声。
「どけ! ここはバルド様の通り道だ!」
ミレイの表情がスッと冷たくなった。
「……噂をすれば、ね。疫病神のお出ましよ」
私たちは倉庫の入り口へ向かった。
通りには、派手な装飾を施したオープンカーが止まっていた。
運転席には屈強な用心棒。
後部座席には、白いスーツを着た小太りの男が、葉巻をふかしながらふんぞり返っている。
男は車を降りると、汗をハンカチで拭いながら、ミレイの店の前まで歩いてきた。
首には太い金のネックレス。指には宝石のついた指輪がいくつも光っている。
成金趣味の塊だ。
「やあ、ミレイさん」
男は葉巻の煙をわざとらしく吹きかけた。
「まだこんなちっぽけな店にしがみついているのかね。さっさと売り払って、田舎に帰ったらどうだ」
「ガストン支店長」
ミレイは扇子で煙を払った。
「私の店先でタバコを吸わないでいただける? 商品に臭いがつくわ」
ガストンと呼ばれた男は、下卑た笑い声を上げた。
「強気だねえ。だが、いつまで持つかな。港湾組合はもう俺たちの言いなりだ。あんたの船が着岸できる場所なんて、もう残っていないぞ」
彼は背後に控える用心棒たちに目配せをした。
男たちがニヤニヤしながら、店の入り口を塞ぐように立つ。
営業妨害だ。
「……帰れ」
低い声がした。
レオニスが前に出た。
彼はエプロン姿のままだが、その立ち姿だけで用心棒たちが足を止める威圧感がある。
「あ? 誰だテメェ」
用心棒の一人が凄む。
「ただの荷運びだ。だが、この店の入り口は荷物の搬入で忙しい。貴様らのような粗大ゴミを置くスペースはない」
「なんだと!」
用心棒が胸倉を掴もうと手を伸ばす。
レオニスは避けなかった。
相手の手首を軽く叩き落とし、そのまま半歩踏み込んで、肩で相手を弾き飛ばした。
ドン。
軽い動作に見えたが、用心棒は数メートル後ろへ吹き飛び、オープンカーのボンネットに背中を打ち付けた。
車体が揺れる。
「……!」
ガストンの目が丸くなった。
「き、貴様……」
私はガストンの後ろに回り込み、彼のスーツのポケットあたりに耳を向けた。
金目の音ではない。
紙の擦れる音。
そして、彼自身から発せられる、焦燥と恐怖の思考音。
――まずい。
――ノルマが達成できていない。
――『上』に知られたら殺される。
「……ねえ、おじさん」
私はガストンの背中をつついた。
「随分と焦ってるわね。汗の量がおかしいわよ」
「な、何だこのガキは!」
ガストンが振り向く。
「懐から、カサカサ音がするわ」
私は彼の胸ポケットを指差した。
「手紙? それとも督促状? 『今月中に港を制圧しろ、さもなくば……』なんて書いてあるんじゃない?」
ガストンが慌てて胸を押さえた。
図星だ。
彼もまた、誰かに追い立てられている。
「ちっ……狂人どもの相手をしている暇はない!」
ガストンは捨て台詞を吐き、車に乗り込んだ。
「覚えていろよ、ミレイ! 来週の競売で、あんたの工場を全部買い叩いてやるからな!」
車が急発進し、黒い排気ガスを残して去っていった。
用心棒たちも慌てて追いかけていく。
「……競売?」
ミレイが眉をひそめた。
「あいつ、何を言ってたの」
「工場の話だ」
レオニスがエプロンの埃を払った。
「奴らの資金繰りが怪しいのかもしれん。焦っていた」
「調べてみる価値はあるわね」
私はガストンが去った方向を見つめた。
あの男の背後には、間違いなく『蛇』がいる。
そして、その『蛇』は今、何かを急いでいる。
「仕事よ」
私はミレイに向き直った。
「荷運びは終わり。探偵の時間だわ」
南国の太陽が、ギラギラと路面を焼いていた。
その熱気の下で、私たちは新たな獲物の臭いを嗅ぎつけていた。




