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無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


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第114話 潮風の洗礼

 駅のホームに降り立った瞬間、湿った熱気が全身にまとわりついた。

 北の山地や王都の乾燥した暑さとは違う。まるで熱い湯の中に服を着たまま飛び込んだような、重たくて密度の高い空気だ。

 私は反射的にコートのボタンを全て外し、襟を掴んでパタパタとあおいだ。


 「……サウナね」

 額から汗が噴き出す。

 「誰よ、南の海は楽園だなんて言ったのは。これじゃ蒸し焼きの刑場じゃない」


 隣に立つレオニスは、もっと悲惨だった。

 彼はまだ北国の装備――厚手のウールシャツに、革のベスト、そして軍用ジャケット――を着込んでいた。

 顔からは滝のように汗が流れ、整えられた髪が湿気で額に張り付いている。


 「……脱げ」

 私は彼のジャケットを引っ張った。

 「我慢大会をしてる場合じゃないわ。熱中症で倒れたら、運ぶのは私なのよ」

 「同意する。この気候は異常だ」


 レオニスはジャケットを脱ぎ、腕にかけた。

 シャツの背中が汗で変色し、肌に張り付いている。

 私たちは人混みをかき分け、駅の出口へと向かった。

 すれ違う人々は皆、薄い麻のシャツや、肌を露出したドレスを着ていた。肌の色は濃く、日差しに負けない活気に満ちている。


 駅舎を出ると、強烈な陽光が目を焼いた。

 空の青さが違う。

 塗料をぶちまけたような濃い青色。

 そして、その向こうには、太陽の光を反射してギラギラと輝く水平線が広がっていた。


 「海だ」

 レオニスが目を細める。

 「潮の匂いがする」

 「生魚と海藻の匂いね」

 私は鼻をつまんだ。

 「市場の魚売り場を、街全体に広げたような感じ」


 カモメの鳴き声がうるさい。

 ギャア、ギャアと、獲物を奪い合うような叫び声が頭上で交差する。

 

 耳を澄ます。

 街の音。

 波の音。船の汽笛。

 そして、活気ある商売の声。


 ――安いよ! 採れたてだ!

 ――氷! 冷たい水はいらんかね!

 ――荷物を運べ! 船が出るぞ!


 「……賑やかね」

 私はコートを脱ぎ、丸めて脇に抱えた。

 シャツ一枚になってもまだ暑い。

 「北の静けさが嘘みたい」


 私たちは大通りを歩いた。

 白い壁の建物が並び、通りには色鮮やかな果物や織物を並べた露店がひしめいている。

 地面からの照り返しがキツイ。

 歩いているだけで体力を削られる。


 「……限界」

 私は足を止めた。

 「もう一歩も歩けない。溶解する」

 「目的地まではあと少しだ。我慢しろ」

 「無理。燃料切れよ」


 私は通りの向かい側、人だかりができている屋台を指差した。

 看板には『ジェラート』の文字。

 ガラスケースの中に、赤や黄色、白の冷たい塊が並んでいる。


 「あれ」

 私は宣言した。

 「あれを食べないと、私はここで干物になるわ」


 レオニスは屋台を見やり、それから私の汗だくの顔を見て、ため息をついた。

 「……わかった。だが、腹を壊すなよ」


 私たちは屋台に並んだ。

 店主の陽気な男が、ヘラを使って器用にジェラートを練り、コーンに盛り付けていく。

 私は一番鮮やかな赤色――ブラッドオレンジ――を選んだ。

 レオニスは無難にレモンを選んでいる。


 受け取った瞬間、指先に冷たさが伝わってきた。

 それだけで、少し生き返る気がする。

 日陰のベンチに座り、赤い山を舐めた。


 「……んん!」

 強烈な酸味と冷気が、舌を麻痺させ、食道を通って胃袋へと落ちていく。

 頭の奥がキーンと痛む。

 

 「冷たい……痛い……でも美味しい」

 私は目尻に涙を浮かべながら、二口目を急いだ。

 暑さですぐに溶け始めてしまうからだ。

 赤い雫が指に垂れる。


 レオニスも一口食べ、眉間の皺を深くした。

 「……頭が痛む」

 「急いで食べるからよ。でも、これくらい刺激がないと、この暑さには勝てないわ」


 冷たい塊が体を内側から冷やしてくれる。

 汗が引いていく。

 私たちは無言で、溶ける速度と競争するようにジェラートを平らげた。

 最後に残ったコーンの端を齧る頃には、私はようやく人間らしい思考を取り戻していた。


 「さて、行くか」

 レオニスがナプキンで指を拭いた。

 「ミレイの支店は港の近くだ。船荷の積み下ろしで忙しい時間帯だろう」


 私たちは港湾地区へと向かった。

 潮の匂いが強くなる。

 巨大なクレーンが空を切り、木箱や樽が山のように積まれている。

 その一角に、見覚えのある紋章を掲げた建物があった。

 『ミレイ商会・ポルトロッサ支店』。


 「……立派ね」

 レンガ造りの三階建て。

 一階は倉庫兼店舗になっており、大勢の作業員が出入りしている。

 私たちは開け放たれた入り口から中に入った。


 中は戦場だった。

 伝票を持った事務員が走り回り、荷運び人夫が怒鳴り合い、電話のベルが鳴り響いている。

 その喧騒の中心、一段高い帳場に、彼女はいた。


 ミレイ。

 王都にいるはずの彼女が、なぜかここにいる。

 彼女は袖をまくり上げ、扇子で顔をあおぎながら、部下たちに指示を飛ばしていた。


 「二番倉庫の在庫が合わないわよ! 数え直しなさい!」

 「バルドの船が入港した? 積荷のリストをすぐによこして!」


 彼女の視線が、入り口に立つ私たちを捉えた。

 緑色の瞳が光る。

 驚きはない。獲物を見つけた猛獣の目だ。


 「……あら」

 彼女は帳場を降り、優雅に、しかし逃げ道を塞ぐような足取りで近づいてきた。

 「来たわね、のんびり屋の逃亡者たち」


 「なぜここにいる」

 レオニスが尋ねる。

 「王都の店はどうした」


 「あっちは支配人に任せたわ。今、一番金が動いているのはここよ」

 ミレイは私の顔を見て、口元の赤いシミ――ジェラートの痕跡――を指差した。

 「いいご身分ね。人が汗水垂らして働いている間に、観光気分?」


 「エネルギー補給よ」

 私は口元を拭った。

 「約束通り来たわよ。種もレシピもある。工場を用意してくれるんでしょ?」


 「ええ、用意するわ。でもその前に」

 ミレイは近くの棚から、厚手の帆布はんぷでできたエプロンを二枚掴み取り、私たちに投げつけた。


 「働いてもらうわよ」

 彼女はニッコリと笑った。

 「見ての通り、猫の手も借りたい状況なの。解毒剤を作る前に、まずはこの山のようになった積荷を片付けなさい」


 レオニスがエプロンを受け取り、呆然としている。

 「……俺は将軍だぞ。荷運びなど……」

 「『元』将軍でしょ? 今は私の従業員よ。時給は弾むから、さっさと着替えて」


 ミレイは手を叩いた。

 「さあ、動いた動いた! 日が暮れるまでに終わらせないと、夕飯抜きよ!」


 私はエプロンを首にかけた。

 生地は硬く、魚と香辛料の匂いが染み付いている。

 

 「へいへい、ボス」

 私はレオニスの背中を叩いた。

 「諦めなさい。この女に捕まった時点で、バカンスは終了よ」


 私たちは南国の太陽の下、汗と埃にまみれる労働の日々へと放り込まれた。

 海風が吹き抜け、新しい戦いの始まりを告げていた。

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