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無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


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第113話 夜行列車

 背中の板張りが、容赦なく肩甲骨を押し返してくる。

 三等客車の座席は、人間が座るためというよりは、荷物を詰め込むために設計されているようだった。

 私は窮屈な姿勢で身じろぎし、隣に座っている恰幅の良い商人の腕が、こちらの領空を侵犯してくるのを肘で押し返した。


 「……狭い」

 私は前の座席の背もたれに膝を押し付けた。

 「貨物列車のほうがマシだったわ。少なくともあそこには、いびきをかくおじさんも、漬物臭い籠もなかった」


 向かいの席に座るレオニスは、腕を組んで目を閉じていた。

 彼は微動だにしない。

 周囲の喧騒――赤ん坊の泣き声、鶏の鳴き声、車輪の轟音――をすべて遮断し、彫像のように鎮座している。

 唯一、額に滲んだ汗だけが、車内の蒸し暑さを物語っていた。


 「文句を言うな」

 レオニスが目を開けずに言った。

 「正規の切符を買ったんだ。堂々と座っていられるだけ上等だ」

 「座ってるっていうより、挟まれてるのよ」


 私は窓ガラスに額をつけた。

 外は闇だ。

 時折、線路脇の信号灯が流れていくだけで、景色は見えない。

 ただ、窓の隙間から入り込んでくる風の質が変わってきていた。

 北の刺すような冷気は消え、湿気を含んだ生温かい風が、頬を撫でる。


 「……腹減ったかい、お嬢ちゃん」

 突然、向かいの席から声がかかった。

 レオニスの隣に座っていた老婆だ。

 頭に花柄のスカーフを巻き、膝の上に大きなバスケットを抱えている。

 彼女はバスケットの蓋を開け、中から白い布包みを取り出した。


 「ほら、お食べ。卵だよ」

 老婆は日焼けした手で、卵を二つ差し出した。

 まだ温かい。


 「……いいの?」

 「いいさ。孫くらいの歳の子がひもじそうにしてると、こっちまで腹が減るんだよ」

 老婆は笑うと、歯が数本欠けているのが見えた。


 私は礼を言って卵を受け取り、一つをレオニスの膝に置いた。

 「配給よ、ボス。感謝して」

 レオニスは片目を開け、膝の上の卵を見て、それから老婆に軽く頭を下げた。


 私はコンコンと窓枠で卵の殻を叩いた。

 ヒビが入る。

 指先で殻を剥き始める。

 だが、うまくいかない。

 白身が薄皮にくっついて、殻と一緒に剥がれてしまう。ボロボロになった白身の表面は、月面のように凸凹になった。


 「……あー、もう」

 私は爪を立てた。

 殻が細かく砕け、指に張り付く。

 剥けば剥くほど、卵は小さく、無惨な姿になっていく。


 見かねたレオニスが、私の手から卵を取り上げた。

 「貸せ。見ていられん」


 彼は自分の分の卵と、私の作りかけの残骸を持ち替えた。

 そして、自分の卵をテーブルの角で軽く叩く。

 全体に細かなヒビを入れる。

 彼は親指の腹を使って、殻を優しく押した。

 ツルリ。

 大きな殻が、帯のように繋がって剥がれ落ちる。

 中から現れたのは、傷一つない、つるりとした白い肌だった。


 「……何よそれ」

 私は不満げに言った。

 「手品?」

 「構造力学だ。薄皮と白身の間に空気の層を作れば、抵抗なく剥離する」


 レオニスは剥き終わった卵を私に渡し、私がボロボロにした方の卵を手に取った。

 彼は文句も言わず、凸凹になった白身についた細かい殻を丁寧に取り除き、口に放り込んだ。


 「食え。塩は婆さんが持っている」

 老婆が小瓶を差し出す。

 私は綺麗な卵に塩を振り、齧り付いた。

 黄身が喉に詰まりそうになるが、素朴な味が空腹に染みる。


 「……ありがとう」

 私は口をもごもごとさせながら言った。

 「器用貧乏ね。あんた」

 「貧乏は余計だ」


 列車が長いトンネルに入った。

 轟音が響き、窓の外が完全な漆黒になる。

 車内のランプが揺れ、乗客たちの影を壁に映し出す。


 トンネルを抜けると、空気が一変していた。

 窓から吹き込む風が、熱い。

 湿度はさらに上がり、草の匂いと、土の匂いが濃厚に漂ってくる。


 レオニスが上着を脱いだ。

 シャツの背中が汗で張り付いている。

 「……気温が上がったな」

 「ええ。コートが邪魔になってきたわ」


 私は窓を開け放った。

 夜風が髪を乱す。

 遠くの闇の中に、チラチラと光る明かりが見えた。

 街の灯りだ。

 北の街のような、閉ざされた暖炉の光ではない。もっと開放的で、騒がしい光。


 「南ね」

 私は最後の卵を飲み込んだ。

 「やっと着くわ。カビの生えたパンとおさらばして、ジェラートを食べるのよ」


 レオニスは腕を組み直し、また目を閉じた。

 「着いたらすぐに動くぞ。ミレイの支店を探す」

 「わかってるわよ。でもその前に、着替えないと。このコートじゃ蒸し焼きになるわ」


 列車が警笛を鳴らした。

 長く、高い音。

 それは、新しい舞台への到着を告げるファンファーレのように聞こえた。

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