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無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


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第112話 古いレシピ

 私は管理室の机に残されていたノートを、指先で弾いた。

 革の表紙は湿気で波打ち、端が擦り切れている。だが、そこに記された鉛筆の筆跡は、数十年という時間を経てもなお、書いた人間の体温を留めているように見えた。


 「……レシピね」

 私はノートを閉じ、懐にしまい込んだ。

 「料理の作り方じゃないけど、効き目は劇薬並みよ」

 「持ち出せるか」

 レオニスが入り口で振り返る。彼はすでに装備を整え、いつでも撤収できる態勢にあった。


 「ええ。種も確保したわ」

 私はポケットを叩いた。

 ガラス瓶の中で、白い種子が乾いた音を立てる。

 これが抗体。

 『蛇』がばら撒く毒を中和し、洗脳された人々を正気に戻すための唯一の鍵。


 私は部屋を出る前にもう一度だけ、この地下空間を見渡した。

 破壊されたキャットウォーク。

 散乱したガラス片。

 そして、部屋の中央で膝をつき、沈黙を守っている鉄の巨人。


 巨人はもう動かない。

 赤い光も緑の光も消え、ただの錆びた金属の塊としてそこに在った。

 ボイラーからの排熱もなくなり、急速に冷たくなっていくのがわかる。


 「……行くぞ」

 レオニスが促す。

 「弔いの言葉なら、心の中で済ませろ」

 「済ませたわ。彼は満足してる」


 私は巨人の足元を通り過ぎた。

 もう、機械的な駆動音も、ループする思考ノイズも聞こえない。

 彼は長い任務を終え、深い眠りについたのだ。

 それを邪魔するのは無粋というものだろう。


 私たちは崩れた天井の隙間から差し込む光を目指して、瓦礫の山を登り始めた。


 *


 地上に出ると、霧は驚くほど晴れていた。

 上空を覆っていた白い蓋が消え、青い空が覗いている。

 陽光が濡れた地面を照らし、草木の緑を鮮やかに浮かび上がらせていた。


 「……眩しいわね」

 私は目を細め、手で庇を作った。

 地下の暗闇に慣れた目には、午後の日差しが痛い。


 目の前には、あの小さな家が建っている。

 私の生家。

 屋根の苔が、光を受けて金緑色に輝いていた。

 窓ガラスは割れておらず、静かに私たちを見下ろしている。


 レオニスが家の前で足を止めた。

 彼は建物を一瞥し、それから私を見た。

 「どうする。燃やすか?」

 「は?」

 「痕跡を消すなら、焼却が一番確実だ。『蛇』の残党がここを嗅ぎつける可能性もある」


 極めて実務的な提案だ。

 確かに、ここに重要な研究施設があった証拠を消すには、火を放つのが手っ取り早い。

 私はポケットの中の絵本――『迷子の仔猫』――の感触を確かめた。


 「……いいえ」

 私は首を横に振った。

 「そのままでいいわ。鍵もかけない」

 「物騒だな」

 「泥棒が入るような家財道具なんて残ってないもの」


 私はドアノブに手を触れ、軽く押した。

 カチャリ、と音がしてドアが閉まる。

 

 「それに、番犬がいるわ」

 私は地下への入り口――研究棟の方角を見た。

 あの鉄の巨人が、地下で眠っている。

 もし誰かが悪意を持って侵入しようとすれば、彼がまた目を覚ますかもしれない。あるいは、この谷の霧そのものが、侵入者を拒むだろう。


 「いつか、戻ってくるの?」

 レオニスが聞いた。

 「さあね。老後の隠居場所には悪くないかも」

 私は肩をすくめた。

 「でも今は、もっと騒がしい場所の方が似合いそうよ」


 私たちは集落を背にして歩き出した。

 雑草に埋もれた小道を進む。

 行きとは違い、足取りは確かだった。

 霧が晴れたおかげで、帰るべき方向がはっきりと見えている。


 森に入る手前で、私は一度だけ振り返った。

 静かな廃村。

 誰にも知られず、地図にも載らず、ただ家族の記憶だけを留めて佇む場所。

 

 「……じゃあね」

 声に出さずに呟く。

 風が吹き抜け、木々がザワザワと葉を鳴らして答えた気がした。


 *


 山道を下る頃には、日は西に傾きかけていた。

 泥だらけのブーツが、乾いた土を踏みしめる。

 疲労はあるが、足は止まらない。


 「さて、これからどうする」

 レオニスが前を歩きながら聞いた。

 「種とレシピは手に入れた。だが、これだけではただの園芸用品と紙屑だ」

 「加工が必要ね」

 私はノートが入った胸元を押さえた。

 「この種を育てて、成分を抽出して、薬剤に精製する。それには設備と技術、それから金が要るわ」


 「リサの診療所では無理か」

 「規模が足りない。ビーカーとフラスコじゃ、街一つ分の解毒剤は作れないもの。工場レベルのプラントが必要よ」


 「工場か」

 レオニスが顎を摩った。

 「北の工場は破壊した。王都の地下施設も水没した。まともな生産ラインを持っている場所となると……」


 「南よ」

 私は即答した。

 「南の貿易都市。あそこなら、材料も機材も、金で買えないものはない」


 「ミレイの商会があるな」

 「ええ。でも、あそこはミレイの独壇場じゃないわ」

 私は以前、王都の舞踏会で聞いた噂話を思い出した。

 扇子で口元を隠した貴婦人たちの会話。


 『南の港には、新しい商会が台頭しているらしいわ』

 『ミレイ商会を脅かすほどの勢いだとか』

 『裏で汚い金が動いているという噂も……』


 「ライバルがいるのよ」

 私はニヤリとした。

 「ミレイが目の敵にしている商売敵。そいつらが、もしかしたら『蛇』と繋がっているかもしれない」

 「敵の工場を乗っ取る気か」

 「使えるものは何でも使う。それが私たちの流儀でしょ?」


 山を抜けると、眼下に広大な平原が見えてきた。

 その向こうには、長く伸びる線路が夕日を反射して光っている。

 貨物列車の汽笛が、遠くから聞こえた。


 「行こう、レオ」

 私は歩調を早めた。

 「次の仕事場が決まったわ。南の海風に当たりに行きましょう」


 「……やれやれ」

 レオニスは肩を回した。

 「また列車か。今度は座席のある車両がいいんだが」

 「贅沢言わないの。リンゴの木箱よりはマシな寝床を探してあげるから」


 私たちは夕焼けの中を歩いた。

 ポケットの中には、白い種子。

 それは、とても小さくて軽い。

 だが、これから世界をひっくり返すための、十分な重さを持っていた。

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