第111話 砕けたレンズ
地下の空気は動かなかった。
管理室のデスクの陰で、私は呼吸を極限まで浅くした。
自分の肺が膨らむ音さえ、この静寂の中では爆音に聞こえる気がしたからだ。
隣で、レオニスが靴紐を締め直している。
彼の指は震えていない。これから飛び込もうとしている弾雨を前にして、ただ日常の作業のように準備を整えていた。
「……位置は」
レオニスが唇を動かさずに聞いた。
「変わらないわ」
私は目を閉じ、空間の音響図を脳内で再構築した。
「頭上、キャットウォークに三人。入り口付近の死角に一人。そして、奥のタンクの陰にもう一人」
包囲網は完璧だ。
このガラス張りの小部屋は、水槽の中の金魚鉢と同じ。
一歩でも外に出れば、四方八方から鉛の餌が飛んでくる。
「ガラスを割る」
レオニスが足元に落ちていた金属製のペーパーウェイトを拾い上げた。
「同時に俺が出る。奴らが反応した瞬間に、マズルフラッシュ(発砲炎)の位置を確認しろ」
「囮になる気?」
「動く標的の方が、止まっている標的よりは生存率が高い」
彼は私を見なかった。
「合図はしない。俺が動いたら、耳を塞げ」
レオニスが腕を振りかぶった。
金属の塊が投げられる。
管理室の側面、通路に面したガラス壁に向かって。
ガシャァァン!
盛大な破砕音が響いた。
その音が消えるより早く、レオニスが反対側のドアから飛び出した。
彼は床を滑るように転がり、近くの鉄柱の陰へと移動する。
直後、乾いた破裂音が連続して空間を切り裂いた。
パン、パン、パパン!
銃声。
硝子がさらに砕け、デスクの上に破片が降り注ぐ。
私は耳を塞ぐどころか、逆に研ぎ澄ませた。
銃声の反響音。着弾の角度。
そして、引き金を引いた瞬間の、射手たちの呼吸の乱れ。
「……上!」
私は叫んだ。
「右のキャットウォーク! 二番目の柱!」
レオニスが鉄柱の陰から身を乗り出し、上に向けて発砲した。
一発。
頭上で短い悲鳴が上がり、ライフルが落下してくる音がした。
ガシャンと床に叩きつけられる。
「一人!」
レオニスが走る。
止まれば撃たれる。彼はジグザグに動きながら、プランターの列を縫って進んだ。
敵の照準が追いつかない。
弾丸が彼の足元のコンクリートを削り、火花を散らす。
「入り口! 左側!」
私が指示を飛ばす。
レオニスが振り返りざまに撃つ。
暗闇の中で誰かが呻き、倒れる気配がした。
だが、多勢に無勢だ。
残りの射手たちが、レオニスの動きを予測し始めていた。
彼らは一斉射撃ではなく、連携して逃げ道を塞ぐように撃ってきた。
カンッ!
レオニスの隠れていたプランターの縁が弾け飛ぶ。
彼は体勢を崩し、床に手をついた。
そこへ、奥のタンクの陰から狙っていたスナイパーが照準を合わせる気配がした。
――捕らえた。
――頭だ。
――終わりだ。
射手の思考が、冷徹な殺意となって伝わってくる。
レオニスは体勢を立て直そうとしているが、間に合わない。
「レオ! 伏せて!」
私は叫び、管理室から飛び出そうとした。
何もできない。間に合わない。
私の声よりも、弾丸の方が速い。
その時。
頭上の天井が、轟音と共に崩落した。
ズドォォォォン!!
瓦礫と鉄骨が降り注ぐ。
そして、その白煙の中から、巨大な質量が落下してきた。
鉄の塊。
錆びついた緑色の装甲。
ドスン!
地響きを立てて着地したのは、あの巨人だった。
鉄屑くん。
彼は一階の床を重量で踏み抜き、あるいは自ら床を突き破って、レオニスの目の前に降り立ったのだ。
「……鉄屑?」
レオニスが目を見開く。
巨人はレオニスを背に庇い、仁王立ちになった。
その瞬間、敵のスナイパーが放った弾丸が、巨人の胸部装甲に直撃した。
ガギン!
火花が散る。
だが、分厚い鉄板は貫通を許さない。
巨人はよろめきもしなかった。
彼の単眼が赤く明滅し、戦闘モードへの移行を告げる。
――対象Aの同伴者を保護。
――脅威を排除する。
――最大出力。
巨人の背中から、猛烈な勢いで蒸気が噴き出した。
プシューッ!
白い煙幕が辺りを包み込む。
「なんだ!?」
「ロボットだ! どこから湧いてきた!」
キャットウォークの敵兵たちが狼狽える。
巨人はその隙を見逃さなかった。
彼は足元の瓦礫――崩落したコンクリートの塊――を拾い上げ、野球ボールのように振りかぶった。
そして、上の通路へ向かって全力で投擲する。
ブォン!
風を切る音。
ドゴォォン!
キャットウォークの一部が粉砕され、敵兵ごと崩れ落ちた。
悲鳴と共に、男たちが床へ落下してくる。
「……やりすぎだ」
レオニスが呆れたように呟き、すぐに立ち上がった。
「だが、助かった」
レオニスは巨人の影から飛び出し、残った敵――奥のタンクに隠れていた最後のスナイパー――へと肉薄した。
敵は巨人に気を取られ、レオニスの接近に気づくのが遅れた。
パン。
至近距離からの一撃。
敵の銃が床に落ちる。
静寂が戻った。
地下の温室には、蒸気の音と、破壊された機材の火花が散る音だけが残された。
私は管理室から出て、巨人の元へ駆け寄った。
彼は膝をつき、動かなくなっていた。
胸の装甲には、弾痕が深く刻まれている。
それだけではない。落下の衝撃で脚部の関節が歪み、背中のボイラーからは黒いオイルが漏れ出していた。
「……鉄屑くん」
私は彼の腕に触れた。
熱い。
オーバーヒートしている。
頭部のレンズが、弱々しく点滅していた。
赤から黄色へ。そして、消え入るような緑色へ。
――脅威排除。完了。
――対象A、無事を確認。
――動力低下。再起動不能。
機械的な思考音。
だが、そこには確かに「安堵」の周波数が混じっていた。
彼は守りきったのだ。
数十年前の命令を、最後まで遂行して。
「……ありがとう」
私は彼の冷たい指先を握った。
「最高のボディガードだったわ」
プシュ……。
最後のため息のような蒸気が漏れ、単眼の光が完全に消えた。
駆動音が止まる。
彼はただの、物言わぬ鉄の塊に戻った。
レオニスが戻ってきた。
彼は動かなくなった巨人を見上げ、帽子を取った。
「……いい仕事だった」
短く、敬意を込めて言った。
「行くぞ、レティ。長居は無用だ」
彼は私の肩に手を置いた。
「奴は役目を終えて眠っただけだ。俺たちには、まだ運ばなきゃならん荷物がある」
私は頷いた。
ポケットの中の種子の瓶を確かめる。
白い種。
この錆びた守り人が、長い時間をかけて守り抜いてきた希望の欠片。
「ええ。行きましょう」
私は巨人の装甲を一度だけ叩いた。
コツン、と硬い音が響く。
「おやすみ。いい夢を見てね」
私たちは崩れた天井の隙間から差し込む光を目指して、階段を登り始めた。
背後には、役目を終えた鉄の庭師が、静かに鎮座していた。




