第110話 地下の温室
コンクリートの階段は、地下の暗闇に向かって螺旋を描いて続いていた。
私の長靴が段差を踏むたびに、乾いた砂が擦れる音が反響する。
地上よりも空気は冷たいはずなのに、肌にまとわりつく湿度のせいで、不快な生温さを感じた。
「……土の匂いね」
私は手すりの錆を手袋で拭いながら言った。
「それも、森の腐葉土じゃない。肥料と、人工的な栄養剤の臭い」
「換気システムが止まって久しい。ガスが溜まっているかもしれん」
レオニスが懐中電灯で足元を照らす。
「気分が悪くなったら言え。引き返す」
「ここまで来て戻る馬鹿はいないわよ」
階段が尽きた。
目の前に、ガラス張りの隔壁が現れる。
扉はスライド式だったが、電力がないため動かない。
レオニスが扉の隙間にバールを差し込み、強引にこじ開けた。
ガラスが軋む音と共に、人が一人通れるほどの隙間ができる。
中に入ると、光の束が広大な空間を切り取った。
そこは、地下農場だった。
天井には無数の照明器具――植物育成用のライト――が吊り下げられている。今は黒い硝子の塊に過ぎない。
床には金属製のプランターが整然と並び、その間を灌漑用のパイプが血管のように走っていた。
「……全滅だな」
レオニスがプランターの一つに近づき、ライトを当てた。
そこに植わっていた植物は、炭のように黒く変色し、干からびていた。
葉は落ち、茎だけが枯れ木のように残っている。
私はその残骸に触れた。
パラリ、と崩れる。
指先に残った黒い粉から、死に絶えた植物たちの断末魔が聞こえてくる。
――水。
――光。
――赤い実を。
「……赤い実?」
私は粉を払い落とした。
「この植物、ただの野菜じゃないわ。あの『赤い石』の原料よ」
「鉱石じゃなかったのか」
「成分は結晶化してるけど、元は生物由来みたい。ここで栽培して、実を収穫して、それを加工してたんだわ」
私は奥へと進んだ。
プランターの列はどこまでも続いている。
最盛期には、ここは赤い実をつけた不気味な森だったに違いない。
だが今は、死の静寂が支配する墓場だ。
部屋の中央付近に、ガラスで仕切られた一角があった。
管理室兼、実験スペースのようだ。
机と椅子、そして顕微鏡などの機材がそのまま残されている。
「あそこよ」
私は指差した。
「親父さんたちの匂いがする。紙と、コーヒーの染み付いた匂い」
私たちはガラスの仕切りを回り込み、管理室に入った。
机の上には、書類の山が積まれていた。
埃を被っているが、紙質はしっかりしている。
レオニスが一番上のノートを手に取り、埃を払った。
『栽培記録 第十二巻』
表紙には、几帳面な筆跡でそう書かれている。
「……読んでみるか」
レオニスが私にノートを渡す。
私は受け取った。
ページをめくる。
鉛筆で書かれた文字。グラフ。手描きのスケッチ。
そこには、この奇妙な植物の育成過程が詳細に記されていた。
『発芽より十日。成長速度は異常に速い。』
『土壌に含まれる微量な魔素を吸収し、果実に蓄積する性質を確認。』
『果実の搾り汁を精製すると、脳神経に干渉する結晶体が生成される。』
淡々とした観察記録だ。
だが、ページが進むにつれて、筆跡が乱れていく。
書き手の焦りと、苦悩が滲み出ていた。
――こんなものを作ってはいけない。
――軍部はこれを兵器にするつもりだ。
――止めなければ。
ペンの跡から、父の声が聞こえる。
そして、別の筆跡――少し丸みを帯びた文字――が、余白に書き込みをしていた。
母の字だ。
『毒には毒を。この植物には、もう一つの側面があるはず』
『果実ではなく、根。あるいは種子そのものに、干渉波を中和する成分が含まれている』
私は顔を上げた。
「……抗体」
「なんだ?」
「パパとママは、兵器を作っていたんじゃないわ。その兵器を無力化するための『解毒剤』を作ろうとしてたの」
私はノートの最後のページを開いた。
そこには、日付と共に、短い文章が走り書きされていた。
あの日。
彼らが連行される直前の日付。
『成功した。白い種子が完成した』
『これを植えれば、赤い実の毒性は中和される。あの石の力も、無効化できるはずだ』
『だが、時間がない。奴らが来る』
「種よ」
私は机の引き出しを片っ端から開けた。
「白い種を作ったって書いてある。どこかに隠したはず」
空っぽの引き出し。
散乱した文房具。
見当たらない。軍が持ち去った後なのかもしれない。
「……ここにはない」
レオニスが部屋の隅にあるキャビネットを調べながら言った。
「重要なサンプルなら、もっと厳重に隠すはずだ。例えば、誰も気づかないような場所に」
私は目を閉じた。
両親の思考をトレースする。
焦り。恐怖。
でも、希望を捨てていない意志。
――隠せ。
――見つからないように。
――でも、いつかあの子が見つけられるように。
「……あの子」
私は目を開け、部屋の外――枯れたプランターの列を見渡した。
一箇所だけ、違和感のある場所がある。
入り口のすぐそば。
一番日当たりが良く、そして一番目立つ場所にあるプランター。
そこには、枯れた植物の残骸がない。
ただの土だけが入っているように見える。
だが、その土の中から、微かな、しかし確かな「寝息」が聞こえていた。
私は走った。
そのプランターの前に膝をつく。
土に指を差し込む。
乾いているが、深部はまだ湿り気を帯びていた。
指先に、硬い粒が触れた。
つまみ出す。
懐中電灯の光の下で、それは白く輝いた。
米粒ほどの大きさの、白い種子。
一つではない。土を掘り返すと、小さなガラス瓶に入った種がいくつも出てきた。
「あった……」
私は瓶を握りしめた。
「これが、抗体。パパたちが命がけで残した、最後の希望」
レオニスが背後に立った。
「それが『蛇』の毒を消す薬か」
「ええ。これを育てて、成分を抽出すれば、あの洗脳装置を止められるかもしれない」
私は瓶をポケットにしまい、立ち上がった。
その時。
天井の方から、硬質な音が響いてきた。
カキン。
石が金属に当たる音。
自然崩落の音ではない。
誰かが、意図的に何かを投げ込んだ音だ。
あるいは、足音を消そうとして、装備の一部を壁にぶつけた音。
「……レオ」
私は声を潜めた。
「お客さんよ。上から来る」
レオニスが即座に懐中電灯を消した。
闇が戻る。
彼は私を机の陰に押し込み、銃を抜いた。
「数は」
「わからない。でも、足音がしない。プロよ」
「『蛇』の追跡部隊か。霧が晴れたのを待って降りてきたな」
頭上のキャットウォーク――点検用の通路――から、微かな気配が降ってくる。
殺気だ。
冷たく、鋭い、針のような殺意。
彼らは私たちを探しているのではない。
既に位置を特定し、引き金を引くタイミングを計っている。
「……囲まれたな」
レオニスの声は落ち着いていた。
「出口は一つだが、そこは射線が通っている。動けば撃たれる」
私はポケットの種子の瓶を押さえた。
これを持ち帰らなければならない。
ここで死ねば、両親の死も、私の過去も、すべてが無駄になる。
「どうするの、ボス」
「単純だ」
レオニスは暗闇の中で、弾倉を交換する音をさせた。
「奴らが撃つ前に、撃つ。場所を教えろ、レティ」
私は耳を澄ませた。
広い地下空間。
反響する音の中で、敵の心臓の鼓動だけを拾い上げる。
一つ。二つ。三つ……。
五人。
それぞれが、別々の角度からこの管理室を狙っている。
「……配置についたわ」
私は囁いた。
「いつでも始められる」
地下の温室は、静寂の戦場へと変わった。
枯れた植物たちの見守る中、最後の授業が始まろうとしていた。




