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無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


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第11話 オートミール

 リサの診察室を出ると、廊下の窓から差し込む光が橙色に変わっていた。

 レオニスは私の首根っこから手を離した。

 ようやく足が地につく。私はコートの襟を直し、乱れた髪を手櫛で撫でつけた。


 「扱いは荷物並みね」

 「荷物より手がかかる。荷物は低血糖で倒れたりしない」

 レオニスは歩調を緩めた。私の歩幅に合わせているわけではなく、単に廊下が混雑してきたからだ。

 夕方の退勤時間らしい。書類鞄を持った職員たちが、出口に向かって列をなしている。


 私たちは人の流れに逆らわず、正面玄関を出て中庭へ向かった。

 外の空気は冷えているが、地下室の防腐剤の臭いに比べれば花畑のようだ。

 中庭の向こうに、赤レンガの四角い建物が三棟並んでいる。


 「あれが職員寮だ」

 レオニスが一番右の建物を指差した。

 「お前の部屋はB棟の三階、三〇五号室だ。二人部屋だが、今は一人しか使っていない」

 「相部屋? 独房のほうが静かでよかったのに」

 「贅沢を言うな。王都の住宅事情は最悪だ。屋根があるだけマシだと思え」


 彼はポケットから真鍮しんちゅうの鍵を取り出し、私の掌に落とした。

 冷たくて重い、物理的な鍵だ。


 「俺は執務室に戻る。明日の朝、六時に迎えに行く」

 「六時? 鶏だってまだ寝てる時間よ」

 「軍隊の朝は早い。遅刻したら朝食抜きだ」


 彼はそれだけ言い残し、きびすを返した。

 その背中は、周囲の疲れた職員たちとは違い、まだ糸が張り詰めたように真っ直ぐだった。

 私は手の中の鍵を握りしめ、レンガ造りの建物を見上げた。

 窓のいくつかに明かりが灯っている。

 生活の匂いがした。


 *


 B棟の入り口には、恰幅の良い中年の管理人が座っていた。

 彼女は私の薄汚れた軍用コートと、首から下げた金属プレートを交互に見て、怪訝そうに眉を寄せた。

 「三〇五号室? 聞いてないよ、こんな子供が入るなんて」

 「レオニス将軍の紹介です」

 私がプレートを見せると、彼女の態度は一変した。

 「ああ、あの特務隊の……。はいはい、通りな。男子禁制、火気厳禁、門限は二十二時だよ」


 私は木製の階段を登った。

 古い建物だ。階段が踏まれるたびにギシギシと悲鳴を上げる。

 廊下には夕食の支度の匂いが漂っていた。煮込んだキャベツと、安いソーセージの匂い。


 三〇五号室の前に立つ。

 私は鍵穴に真鍮の鍵を差し込み、回した。

 カチャリ、と重い音がしてドアが開く。


 部屋は狭かった。

 左右の壁に沿って鉄パイプのベッドが二つ。中央に小さな机が一つ。

 右側のベッドには、毛布がきっちりと畳まれ、枕元に本が数冊積まれている。

 左側のベッドは空で、マットレスが剥き出しだった。


 「……ふぅ」

 私はドアを閉め、空いている左側のベッドに腰を下ろした。

 マットレスから埃が舞う。

 静かだ。

 地下室のような死者の合唱はない。

 ただ、壁の向こうから微かな生活音が聞こえるだけだ。隣の部屋の話し声、上の階の足音。


 私はブーツを脱ぎ、足を伸ばした。

 ふくらはぎが熱を持っている。今日は歩きすぎた。


 その時、ドアノブが回った。

 「ただいまー……って、え?」


 入ってきたのは、私と同じくらいの背丈の少女だった。

 栗色の髪を二つに結び、地味な事務服を着ている。手には水の入ったポットを持っていた。

 彼女は私を見て、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。


 「誰?」

 「新しい同居人。レティよ」

 私はベッドに座ったまま手を挙げた。

 「今日からここを使えって言われたの」


 少女は瞬きを数回繰り返し、それから慎重に部屋に入ってきた。

 「……そう。私はミレイナ。総務課でタイピストをやってる」

 彼女は自分のベッドの側にポットを置き、私をじろじろと観察した。

 「そのコート、軍物よね? どこの所属?」

 「特務隊」

 「特務隊って、あの怖いレオニス将軍の?」

 ミレイナは顔をしかめた。

 「うわぁ……ご愁傷様。あそこ、激務で有名よ。先月も事務官が二人逃げ出したって噂」


 「みたいね。お菓子が出なきゃやってられないわ」

 私はポケットから、レオニスに貰ったチョコレートの包み紙を取り出し、ゴミ箱に捨てた。


 ミレイナは自分の机に向かい、引き出しから裁縫道具を取り出した。

 事務服の袖のボタンが取れかかっているらしい。

 

 「ねえ、聞いた?」

 彼女は針に糸を通しながら言った。

 「今日の夕食、またオートミールだって」

 「へえ、健康的でいいじゃない」

 「三日連続よ? 小麦粉の配給が止まってるんだって。なんでも、北の倉庫で火事があったとか、毒が見つかったとか」


 私は眉一つ動かさずに答えた。

 「怖い話ね。でも、毒入りのパンを食べるよりはマシでしょ」

 「そうだけどさぁ。パンケーキが食べたいのよ、私は」


 ミレイナはブツブツと文句を言いながら、針を動かし始めた。

 

 その時、私の耳が小さな異音を拾った。

 ミレイナの声ではない。

 部屋の隅、洋服箪笥タンスの裏側あたりから聞こえる、乾いた音。


 ――狭い。暗い。

 ――ここじゃない。もっと右だ。


 私はベッドから立ち上がった。

 「どうしたの?」

 ミレイナが顔を上げる。


 「箪笥の裏。何があるの?」

 「え? 何もないと思うけど……掃除用具入れじゃない?」


 私は箪笥に近づいた。

 声は、床と壁の隙間から響いている。

 死者の残留思念だ。だが、強い未練ではない。日常的な、忘れ物の記憶。


 ――転がった。赤い石。

 ――見つからないと叱られる。


 私は床に這いつくばり、箪笥の下に手を突っ込んだ。

 埃の塊に指が触れる。その奥に、硬くて冷たい粒があった。

 指先で挟んで引っ張り出す。


 「……これ」

 掌に乗っていたのは、赤いガラス玉だった。安物の指輪から外れた模造宝石だ。


 「あ!」

 ミレイナが声を上げた。

 「それ、私の! 先週落としちゃって、ずっと探してたのよ!」

 彼女は駆け寄り、ガラス玉をひったくるように受け取った。

 「すごい、よくわかったわね。掃除もしてないのに」


 「転がる音が聞こえた気がしたの」

 私は適当に誤魔化した。

 箪笥の裏の声は、満足したのか消えていた。

 『見つからないと叱られる』と言っていた主は、ミレイナではなく、もっと昔にこの部屋に住んでいた誰かだろう。

 おそらく、同じようにガラス玉を無くして困っていたメイドか何かだ。


 「ありがとう! これでお母さんに怒られなくて済むわ」

 ミレイナは嬉しそうにガラス玉をポケットにしまった。

 「お礼に、食堂の席取りしてあげる。急がないと、オートミールの上のほうのドロドロしか残らないから」


 「それは困るわね」

 私は笑った。


 「早く着替えてきなよ。六時に食堂集合ね」

 ミレイナはポットを持って、元気よく部屋を出て行った。


 部屋に一人残される。

 静かになった空間で、私はもう一度耳を澄ませた。

 箪笥の裏の「声」はもうしない。

 ここには、今のところ厄介な死者はいないようだ。

 

 私は支給されたばかりの新しいコートを脱ぎ、ハンガーに掛けた。

 明日の朝六時には、またあの冷徹な将軍が迎えに来る。

 それまでは、私の時間だ。

 私は硬いマットレスに身を投げ出し、天井のシミを数え始めた。

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