第109話 枯れた鉢植え
苔むした鉄の巨人が、油圧シリンダーの鳴き声を上げながら立ち上がった。
その動作は、先ほどまでの戦闘モードとは明らかに異なっていた。
敏捷性が消え、どこか緩慢で、古びた大木が揺れるような重々しさがある。
頭部の単眼レンズが緑色に点滅し、モーターの回転音が低く安定したアイドリング音へと変わる。
「……おい、レティ」
レオニスが銃を下ろさずに、私の肩を引き寄せた。
「本当に正気か? 再起動して襲ってくるかもしれんぞ」
「大丈夫よ。殺気は消えたわ」
私は巨人の足元を見上げた。
さっきまで私たちを挽肉にしようとしていたハンマーは、今は背中のフックに固定され、ただの重りになっている。
巨人は私たちを攻撃する代わりに、巨大な掌を差し出した。
掴みかかる動きではない。
手のひらを上に向け、何かを乗せるような仕草だ。
「乗れって言ってるの?」
私が聞くと、巨人は首を――頭部のパーツを――カクリと横に振った。
そして、太い指先で、私のコートについた泥を不器用に払おうとした。
ジャリ。
金属の指が生地を擦る。力加減が難しそうだ。
下手をすれば私の肋骨ごと粉砕しかねない質量だが、その動きは震えるほど慎重だった。
「……世話焼きね」
私は苦笑して、一歩下がった。
「自分でやるわ。ありがとう」
巨人は残念そうに手を引っ込めた。
プシュー、と蒸気が漏れる。
その音の中に、新たな思考パターンが混じっていた。
――汚れ除去。完了せず。
――対象A、成長を確認。
――次のタスクへ移行。
「次のタスク?」
私が呟くと、巨人はくるりと背を向けた。
重い足音を響かせながら、レンガ造りの研究棟の方へと歩き出す。
途中、地面に落ちていた瓦礫を蹴散らすのではなく、丁寧に拾い上げて道の脇へ退かしていた。
「……ついてこいということらしいな」
レオニスが安全装置をかけ、銃をホルスターに戻した。
「案内役としてはデカすぎるが、壁よりはマシだ」
私たちは巨人の後を追った。
霧はまだ晴れきっていない。
白い視界の中を、錆びた背中が揺れながら進んでいく。
*
研究棟の入り口は、やはり閉ざされていた。
鉄の扉は錆びつき、蔦が幾重にも絡まって封印のように扉を覆い隠している。
巨人は扉の前に立つと、躊躇いなく手を伸ばした。
バリバリバリッ。
太い蔦が、枯れ枝のように引きちぎられる。
巨人は扉の取っ手ではなく、枠そのものを掴み、蝶番ごと引き剥がす勢いで引いた。
ギィィィィン!
金属の悲鳴が上がり、扉がひしゃげて開いた。
暗い屋内から、埃っぽい風が吹き出してくる。
巨人は中へ入らず、入り口の脇に立って私たちを待った。
まるでドアボーイのように。
「……どうも」
私は巨人の足元を通り過ぎ、建物の中へ入った。
レオニスが懐中電灯を点ける。
光の束が、埃の舞う空間を照らし出した。
そこは、エントランスホール兼、温室のようだった。
天井は高く、ガラス張りになっていたようだが、今は汚れと落ち葉で光を通さない。
床には幾何学模様のタイルが敷かれているが、至る所がひび割れ、そこから雑草が生えていた。
そして、壁際に並ぶ無数の植木鉢。
植えられていた植物はとっくに枯れ果て、黒い炭のような残骸になっている。
巨人が私たちの後から入ってきた。
重量で床がきしむ。
彼は部屋の隅にある水道の蛇口――今はもう水が出ないであろう錆びた鉄管――に近づき、そこに置いてあったジョウロを手に取った。
ブリキのジョウロだ。巨人の手には小さすぎて、おもちゃに見える。
彼は蛇口をひねる動作をした。
水は出ない。
空気が抜けるスースーという音だけがする。
だが、巨人は気にした様子もなく、空のジョウロを持って枯れた鉢植えに近づいた。
そして、傾ける。
――水やり。
――湿度調整。
――早く大きくなれ。
「……健気ね」
私はその光景を見つめた。
「何十年も、こうやって世話をしてたんだわ。水も出ないのに」
「プログラムのループだ」
レオニスが冷淡に言った。
「主人がいなくなっても、命令が解除されない限り動き続ける。機械の悲劇だな」
「悲劇じゃないわ。忠誠よ」
私は枯れた植物の鉢に近づいた。
黒く干からびた茎。
触れると、パラパラと崩れ落ちた。
だが、その土の中には、まだ微かな「記憶」が眠っている。
――赤い実。
――苦い汁。
――薬にも、毒にもなる。
「……この植物」
私は土を指で擦った。
「ただの花じゃないわ。研究材料よ。あの『赤い石』と関係がある」
巨人が水やり(の真似事)を終え、ジョウロを置いた。
カラン、と乾いた音がホールに響く。
彼はくるりと向きを変え、ホールの奥にある受付カウンターのような場所へ向かった。
そして、壁に掛かっていたボードを指差した。
そこには、古びたフロアマップが貼られていた。
文字は薄れているが、建物の構造は読み取れる。
一階はロビーと事務室。
二階は研究室。
そして、地下。
「地下があるな」
レオニスがマップを照らす。
「『栽培室』と書いてある。この温室はただの飾りで、本命の畑は下か」
巨人がカウンターの横にあるエレベーターの扉に手をかけた。
ここも動かない。
彼は無理やりこじ開けようとしたが、安全装置が働いているのか、ビクともしなかった。
――エラー。
――電力不足。
――階段を使用せよ。
巨人の思考が、困惑の色を帯びる。
彼はエレベーターを諦め、近くの「関係者以外立入禁止」と書かれたドアを指差した。
そのドアもまた、電子ロックがかかっていた形跡があるが、今は電源が落ちているため、ただの重い鉄の板だ。
「開かないのね」
私が言うと、巨人は一度頷き、そして一歩下がった。
彼は右腕のハンマーを持ち上げる……ことはしなかった。
代わりに、自分の身体をドアに押し当てた。
グググ……。
モーターが最大出力で唸る。
足元のタイルが割れ、巨人の足がめり込む。
彼は自らをジャッキ代わりにして、鉄の扉を強引に押し込み始めた。
バギン!
ロック機構が破壊される音が響く。
扉が歪み、隙間ができた。
巨人はさらに体重をかけ、人間が通れる幅まで押し広げる。
「……どうぞ」
声は聞こえないが、その仕草はそう言っていた。
単眼の光が、奥の闇を照らすように点滅する。
「役に立つな」
レオニスが感心したように言った。
「便利屋にスカウトしたいところだ。解体現場なら即戦力になる」
「給料はオイルと電気代だけで済みそうだしね」
私たちは巨人の脇をすり抜け、こじ開けられた扉の向こうへ進んだ。
そこには、下へと続くコンクリートの階段があった。
冷たい空気が吹き上げてくる。
土と、そしてあの独特な甘い薬品の臭いが、微かに漂っていた。
「待ってろ、鉄屑」
レオニスが巨人の肩(装甲板)を軽く叩いた。
「ここからは人間サイズだ。お前はここで番をしていろ」
巨人は理解したのか、扉の横で停止した。
単眼の光が消え、待機モードへと移行する。
プシュー。
長い排気音。
――行ってらっしゃい。
――気をつけて、アナ。
その思考音は、父の声ではなく、少し高い母の声に似ていた。
私は階段の踊り場で一度だけ振り返り、闇の中に佇む巨人のシルエットに手を振った。
錆びついた守り神は、私たちが戻ってくるのを、また何十年でも待ち続けるつもりなのだろう。




