第108話 苔むした鉄塊
家のドアを閉めると、背後でカチャリとラッチが噛み合う音がした。
私はコートのポケットの上から、さっき入れた絵本の硬い表紙を一度だけ叩いた。
感傷はここまでだ。
ここから先は、思い出話ではなく、現実の脅威と向き合う時間になる。
「……霧が濃くなってきたな」
レオニスが空を見上げた。
白い幕が降りてきている。数メートル先の景色さえ、乳白色の霞に溶けかけていた。
風はない。
ただ、湿気を含んだ冷気が、地面から這い上がってくるだけだ。
「研究棟はあっちよ」
私は記憶の中の地図ではなく、鼻を頼りに方向を示した。
「オイルと、薬品の臭いがする。風向きが変わらなければ迷わないはず」
私たちは雑草に埋もれた小道を歩き出した。
足元の草は膝丈まで伸び、歩くたびに朝露がズボンの裾を濡らす。
誰の足跡もない。
獣の糞さえ落ちていない。
この集落は、森の動物たちからも敬遠されている聖域――あるいは禁域――のようだ。
やがて、霧の向こうに巨大な影が浮かび上がった。
レンガ造りの研究棟だ。
蔦が壁一面を覆い、窓ガラスは汚れで黒く沈黙している。
入り口の扉は鉄製で、赤錆が浮いてボロボロになっていた。
「……入れそうか?」
レオニスが扉の蝶番を確認する。
「錆びついて固着している。爆破するか、壁を壊すかだ」
「静かにして。大家さんが起きてくるわよ」
私は建物の前の広場――かつては荷降ろし場だったであろう場所――を指差した。
そこには、小山のような何かが鎮座していた。
苔と蔦に覆われ、地面と同化しているが、それは岩ではない。
不自然なほど丸みを帯びた形状。
そして、そこから漏れ出る、断続的な排気音。
プシュー……。
プシュー……。
寝息のようだ。
だが、生き物の呼吸ではない。
圧力が逃げるバルブの音だ。
「……あれは」
レオニスが銃を構え、歩みを止めた。
「森で俺たちを追ってきた奴か」
「違うわ。別個体」
私は耳を澄ませた。
苔の下にある鉄板の厚み。
内部で循環している液体の粘度。
そして、中心部にある動力炉の鼓動。
――待機モード。
――異常なし。
――接近者あり。
「……起きてる」
私が警告するのと、その「山」が動くのは同時だった。
バリバリバリッ!
絡みついていた蔦が引きちぎられる音が響く。
苔の塊が崩れ落ち、その下から鈍色の装甲が露わになった。
巨大な腕が地面を押し、その巨体を持ち上げる。
錆びた関節が、耳障りな金属音を立てて軋んだ。
立ち上がったその姿は、三メートルを超える鉄の巨人だった。
旧王国の自律兵器。
頭部にある単眼レンズが回転し、絞りを調節する音が聞こえる。
赤い光が灯った。
「下がれ!」
レオニスが私を突き飛ばした。
私は草むらに転がり込む。
巨人が腕を振り上げた。
その手には、建設機械のような巨大なハンマーが固定されている。
ゴォン!
ハンマーが地面を叩いた。
私がさっきまで立っていた場所が陥没し、土砂が噴水のように舞い上がる。
衝撃波が地面を伝わり、内臓を揺さぶった。
「……話が通じる相手じゃなさそうね」
私は泥を吐き出しながら起き上がった。
レオニスが走る。
彼は正面から撃ち合う愚を犯さず、巨人の側面へと回り込んだ。
銃口を関節の隙間――装甲の継ぎ目――に向ける。
パン、パン、パン!
三連射。
乾いた音が霧に吸われる。
火花が散った。
だが、巨人はよろめきもしない。
弾丸は厚い鉄板に弾かれ、ひしゃげて地面に落ちただけだ。
「硬いな」
レオニスが舌打ちをする。
「小銃弾では豆鉄砲だ」
巨人がレオニスに向き直った。
胴体が回転する。
モーターが唸りを上げ、ハンマーが横薙ぎに振るわれる。
ブォン!
風圧がレオニスのコートを煽る。
彼はバックステップでかわしたが、鼻先数センチを鉄塊が通過していった。
バックパックの一部が掠れ、布が裂ける音がする。
「レオ!」
「近寄るな!」
レオニスが叫ぶ。
「こいつの標的は、動くもの全てだ。お前が動けばターゲットが分散する」
彼は囮になって、巨人を広場の中央へと誘導していた。
私は草むらの陰から、その攻防を見守るしかなかった。
何か弱点はないのか。
どんな機械にも、構造上の欠陥や、経年劣化による綻びがあるはずだ。
耳を澄ます。
巨人の音を聞く。
ボイラーの燃焼音。
歯車の噛み合わせ。
油圧シリンダーの伸縮音。
――排除。
――排除。
――侵入者を排除せよ。
思考回路は単純だ。
壊れたレコードのように、同じ命令を繰り返している。
だが、その命令信号の中に、奇妙なノイズが混じっていた。
ジジッ……ザザッ……。
「……迷ってる?」
私は目を細めた。
巨人の動きが、攻撃の瞬間にわずかに遅れることがある。
ハンマーを振り下ろそうとして、一瞬だけ躊躇うような振動。
――撃つな。
――守れ。
――あの子ではないのか?
別の命令が、深層から浮上してきている。
『排除』の命令と、『守護』の命令がぶつかり合い、回路の中でスパークしているのだ。
「……あの子?」
私は呟いた。
森の中で聞いた言葉と同じだ。
『あの子が帰るまで』。
レオニスが瓦礫を蹴り、巨人の注意を引く。
「こっちだ、鉄屑!」
巨人が唸り声を上げ、蒸気を噴射して突進する。
速い。
あの巨体で、戦車のような突進力だ。
レオニスが転がって避ける。
巨人は止まりきれず、レンガの壁に激突した。
ドガァァン!
壁の一部が崩れ、煉瓦が降り注ぐ。
だが、巨人は無傷だ。むしろ、怒ったように蒸気の圧力を上げている。
「……キリがないぞ」
レオニスが私の近くまで後退してきた。
息が上がっている。
弾薬も残り少ないはずだ。
「関節を爆破するか、燃料タンクを撃ち抜くしかない。だが、装甲が厚すぎる」
「弱点はあるわ」
私は言った。
「物理的な弱点じゃない。ソフトの問題よ」
「ソフト?」
「あいつ、迷ってるの。私たちを殺すべきか、守るべきか」
私は巨人を指差した。
赤く光る単眼が、霧の中で揺れている。
「誰かを待ってるのよ。ずっとここで。その『誰か』が帰ってくるのを」
レオニスが私を見た。
「まさか、お前のことか」
「わからない。でも、試す価値はある」
私は草むらから立ち上がった。
「おい、よせ!」
レオニスが止めようとするが、私は前に出た。
両手を広げ、武器を持っていないことを示す。
巨人が私に気づいた。
単眼が私を捉える。
赤い光が強くなる。
「……こんにちは、鉄屑くん」
私は震える足を叱咤して、一歩近づいた。
「ただいま。留守番、ご苦労様」
巨人のハンマーが持ち上がる。
排除モードだ。
私の言葉は、敵対的な音声として認識されたらしい。
――敵だ。
――排除。
――潰せ。
殺意の駆動音が唸りを上げる。
レオニスが銃を構える音が聞こえた。
「待って」
私は叫んだ。
レオニスにではない。目の前の鉄の塊にだ。
「思い出して。あんたのマスターが、最後に残した言葉を」
私は息を吸い込んだ。
王宮の地下、あの扉の前で歌った旋律。
両親が私に歌ってくれた子守唄。
それを、もう一度口ずさむ。
ンンンー、ンンー……。
震えるハミングが、霧の中に響いた。
巨人の動きが止まった。
振り上げられたハンマーが、空中で凍りつく。
――その音。
――登録データ照合。
――マスターコード。
機械の内部で、歯車が逆回転する音が聞こえた。
『排除』の命令が消え、古い記憶ファイルが展開されていく。
私は歌い続けた。
一歩、また一歩と近づく。
巨人の単眼の色が、赤からゆっくりと黄色へ、そして穏やかな緑色へと変わっていく。
プシュー……。
蒸気が抜ける音。
それは、長い緊張から解放された、ため息のように聞こえた。
ハンマーがゆっくりと下ろされる。
地面に置かれる。
巨人は膝をつき、私に視線の高さを合わせた。
「……おかえりなさい」
電子音声ではない。
スピーカーから流れたのは、ノイズ混じりの録音音声だった。
男の声。
私の父の声だ。
『アナスタシア。いい子にして待っているんだよ』
巨人は私を見ていなかった。
私の中にいる、かつての小さな女の子の幻影を見ているようだった。
私は巨人の冷たい装甲に手を触れた。
「……ただいま」
苔むした鉄の肌から、微かな温もりが伝わってくる。
それは動力炉の熱ではなく、長い間待ち続けていた忠誠心の温度だった。




