第107話 埃被った木馬
廊下の突き当たりにあるドアだけが、白いペンキで塗られていた。
他の部屋の扉が重厚なオーク材のままなのに対し、そこだけが浮いている。ドアノブの位置も、大人の腰よりもずっと低い位置に取り付けられていた。
子供部屋だ。
説明されなくてもわかる。
私はドアノブに手をかけた。
金属は冷たく、回すと錆びたバネが軋む音がした。
カチャリ。
ドアが内側へ開く。
埃っぽい空気が顔にかかったが、そこにはダイニングキッチンで感じたような生活臭はなかった。
代わりに、甘い乾燥した匂いがする。古い紙と、布の匂いだ。
「……入るぞ」
レオニスが背後で銃を構え直した。
「安全確認が先だ」
「どうぞ。怪獣がいるかもしれないしね」
私は脇に退き、彼を先に入れた。
レオニスは部屋の四隅を素早くチェックし、ベッドの下やクローゼットの中を覗き込んだ。
「クリアだ」
彼が銃を下ろす。
「いるのはぬいぐるみと、木製の馬だけだ」
私は部屋に入った。
南向きの窓から、霧で拡散された白い光が差し込んでいる。
床には毛足の長いラグが敷かれ、壁際には低い本棚が並んでいた。
絵本だ。背表紙の色が褪せている。
部屋の中央に、小さな木馬が置かれていた。
手彫りのようだ。塗装は剥げかけ、鞍の部分の革はひび割れている。
私は木馬のたてがみに触れた。
指先に埃がつく。
ゆらり。
木馬が前後に揺れた。
錆びた金具が、キィ、キィと小さな音を立てる。
「……よく遊んでたみたい」
私は揺れる木馬を見つめた。
「金具が摩耗してる。『もっと速く』ってせがむ声が聞こえるわ」
耳を澄ます。
この部屋の時間は、あの日――両親が連行された日――で止まっている。
だから、残響も鮮明だ。
――パパ、見て!
――上手だ。その調子だ、アナ。
――落ちないようにね。
笑い声。
高い、鈴を転がすような子供の笑い声と、それを見守る大人の穏やかな声。
北の工場や王宮の地下で聞いたような、実験やデータの話ではない。
ただ、子供の成長を喜ぶ声だ。
私は本棚に近づいた。
一冊、手に取る。
『迷子の仔猫と月の国』。
表紙を開くと、見返しに下手な字で名前が書いてあった。
『アナスタシア』。
「……私だ」
私はページをめくった。
内容は覚えていない。だが、読み聞かせてもらっていた時の「温度」だけが蘇る。
膝の上の温もり。ページをめくる指のリズム。
「レティ」
レオニスが窓際から声をかけた。
「ここを見ろ」
彼が指差したのは、入り口のドアの枠、柱の部分だった。
近づいてみる。
木の柱に、ナイフで刻まれた小さな傷が無数についている。
下の方から、上に向かって。
それぞれの傷の横に、日付が書き込まれていた。
「背比べの跡か」
レオニスが一番上の傷に指を当てた。
「最後の記録は……十数年前の日付だ」
私はその傷に自分の頭を近づけた。
今の私の身長よりも、ずっと低い位置にある。
当時の私は、まだこんなに小さかったのだ。
指で傷をなぞる。
木のささくれが指紋に触れる。
そこから、強烈な記憶が流れ込んでくる。
――大きくなったな。
――もうすぐ机に頭が届きそうだ。
――嬉しいけど、少し寂しいわね。
父と母の声。
彼らは、私が大きくなることを心から喜んでいた。
兵器としての成長を記録していたのではない。
娘としての成長を、柱に刻んでいたのだ。
――この子が大きくなる頃には、世界は平和になっているだろうか。
――するのよ。私たちが、そうするの。
――ああ。この子の未来のために。
「……っ」
私は柱から手を離した。
喉の奥が熱い。
何かが込み上げてきて、呼吸が浅くなる。
私は「作られた存在」だと疑っていた。
両親は私を実験材料として見ていたのではないかと、心のどこかで恐れていた。
でも、違った。
ここにあるのは、純粋な愛情の記録だけだ。
彼らは私を愛し、私の未来を守ろうとして、そして殺された。
視界が滲む。
涙だ。
まずい。レオニスに見られる。
私は背中を向け、顔を袖で拭った。
「……埃っぽいわね。目に入った」
レオニスは何も言わなかった。
足音が遠ざかる。
彼はドアの方へ歩いていった。
「外を見てくる」
彼はぶっきらぼうに言った。
「あの鉄屑の巨人が戻ってくるかもしれん。見張りが必要だ」
「……そう。頼むわ」
ドアが閉まる音がした。
カチャリ。
部屋の中は、私一人になった。
私はその場にしゃがみ込んだ。
膝を抱える。
我慢していた嗚咽が、喉の奥から漏れた。
「……う、うぅ……」
声が震える。
私は子供に戻っていた。
この部屋で、木馬に乗り、絵本を読み、背を測っていた頃の私に。
耳を澄ます。
部屋中に満ちている、優しい声の残響に浸る。
――愛しているよ、アナ。
――おやすみ、私の宝物。
私は何度も頷いた。
知ってる。わかってる。
私は愛されていた。
それだけで、これまでの逃亡生活の冷たさが、少しだけ溶けていく気がした。
数分後。
私は立ち上がり、大きく息を吸った。
涙は止まった。
目は赤いかもしれないが、もう視界はクリアだ。
私は本棚から『迷子の仔猫』の絵本を一冊抜き取り、コートのポケットに入れた。
形見だ。
そして、柱の傷にそっと手を触れ、別れを告げた。
「行ってくるね」
ドアを開ける。
廊下には、レオニスが立っていた。
彼は窓の外を監視していたが、私が開ける音を聞いて振り返った。
私の顔を見ても、彼は何も言わなかった。
ただ、短く顎をしゃくっただけだ。
「行くぞ。次は研究棟だ」
「ええ」
私はコートの襟を正した。
「親孝行の時間よ。パパとママがやり残した仕事を、片付けに行きましょう」
私たちは家を出た。
外の霧はまだ晴れていなかったが、私の足取りは来る時よりもずっと軽かった。




