表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

107/129

第107話 埃被った木馬

 廊下の突き当たりにあるドアだけが、白いペンキで塗られていた。

 他の部屋の扉が重厚なオーク材のままなのに対し、そこだけが浮いている。ドアノブの位置も、大人の腰よりもずっと低い位置に取り付けられていた。

 子供部屋だ。

 説明されなくてもわかる。


 私はドアノブに手をかけた。

 金属は冷たく、回すと錆びたバネが軋む音がした。

 カチャリ。

 ドアが内側へ開く。

 埃っぽい空気が顔にかかったが、そこにはダイニングキッチンで感じたような生活臭はなかった。

 代わりに、甘い乾燥した匂いがする。古い紙と、布の匂いだ。


 「……入るぞ」

 レオニスが背後で銃を構え直した。

 「安全確認が先だ」

 「どうぞ。怪獣がいるかもしれないしね」


 私は脇に退き、彼を先に入れた。

 レオニスは部屋の四隅を素早くチェックし、ベッドの下やクローゼットの中を覗き込んだ。

 「クリアだ」

 彼が銃を下ろす。

 「いるのはぬいぐるみと、木製の馬だけだ」


 私は部屋に入った。

 南向きの窓から、霧で拡散された白い光が差し込んでいる。

 床には毛足の長いラグが敷かれ、壁際には低い本棚が並んでいた。

 絵本だ。背表紙の色が褪せている。


 部屋の中央に、小さな木馬が置かれていた。

 手彫りのようだ。塗装は剥げかけ、くらの部分の革はひび割れている。

 私は木馬のたてがみに触れた。

 指先に埃がつく。


 ゆらり。

 木馬が前後に揺れた。

 錆びた金具が、キィ、キィと小さな音を立てる。


 「……よく遊んでたみたい」

 私は揺れる木馬を見つめた。

 「金具が摩耗してる。『もっと速く』ってせがむ声が聞こえるわ」


 耳を澄ます。

 この部屋の時間は、あの日――両親が連行された日――で止まっている。

 だから、残響も鮮明だ。


 ――パパ、見て!

 ――上手だ。その調子だ、アナ。

 ――落ちないようにね。


 笑い声。

 高い、鈴を転がすような子供の笑い声と、それを見守る大人の穏やかな声。

 北の工場や王宮の地下で聞いたような、実験やデータの話ではない。

 ただ、子供の成長を喜ぶ声だ。


 私は本棚に近づいた。

 一冊、手に取る。

 『迷子の仔猫と月の国』。

 表紙を開くと、見返しに下手な字で名前が書いてあった。

 『アナスタシア』。


 「……私だ」

 私はページをめくった。

 内容は覚えていない。だが、読み聞かせてもらっていた時の「温度」だけが蘇る。

 膝の上の温もり。ページをめくる指のリズム。


 「レティ」

 レオニスが窓際から声をかけた。

 「ここを見ろ」


 彼が指差したのは、入り口のドアの枠、柱の部分だった。

 近づいてみる。

 木の柱に、ナイフで刻まれた小さな傷が無数についている。

 下の方から、上に向かって。

 それぞれの傷の横に、日付が書き込まれていた。


 「背比べの跡か」

 レオニスが一番上の傷に指を当てた。

 「最後の記録は……十数年前の日付だ」


 私はその傷に自分の頭を近づけた。

 今の私の身長よりも、ずっと低い位置にある。

 当時の私は、まだこんなに小さかったのだ。


 指で傷をなぞる。

 木のささくれが指紋に触れる。

 そこから、強烈な記憶が流れ込んでくる。


 ――大きくなったな。

 ――もうすぐ机に頭が届きそうだ。

 ――嬉しいけど、少し寂しいわね。


 父と母の声。

 彼らは、私が大きくなることを心から喜んでいた。

 兵器としての成長を記録していたのではない。

 娘としての成長を、柱に刻んでいたのだ。


 ――この子が大きくなる頃には、世界は平和になっているだろうか。

 ――するのよ。私たちが、そうするの。

 ――ああ。この子の未来のために。


 「……っ」

 私は柱から手を離した。

 喉の奥が熱い。

 何かが込み上げてきて、呼吸が浅くなる。


 私は「作られた存在」だと疑っていた。

 両親は私を実験材料として見ていたのではないかと、心のどこかで恐れていた。

 でも、違った。

 ここにあるのは、純粋な愛情の記録だけだ。

 彼らは私を愛し、私の未来を守ろうとして、そして殺された。


 視界が滲む。

 涙だ。

 まずい。レオニスに見られる。


 私は背中を向け、顔を袖で拭った。

 「……埃っぽいわね。目に入った」


 レオニスは何も言わなかった。

 足音が遠ざかる。

 彼はドアの方へ歩いていった。


 「外を見てくる」

 彼はぶっきらぼうに言った。

 「あの鉄屑の巨人が戻ってくるかもしれん。見張りが必要だ」

 「……そう。頼むわ」


 ドアが閉まる音がした。

 カチャリ。

 部屋の中は、私一人になった。


 私はその場にしゃがみ込んだ。

 膝を抱える。

 我慢していた嗚咽おえつが、喉の奥から漏れた。


 「……う、うぅ……」


 声が震える。

 私は子供に戻っていた。

 この部屋で、木馬に乗り、絵本を読み、背を測っていた頃の私に。

 

 耳を澄ます。

 部屋中に満ちている、優しい声の残響に浸る。


 ――愛しているよ、アナ。

 ――おやすみ、私の宝物。


 私は何度も頷いた。

 知ってる。わかってる。

 私は愛されていた。

 それだけで、これまでの逃亡生活の冷たさが、少しだけ溶けていく気がした。


 数分後。

 私は立ち上がり、大きく息を吸った。

 涙は止まった。

 目は赤いかもしれないが、もう視界はクリアだ。


 私は本棚から『迷子の仔猫』の絵本を一冊抜き取り、コートのポケットに入れた。

 形見だ。

 そして、柱の傷にそっと手を触れ、別れを告げた。


 「行ってくるね」


 ドアを開ける。

 廊下には、レオニスが立っていた。

 彼は窓の外を監視していたが、私が開ける音を聞いて振り返った。

 私の顔を見ても、彼は何も言わなかった。

 ただ、短く顎をしゃくっただけだ。


 「行くぞ。次は研究棟だ」

 「ええ」

 私はコートの襟を正した。

 「親孝行の時間よ。パパとママがやり残した仕事を、片付けに行きましょう」


 私たちは家を出た。

 外の霧はまだ晴れていなかったが、私の足取りは来る時よりもずっと軽かった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ