第106話 廃村の朝食
腰に巻いたロープが、限界まで張り詰めて私の腹を絞め上げた。
前を行くレオニスが急停止したからだ。
私は泥に足を取られて前のめりに転びそうになり、彼の背中に顔面から激突した。
硬い背筋の感触と、湿ったウールの匂い。
「……止まるなら合図して」
私は鼻をさすりながら抗議した。
「舌を噛むところだったわ」
「静かに」
レオニスは振り返らず、銃を構えたまま周囲を警戒していた。
「追ってこない」
私は耳を澄ませた。
さっきまで背後で響いていた、木々をなぎ倒す轟音が消えている。
あの鉄の巨人は、ある一点を境にして追跡をやめたようだ。
ただ、蒸気を吐き出すシューという音だけが、霧の奥から微かに届いていた。
「縄張りがあるみたいね」
私はロープを緩めた。
「あそこから先は『門番』の管轄外ってことかしら」
「あるいは、ここから先が『守るべき場所』なのかもしれん」
レオニスが前方を顎で示した。
霧が薄くなっている。
白い幕の向こうに、人工的なシルエットが浮かび上がっていた。
私たちは慎重に歩みを進めた。
足元の腐葉土が、次第に砂利道へと変わっていく。
霧が晴れるにつれ、その全貌が明らかになった。
そこは、小さな集落だった。
山間の盆地に、十軒ほどの木造家屋が点在している。
一番奥には、少し大きめのレンガ造りの建物――おそらく研究棟――が見える。
屋根には苔が生え、壁の塗装は剥がれ落ちていたが、建物自体は崩壊せずに残っていた。
「……誰もいないな」
レオニスが双眼鏡を使わずに見渡した。
「煙突からの煙もない。窓ガラスは割れていないが、埃が積もっている」
「ゴーストタウンね」
私は一番手前の家に近づいた。
庭の柵は朽ちて倒れ、雑草が腰の高さまで伸びている。
その草の隙間に、錆びた三輪車が埋もれていた。
「子供がいたのね」
私は三輪車のハンドルに触れた。
冷たい鉄の感触。
そこから、微かな記憶が流れ込んでくる。
――もっと速く。
――パパ、見てて。
――転んじゃった。痛い。
無邪気な声だ。
恐怖も、実験の苦痛もない。ただの日常のひとコマ。
「……平和な音」
私が呟くと、レオニスが家のドアの前に立った。
ノブに手をかける。鍵はかかっていない。
ギィィィ、と重い音を立ててドアが開く。
「お邪魔します」
レオニスが銃口を下に向けたまま、足を踏み入れた。
私も続く。
家の中は薄暗く、埃の匂いが充満していた。
リビングルームだ。
家具はそのまま残されている。
ソファには色あせたクッションがあり、暖炉の前には薪が積まれたままになっていた。
まるで、住人が「ちょっと散歩に行ってくる」と言って出て行ったきり、数十年が経過したかのような光景。
「荒らされていないな」
レオニスが床の埃を確認する。
「足跡はない。俺たちが最初の訪問者だ」
「泥棒が入るには、立地が悪すぎるもの」
私はキッチンの方へ歩いた。
ダイニングテーブルがある。
その上に、食器が並べられていた。
三人分。
二つの大きな皿と、一つの小さな皿。
皿の上には、乾燥して炭化したパンの残骸と、干からびた果物の種が残っている。
マグカップの底には、黒い染みがこびりついていた。
「……食事の途中だったみたい」
私は椅子の背に手を置いた。
「急いで逃げたわけじゃなさそう。椅子が倒れてない」
耳を澄ます。
この空間に染み付いた、最後の時間の音を聞く。
北の工場や、王宮の地下で聞いたような、悲鳴や怒号を覚悟していた。
だが、聞こえてきたのは、拍子抜けするほど穏やかな音だった。
カチャ、カチャ。
フォークとナイフが皿に当たる音。
――おはよう。今日はいい天気だ。
――卵が少し焼きすぎたわ。ごめんなさい。
――ううん、美味しいよママ。
男の声。女の声。そして、幼い子供の声。
会話の内容は、あまりに平凡で、退屈なほど幸せな朝の風景だった。
「……何これ」
私は胸が締め付けられるのを感じた。
「ただの家族じゃない」
「何か聞こえるか」
レオニスが近づいてくる。
「朝ご飯の話よ」
私はテーブルの上の埃を指でなぞった。
「『今日は森へ行こう』とか、『新しい絵本を読んで』とか。……実験の話なんて一つもしてない」
私の両親は、ここで研究をしていたはずだ。
あの恐ろしい「思考干渉装置」の研究を。
だというのに、この食卓に残っているのは、どこにでもある家庭の温かさだけだった。
――あの子の誕生日が近いわ。
――プレゼントは何にしようか。
――赤い靴がいい。あの子は赤が似合うから。
「……赤い靴」
私は自分の足元を見た。
泥だらけのゴム長靴。
誕生日に赤い靴なんて、貰った記憶はない。孤児院では、サイズが合えばラッキーという古着の靴しかなかった。
「辛いか」
レオニスが私の肩に手を置いた。
「無理に聞く必要はない」
「平気よ。ただの録音データだもの」
私は強がって、テーブルから離れた。
「それに、今は感傷に浸ってる場合じゃないわ。あそこに行かなきゃ」
私は窓の外、集落の奥に建つレンガ造りの建物を指差した。
研究棟。
両親の「仕事」の場所。
この家が「光」だとしたら、あそこには「影」があるはずだ。
「行くぞ」
レオニスが頷き、出口へ向かった。
私は最後にもう一度、埃を被った食卓を振り返った。
時が止まった朝食。
永遠に片付けられることのない皿。
「……ごちそうさま」
誰にともなく呟き、私はドアを閉めた。
バタン、という音が、家の中の静寂を再び封じ込めた。
外に出ると、霧が少し晴れてきていた。
だが、その向こうから、またあの音が聞こえ始めていた。
ズン、ズン。
巨大な足音。
あの錆びた守り人が、まだ私たちを探して森を徘徊している音だ。
この集落に近づかせないために。
あるいは、この集落の「平和な朝食」を守り続けるために。




