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無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


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第105話 湿った羅針盤

 峠を越えると、風向きが変わった。

 背中を押していた乾いた山風が止み、代わりに谷底から這い上がってくる湿った冷気が、足元を濡らし始めた。

 私は足を止め、眼下に広がる景色を見下ろした。

 そこには、景色と呼べるものは何もなかった。


 白一色。

 巨大なミルクの壺をひっくり返したように、谷全体が分厚い霧で埋め尽くされている。

 木々のこずえさえ見えない。ただ、圧倒的な白がうねり、山肌に波のように打ち寄せているだけだ。


 「……スープの鍋底みたいね」

 私はコートの襟を詰め、湿気を防ごうとした。

 「灰汁あくが溜まってる。掬い取って捨てたいくらい」


 「天然の要害だ」

 レオニスが地図を広げた。紙が湿気で少し波打っている。

 「この霧のせいで、航空機からの偵察も無効化される。隠れ家としては理想的だが、訪問者にとっては迷路だ」

 彼は懐からコンパスを取り出し、針の動きを確認した。

 針は北を指して静止している。磁場は正常らしい。


 「行くぞ。足元が悪い。滑落したら底まで直行だ」

 レオニスが先に斜面を下り始めた。

 私はリュックのベルトを締め直し、彼の足跡を正確に踏むようにして続いた。


 *


 霧の中に足を踏み入れた瞬間、世界が変質した。

 視界が奪われるだけではない。

 音が消えた。

 

 私の耳は、常に世界の「雑音」を拾い続けている。

 風の音、蟲の羽音、遠くの水音。そして、場所に染み付いた過去の残響。

 それらが突然、分厚い綿で耳栓をされたように遮断されたのだ。


 「……っ」

 私は立ち止まり、自分の耳を叩いた。

 キーン、という耳鳴りさえしない。

 完全な無音。

 自分の心臓の音だけが、肋骨の内側でドクンドクンと暴れている。


 「レオ!」

 呼びかけた声が、口を出た瞬間に霧に吸い込まれて消えた。

 反響がない。距離感が掴めない。


 数歩先を行くレオニスの背中が、白い闇に溶けかけている。

 恐怖が背筋を駆け上がった。

 視界が利かないことよりも、音が聞こえないことの方が、私にとっては致命的だ。

 私はレーダーを失った船と同じだ。


 「レオ!」

 私は叫び、手を伸ばした。

 

 ガシッ。

 

 彼の手が、振り返りざまに私の手首を掴んだ。

 強い力。

 革手袋越しに伝わる体温と、脈打つ血管の振動。

 それだけが、ここが現実世界であることを証明していた。


 「……離れるなと言ったはずだ」

 レオニスの顔が近づいてきた。

 至近距離でようやく、彼の低い声が鼓膜に届く。

 「どうした。顔色が悪い」


 「聞こえないの」

 私は彼の上着を掴んで引き寄せた。

 「何も聞こえない。この霧、音を食べてるわ。死者の声も、生者の音も、全部」


 レオニスは周囲を見回した。

 乳白色の壁が、私たちを取り囲んでいる。

 「……特殊な磁場か、あるいは植物の影響か」

 彼は私の手を離さず、自分のベルトに結びつけてあったロープの端を私に渡した。

 「腰に巻け。これではぐれることはない」


 私は震える手でロープを腰に巻き付け、固結びにした。

 へその緒のようだと思った。

 この細い綱が切れたら、私はこの白い虚無の中で永遠に迷子になる。


 「案内役は交代だ」

 レオニスがコンパスを見ながら言った。

 「俺が先導する。お前は足元の石ころだけに集中していればいい」


 私たちは歩き出した。

 地面は腐葉土と苔でふかふかとしており、足音さえ吸い込まれる。

 時折、木の枝が顔を掠めるが、その擦過音すら聞こえない。

 まるで深海を歩いているような浮遊感と閉塞感。


 どのくらい歩いただろうか。

 時間の感覚も麻痺してくる。

 レオニスの背中だけを見つめ、機械的に足を動かす。


 不意に、レオニスが足を止めた。

 ロープがピンと張る。

 彼が片手を上げ、制止の合図を送ってきた。


 「……何かある」

 彼が囁く。

 「匂いだ。油の臭いがする」


 私は鼻をひくつかせた。

 湿った土の匂いに混じって、確かに異質な臭いが漂っている。

 古い機械油。

 錆びた鉄。

 そして、微かな排気の臭い。


 「追手?」

 「わからん。だが、自然のものではない」


 私は目を閉じた。

 聴覚を極限まで研ぎ澄ます。

 霧が音を吸収するなら、その霧の「揺らぎ」を感じ取ればいい。

 空気が動く気配。

 地面を伝わる振動。


 ……聞こえる。

 耳ではなく、足の裏から。

 ズン、ズン、という規則的なリズム。

 心臓の鼓動ではない。もっと重く、硬いものが地面を叩く振動。


 「……足音」

 私は目を開けた。

 「来るわ。正面から」

 「距離は」

 「近い。すぐそこ」


 レオニスが私を背後に隠し、銃を構えた。

 霧の向こうで、白い幕が揺らぐ。

 

 現れたのは、巨大な影だった。

 高さは三メートル近い。

 人型をしているが、人間ではない。

 全身が錆びついた鉄板で覆われ、継ぎ目から蒸気を吐き出している。

 頭部にはカメラのような単眼が一つ、鈍い赤色に発光していた。


 「……なんだ、あれは」

 レオニスが呻く。

 「旧王国の自律兵器か?」


 影が動いた。

 錆びついた関節が、ギギギと悲鳴のような音を立てる。

 それは私たちを敵と認識したのか、あるいはただの障害物と見なしたのか。

 丸太のような腕をゆっくりと振り上げた。


 「下がれ!」

 レオニスが叫び、発砲した。

 パン、パン!

 乾いた銃声が霧に吸われる。

 弾丸は鉄の装甲に当たり、火花を散らして弾かれた。

 傷一つついていない。


 「効かないわ!」

 私はロープを引いた。

 「逃げましょう! あれは『話し合い』ができる相手じゃない!」


 巨人が一歩踏み出す。

 地面が大きく揺れた。

 その振動の中に、私は奇妙な「音」を聞いた。

 機械の駆動音ではない。

 鉄の塊の中心から響く、壊れたレコードのような思考のループ。


 ――守れ。

 ――通すな。

 ――あの子が帰るまで。


 「……あの子?」

 私が呟く間もなく、鉄の腕が振り下ろされた。

 風圧が顔を打つ。

 レオニスが私を抱えて横に飛んだ。

 ドォォン!

 地面が爆ぜ、泥と腐葉土が舞い上がった。


 霧の底で、錆びた守り神が目を覚ましたのだ。

 私たちは泥まみれになりながら、視界のない森の中を転がるように走り出した。

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