第104話 星空の天幕
私は焚き火のそばで膝を抱え、小さな鉄鍋から立ち上る湯気を見つめていた。
鍋の中では、昼間に採った野草と、ボリスから貰った干し肉がグツグツと煮えている。
灰汁が浮いてきた。私は削った枝でおざなりにすくい取り、火の中に弾き飛ばした。
ジュッ、と音がして、焦げ臭い匂いが漂う。
「……手際がいいわね」
私は頭上を見上げた。
二本の太い杉の木の間に、防水布のシートがピンと張られている。
ロープの結び目は複雑で美しく、強い風が吹いても緩む気配がない。即席の屋根だが、私が知るどの安宿の天井よりも頼もしく見えた。
「野営は基本技能だ」
レオニスが最後のペグ――削った木の杭――を地面に打ち込み、立ち上がった。
「屋根さえあれば、雨でも眠れる。体力の回復効率が違う」
彼は満足げに頷き、焚き火の反対側に腰を下ろした。
「はい、シェフの気まぐれスープよ」
私は鍋を火から下ろし、木のスプーンを添えて彼に差し出した。
「味見はしてないけど、毒草は入ってないはず」
レオニスは椀を受け取り、匂いを嗅いだ。
「肉の戻り具合はどうだ」
「古タイヤよりは柔らかくなってると思うわ」
彼が一口啜る。
表情は変わらない。
「……塩が足りん」
「贅沢言わないで。素材の味を楽しんでよ」
私も自分のカップにスープを注いだ。
口に含む。
野草の苦味と、干し肉から染み出した塩気と脂が混ざり合っている。
美味とは言えない。
だが、冷え切った内臓に熱が落ちていく感覚は、何物にも代えがたかった。
「生き返る……」
私は息を吐いた。
森の夜気は冷たい。火のそばにいても、背中側から冷気が忍び寄ってくる。
私はコートの前を合わせ、火に近づこうと体を丸めた。
「寒いか」
レオニスが聞いた。
「少しね。北の街より気温は高いはずなんだけど、湿気が骨に来るのよ」
レオニスは飲み干した椀を置き、立ち上がった。
彼は私の背後に回り込むと、ドカッと腰を下ろした。
そして、自分のコートの前を開き、背後から私を包み込むようにして座った。
「……なによ、これ」
私は驚いて振り返ろうとしたが、彼の腕が邪魔で動けない。
背中に彼の胸板が密着している。
熱い。
人間とは思えないほどの体温が、コート越しに伝わってくる。
「暖房器具だ」
耳元で彼の声がした。
「互いの体温を逃がさない。これが一番効率的だ」
「……高機能なストーブね。燃料は何?」
「さっきのスープだ」
私は抵抗するのをやめ、彼の腕の中に体を預けた。
温かい。
焚き火の熱と、背中の熱。両側から挟まれて、凍えていた指先まで血が巡り始める。
心臓の音が聞こえた。
私のものか、彼のものか。
リズムが重なって、区別がつかない。
私たちはしばらく無言で、揺れる炎を眺めていた。
薪が崩れ、火の粉が舞い上がる。
それは夜空に向かって昇っていき、満天の星々と混ざり合った。
木々の隙間から見える空は、宝石箱をひっくり返したようだった。
都会の煤煙に隠されていた光の粒が、ここでは圧倒的な量で降り注いでいる。
「……綺麗」
私が呟くと、レオニスの顎が私の頭頂部に触れた。
「明日は晴れるな」
「そうね。絶好の登山日和」
私は視線を炎に戻した。
この山を越えれば、霧の渓谷だ。
私の両親が隠れ住み、研究をしていた場所。
そして、私が生まれた場所。
「……ねえ、レオ」
「なんだ」
「もし、何もなかったらどうしよう」
口に出してしまった。
ずっと胸の奥に引っかかっていた棘。
「廃墟になってて、何も残ってなかったら? あるいは、知りたくないような事実が出てきたら?」
私は膝を抱える腕に力を込めた。
「私、怖いのよ。今まで『知りたい』って思ってたけど、いざ目の前にすると、足がすくむ」
両親は本当に私を愛していたのか。
それとも、あのセピア色の写真も、実験の一環だったのか。
王宮の地下で見た記録は事実の一部でしかなく、もっと残酷な真実が待っているのではないか。
レオニスはすぐには答えなかった。
ただ、私を包む腕に少しだけ力を込め、大きな手で私の頭をポンポンと撫でた。
子供をあやすような、不器用な手つき。
「何があろうと、俺がいる」
彼が静かに言った。
「真実が残酷なら、一緒に受け止めてやる。何もなければ、また別の場所へ行くだけだ」
「……別の場所?」
「ああ。世界は広い。お前の耳が必要な場所はいくらでもある」
彼は私の髪をくしゃりとかき回した。
「それに、俺たちの商会にはまだ看板がない。新しい拠点を探す旅だと思えばいい」
単純な理屈だ。
でも、その単純さが今の私には救いだった。
「そうね」
私は鼻を啜った。
「もし実家がボロボロだったら、あんたに直してもらうわ。屋根の修理は得意だものね」
「追加料金を請求するぞ」
私は笑い、背中の温もりに深く寄りかかった。
火が小さくなっていく。
夜の森は深くて暗いが、ここだけは光と熱があった。
「寝るぞ。明日は早い」
レオニスが言った。
「このまま?」
「離れると寒い」
私は目を閉じた。
耳を澄ます。
熊の足音は聞こえない。
聞こえるのは、風が梢を揺らす音と、レオニスの規則正しい呼吸音だけ。
大丈夫。
どんな過去が待っていても、私は一人じゃない。
この高機能なストーブが、背中を守ってくれている限りは。




