第103話 熊の足跡
貨車の鉄扉が、錆びたレールの上を滑って開いた。
外の空気は、これまで通過してきたどの街とも違っていた。
石炭や排気ガスの臭いはない。あるのは、鼻の奥がツンとするような松脂の香りと、濡れた土の匂いだけだ。
「……終点か」
レオニスが先に飛び降りた。
地面は舗装されていない。彼のブーツが、木屑と泥の混ざった地面に深く沈み込む。
彼は周囲を警戒するように見回してから、私に手を差し出した。
「降りろ。ここからは足が頼りだ」
「優雅な列車の旅もこれでおしまいね」
私は彼の手を借りて地面に降り立った。
足元が柔らかい。
見渡す限り、丸太が山のように積まれている。ここは駅ではなく、山から切り出した木材を積み込むための集積所だった。
作業員の姿はない。休日なのか、それとも昼休みか。静寂だけが広がっている。
「地図によれば、この山を越えれば『霧の渓谷』だ」
レオニスが空を見上げた。
雲が低い。
「道はない。獣道を辿ることになる」
「ハイキングにしては荷物が重すぎるわ」
私は鞄を肩に掛け直し、コートの裾をまくった。
ミレイに買ってもらった新しいコートは、まだ都市の洗剤の香りが残っている。
これから泥まみれになると思うと、少しだけ気が滅入った。
*
山に入ると、地面の状態はさらに悪化した。
雪解け水が斜面を流れ落ち、道なき道を茶色い沼に変えている。
一歩進むたびに、泥が靴底に吸い付き、足首を掴んで引きずり込もうとする。
「……はぁ、はぁ」
私は息を切らせて立ち止まった。
「ちょっと、休憩。足が抜けない」
泥が長靴の半分まで飲み込んでいる。
レオニスは数メートル先で振り返った。
彼は平然としている。体幹が強すぎるせいで、不安定な足場でも重心がブレないのだ。
「体力が落ちているな。王宮で菓子ばかり食べていたせいだ」
「栄養補給よ。それに、あんたが歩くペースが速すぎるの」
レオニスは腰のナイフを抜き、手近な若木を切り払った。
スパッ、という鋭い音がして、枝が落ちる。
彼は枝の余分な葉を落とし、適度な長さに整えると、私に放ってよこした。
「使え。三本足になれば、多少はマシになる」
「……どうも。老後の予行演習だと思ってありがたく使うわ」
私は即席の杖を泥に突き立てた。
支えがあるだけで、足への負担が軽くなる。
私たちは再び歩き出した。
森は静かだ。
風が枝を揺らす音と、私たちの足音が響くだけ。
だが、私の耳には、森全体のざわめきが届いていた。
――寒い。まだ寒い。
――芽が出た。
――腹が減った。
植物の成長音。
冬眠から覚めた小動物たちの心音。
それらがバックグラウンドノイズとなって、森全体を満たしている。
さらに一時間ほど歩いた頃だった。
前方の藪から、異質な「音」が聞こえてきた。
風の音ではない。
もっと重く、湿った呼吸音。
そして、空腹を訴える強烈な思考の波。
――肉だ。
――匂いがする。
――食わせろ。冬は終わったんだ。
「……ストップ」
私は杖でレオニスの背中を突いた。
「止まって」
レオニスが即座に足を止め、腰の銃に手をかけた。
「追手か?」
「いいえ。もっと野生的なやつ」
私は鼻をひくつかせた。
風下から、獣臭い匂いが漂ってくる。
濡れた毛皮と、古い血の匂い。
「熊よ」
私は小声で告げた。
「それも、かなり大きい。冬眠明けで機嫌が最悪みたい。『腹が減りすぎて石でも食いたい』って言ってる」
レオニスが藪の向こうを睨んだ。
視界は悪い。木々が密集しており、数メートル先も見通せない。
だが、彼の目には戦意が宿っていた。
「距離は」
「五十メートル。風上はあっち。まだ私たちの匂いには気づいてないわ」
「やれるか」
彼は銃の安全装置を外そうとした。
「やめて」
私は彼の手を押さえた。
「銃声で他の動物までパニックになるわ。それに、相手は空腹なだけよ。殺意を持った兵士とは違う」
「だが、このまま進めば鉢合わせする」
「迂回しましょう。右の斜面から回れば、風下に入らずに済む」
レオニスは不満そうに鼻を鳴らした。
「……将軍より熊の方が話が通じそうだとでも?」
「熊は交渉に応じないわよ。でも、無駄な喧嘩を避ける知恵はあるはず」
私は彼の袖を引き、右側の岩場へと誘導した。
足音を殺す。
杖が石に当たらないように、慎重に地面を選ぶ。
横を通り過ぎる時、藪の奥から低い唸り声が聞こえた。
グルルルル……。
腹の底に響く重低音。
地面が微かに震えている。
レオニスの背中が強張るのがわかった。彼はいつでも抜けるように、グリップから手を離さない。
――どこだ。
――匂いがした気がしたのに。
――鹿か? ウサギか?
熊の思考が、私たちの気配を探って彷徨っている。
私は息を止めた。
心臓の音を聞かれないように、意識を内側に集中する。
数分後。
熊の気配が遠ざかっていった。
どうやら、反対側へ獲物を探しに行ったらしい。
「……抜けたわ」
私は大きく息を吐き、岩に手をついた。
「緊張で喉が渇いた」
レオニスも銃から手を離し、手袋の位置を直した。
「森の主への挨拶はなしか」
「お土産を持ってないもの。乾パンをあげても怒るだけよ」
私たちは顔を見合わせて、少しだけ笑った。
緊張が解けると、急に疲労が押し寄せてくる。
日は傾き始めていた。
森の中に、夕闇がインクのように滲み出してきている。
「今日はここまでだ」
レオニスが平らな地面を探し始めた。
「夜の山は危険だ。野営するぞ」
「賛成。温かいものが食べたいわ。泥の味以外なら何でもいい」
私は杖を地面に突き刺した。
ここが、今夜の私たちの宿になる。
屋根も壁もないが、少なくとも家賃はタダだ。




