表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

103/128

第103話 熊の足跡

 貨車の鉄扉が、錆びたレールの上を滑って開いた。

 外の空気は、これまで通過してきたどの街とも違っていた。

 石炭や排気ガスの臭いはない。あるのは、鼻の奥がツンとするような松脂まつやにの香りと、濡れた土の匂いだけだ。


 「……終点か」

 レオニスが先に飛び降りた。

 地面は舗装されていない。彼のブーツが、木屑と泥の混ざった地面に深く沈み込む。

 彼は周囲を警戒するように見回してから、私に手を差し出した。


 「降りろ。ここからは足が頼りだ」

 「優雅な列車の旅もこれでおしまいね」

 私は彼の手を借りて地面に降り立った。

 足元が柔らかい。

 見渡す限り、丸太が山のように積まれている。ここは駅ではなく、山から切り出した木材を積み込むための集積所だった。

 作業員の姿はない。休日なのか、それとも昼休みか。静寂だけが広がっている。


 「地図によれば、この山を越えれば『霧の渓谷』だ」

 レオニスが空を見上げた。

 雲が低い。

 「道はない。獣道を辿ることになる」

 「ハイキングにしては荷物が重すぎるわ」


 私は鞄を肩に掛け直し、コートの裾をまくった。

 ミレイに買ってもらった新しいコートは、まだ都市の洗剤の香りが残っている。

 これから泥まみれになると思うと、少しだけ気が滅入った。


 *


 山に入ると、地面の状態はさらに悪化した。

 雪解け水が斜面を流れ落ち、道なき道を茶色い沼に変えている。

 一歩進むたびに、泥が靴底に吸い付き、足首を掴んで引きずり込もうとする。


 「……はぁ、はぁ」

 私は息を切らせて立ち止まった。

 「ちょっと、休憩。足が抜けない」

 泥が長靴の半分まで飲み込んでいる。


 レオニスは数メートル先で振り返った。

 彼は平然としている。体幹が強すぎるせいで、不安定な足場でも重心がブレないのだ。

 「体力が落ちているな。王宮で菓子ばかり食べていたせいだ」

 「栄養補給よ。それに、あんたが歩くペースが速すぎるの」


 レオニスは腰のナイフを抜き、手近な若木を切り払った。

 スパッ、という鋭い音がして、枝が落ちる。

 彼は枝の余分な葉を落とし、適度な長さに整えると、私に放ってよこした。


 「使え。三本足になれば、多少はマシになる」

 「……どうも。老後の予行演習だと思ってありがたく使うわ」


 私は即席の杖を泥に突き立てた。

 支えがあるだけで、足への負担が軽くなる。

 私たちは再び歩き出した。

 森は静かだ。

 風が枝を揺らす音と、私たちの足音が響くだけ。

 だが、私の耳には、森全体のざわめきが届いていた。


 ――寒い。まだ寒い。

 ――芽が出た。

 ――腹が減った。


 植物の成長音。

 冬眠から覚めた小動物たちの心音。

 それらがバックグラウンドノイズとなって、森全体を満たしている。


 さらに一時間ほど歩いた頃だった。

 前方の藪から、異質な「音」が聞こえてきた。

 風の音ではない。

 もっと重く、湿った呼吸音。

 そして、空腹を訴える強烈な思考の波。


 ――肉だ。

 ――匂いがする。

 ――食わせろ。冬は終わったんだ。


 「……ストップ」

 私は杖でレオニスの背中を突いた。

 「止まって」


 レオニスが即座に足を止め、腰の銃に手をかけた。

 「追手か?」

 「いいえ。もっと野生的なやつ」


 私は鼻をひくつかせた。

 風下から、獣臭い匂いが漂ってくる。

 濡れた毛皮と、古い血の匂い。


 「熊よ」

 私は小声で告げた。

 「それも、かなり大きい。冬眠明けで機嫌が最悪みたい。『腹が減りすぎて石でも食いたい』って言ってる」


 レオニスが藪の向こうを睨んだ。

 視界は悪い。木々が密集しており、数メートル先も見通せない。

 だが、彼の目には戦意が宿っていた。


 「距離は」

 「五十メートル。風上はあっち。まだ私たちの匂いには気づいてないわ」

 「やれるか」

 彼は銃の安全装置を外そうとした。


 「やめて」

 私は彼の手を押さえた。

 「銃声で他の動物までパニックになるわ。それに、相手は空腹なだけよ。殺意を持った兵士とは違う」

 「だが、このまま進めば鉢合わせする」

 「迂回しましょう。右の斜面から回れば、風下に入らずに済む」


 レオニスは不満そうに鼻を鳴らした。

 「……将軍より熊の方が話が通じそうだとでも?」

 「熊は交渉に応じないわよ。でも、無駄な喧嘩を避ける知恵はあるはず」


 私は彼の袖を引き、右側の岩場へと誘導した。

 足音を殺す。

 杖が石に当たらないように、慎重に地面を選ぶ。


 横を通り過ぎる時、藪の奥から低い唸り声が聞こえた。

 

 グルルルル……。


 腹の底に響く重低音。

 地面が微かに震えている。

 レオニスの背中が強張るのがわかった。彼はいつでも抜けるように、グリップから手を離さない。


 ――どこだ。

 ――匂いがした気がしたのに。

 ――鹿か? ウサギか?


 熊の思考が、私たちの気配を探って彷徨っている。

 私は息を止めた。

 心臓の音を聞かれないように、意識を内側に集中する。


 数分後。

 熊の気配が遠ざかっていった。

 どうやら、反対側へ獲物を探しに行ったらしい。


 「……抜けたわ」

 私は大きく息を吐き、岩に手をついた。

 「緊張で喉が渇いた」


 レオニスも銃から手を離し、手袋の位置を直した。

 「森の主への挨拶はなしか」

 「お土産を持ってないもの。乾パンをあげても怒るだけよ」


 私たちは顔を見合わせて、少しだけ笑った。

 緊張が解けると、急に疲労が押し寄せてくる。

 日は傾き始めていた。

 森の中に、夕闇がインクのように滲み出してきている。


 「今日はここまでだ」

 レオニスが平らな地面を探し始めた。

 「夜の山は危険だ。野営するぞ」

 「賛成。温かいものが食べたいわ。泥の味以外なら何でもいい」


 私は杖を地面に突き刺した。

 ここが、今夜の私たちの宿になる。

 屋根も壁もないが、少なくとも家賃はタダだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ