第102話 灰の降る街
私は靴底を鳴らして駆け上がりながら、背後の闇を振り返った。
地下の禁書庫から響く轟音は、もはや爆発音だけではない。岩盤そのものが歪み、悲鳴を上げている音だ。
「……急げ」
レオニスが前を走るバルトロの背中を押した。
「防火シャッターが閉まるぞ。挟まれたらミンチだ」
「わかっておる! だが、膝が……」
老教授は息も絶え絶えに足を動かしている。彼の白衣は汗と埃で変色し、大事そうに抱えた数冊の古書だけが綺麗だった。
頭上で、金属同士が激突する音がした。
ガシャァァン!
一階フロアへの出口、鉄の扉が誰かに蹴破られた音だ。
「……来たわね」
私は足を止めずに上を見た。
「足音がする。重装備の集団よ。火炎放射器のタンクが揺れる音が聞こえる」
階段を登りきり、私たちは一階のフロアに飛び出した。
そこは、煙と熱気の坩堝だった。
入り口のバリケードは突破され、灰色の防護服を着た男たちがなだれ込んできている。
彼らは手に持ったノズルから炎を撒き散らし、目につく本棚を片っ端から焼いていた。
「探せ! 地下への入り口があるはずだ!」
指揮官らしき男が叫んでいる。
「隠し部屋を見つけ出せ! 証拠ごと埋めてしまえ!」
レオニスが私とバルトロを巨大な地球儀の陰に引き込んだ。
「……数は多いな」
彼はスライドを引いて残弾を確認した。
「正面突破は無理だ。裏口へ回る」
「裏口までは距離があるぞ」
バルトロが顔をしかめた。
「あの火の壁を越えなければならん」
通路の先、本棚が燃え上がり、炎のカーテンとなって道を塞いでいる。
スプリンクラーは作動しているが、油性の火炎には効果が薄い。
黒い煙が天井に溜まり、咳き込むような刺激臭を撒き散らしていた。
「道を作る」
レオニスは地球儀の台座に足をかけた。
金属製の重い球体だ。
「レティ、タイミングを合わせろ。奴らがリロード……いや、タンクの圧力を調整する一瞬があるはずだ」
私は耳を澄ませた。
炎の爆ぜる音。本の焼ける音。
その向こう側で、放射器のバルブを操作する微細な金属音を探る。
シュゥゥゥ……。
吸気音。
圧力が下がる瞬間。
「今!」
私が叫ぶと同時に、レオニスが地球儀を蹴り倒した。
ゴロン、と重い音がして、鉄の球体が転がり出す。
それはボウリングの玉のように通路を滑走し、炎の壁に突っ込んでいった。
「なっ!?」
焚書官の一人が気づくが遅い。
地球儀は燃える本棚に激突し、その衝撃で棚ごとドミノ倒しになぎ倒した。
ドガガガガ!
崩れた本棚が炎を押し潰し、同時に敵兵たちの進路を塞ぐ瓦礫の山となる。
煙が舞い上がり、視界が遮られた。
「走れ!」
レオニスが飛び出す。
私たちは煙の中を突っ切った。
熱い。
髪の毛先がチリチリと焦げる感覚がある。
だが、足は止めない。
裏口の扉が見えてきた。
鍵はかかっていない。
レオニスが肩で押し開け、外の冷気の中へと転がり出る。
*
外は、灰の雪が降っていた。
空から舞い落ちる白い紙片と、黒い煤。
街のあちこちから煙が上がり、空を灰色に染めている。
私たちは路地裏のコンテナの陰に座り込み、呼吸を整えた。
「……ここまで来れば大丈夫だろう」
バルトロが煤だらけの顔を拭った。
「奴らの狙いは図書館だ。逃げたネズミを追う余裕はない」
私は懐から、あのファイルを取り出して確認した。
無事だ。
焦げてもいないし、濡れてもいない。
私の出生の秘密と、両親の笑顔が写った写真。それは私の胸元で、確かな重みを主張していた。
「さて、ここでお別れだな」
バルトロが立ち上がり、衣服を整えた。
「私は戻る」
「は?」
私は顔を上げた。
「戻るって、図書館に? 燃えてるのよ」
「だからこそだ」
老教授は眼鏡の位置を直し、図書館の方角を見つめた。
「地下の禁書庫はまだ無事だ。入り口を内側から封鎖すれば、火は届かん。あそこには、守らねばならん知識が山ほどある」
「死ぬ気か」
レオニスが問う。
「生き埋めになるぞ」
「本に囲まれて死ぬなら本望だ」
バルトロはニヤリと笑った。
「それに、この街の地下水路は複雑でな。ほとぼりが冷めた頃に、別の出口から抜け出すさ」
彼は私の前に立ち、ポケットから一枚の紙切れを取り出した。
古地図の切れ端だ。
「持っていけ。餞別だ」
私は受け取った。
地図には、国境を越えた先にある山岳地帯が描かれている。
ある渓谷に、ペンで印がつけられていた。
「『霧の渓谷』だ」
バルトロが言った。
「そのファイルの著者……君の父親が、かつて研究拠点にしていた場所だという噂を聞いたことがある。そこに行けば、更なる手掛かりがあるかもしれん」
「……ありがとう、教授」
私は地図をファイルに挟んだ。
「エロ本の隠し場所、誰にも言わないでおいてあげる」
「やかましい」
バルトロは笑い、杖を突いて歩き出した。
「達者でな。歴史の証人たちよ」
彼は燃え盛る図書館の裏口へと、迷うことなく戻っていった。
*
駅のホームは、避難民でごった返していた。
誰もが荷物を抱え、不安そうな顔で列車の到着を待っている。
私たちは人混みを避け、ホームの端にある貨物用のデッキに立った。
レオニスが懐中時計を確認する。
「もうすぐ来る。南行きの貨物列車だ」
「また無賃乗車?」
「緊急避難だ。文句は言わせん」
遠くから汽笛が聞こえた。
灰色の空気を震わせる、太く低い音。
レールが振動を伝え、足の裏をくすぐる。
私はコートのポケットに手を入れ、空になった飴の缶を取り出した。
蓋を開ける。
中には何もない。
だが、私はそこへ、懐から取り出したセピア色の写真をそっと入れた。
両親の写真。
缶の底にピッタリと収まる。
「……これで湿気ないわね」
蓋を閉める。
カチリ、という音が、私の中で何かを区切った。
「後悔はないか」
レオニスが隣で聞いた。
「自分が何者かを知って、それで終わりにする手もある」
「終わりになんてしないわ」
私は缶をポケットに戻した。
「私は作られた兵器じゃなかった。ただの、愛された子供だった。……それがわかっただけで十分よ」
私は線路の先を見つめた。
「でも、両親を殺して、私をこんな目に遭わせた連中には、きっちりとツケを払わせる。請求書の宛先はわかったもの」
列車がホームに入ってくる。
黒い鉄の塊が、風を巻き起こして通過していく。
レオニスが走る。
私も続く。
「乗るぞ!」
彼は開いた貨車の扉に手をかけ、飛び乗った。
すぐに振り返り、手を差し出す。
私は地面を蹴った。
彼の手を掴む。
強い力で引き上げられる。
床に転がり込むと、藁と古い木の匂いがした。
扉が閉められる。
車内は薄暗くなり、車輪の音だけが響く空間になった。
「……腹が減ったな」
レオニスがドカッと座り込み、鞄を探った。
「ミレイから貰った乾パンが残っているはずだ」
「硬いやつでしょ。歯が折れそう」
彼はパンを二つに割り、片方を私に渡した。
私はそれを受け取り、齧り付いた。
味気ない。
けれど、今はこれが一番のご馳走だ。
「次は『霧の渓谷』か」
レオニスが呟く。
「地図を見る限り、また山登りになりそうだ」
「靴を新調しておいて正解だったわね」
私は壁に寄りかかり、目を閉じた。
耳を澄ます。
燃える街の音は、もう遠ざかっていた。
聞こえるのは、一定のリズムで進む列車の音と、隣にいる男がパンを咀嚼する音だけ。
旅は続く。
私はポケットの缶を上から押さえ、小さく息を吐いた。
その吐息は、以前よりも少しだけ、温かい気がした。




