第101話 セピア色の家族写真
エレベーターの籠が、ガコンという音を立てて停止した。
鉄格子の扉が開く。
そこには、地下回廊の湿気とは無縁の、乾燥しきった冷たい空気が待ち受けていた。
埃の臭いはしない。代わりに、古い紙と防腐剤、そして長期間密閉された空間特有の無臭に近い圧迫感がある。
「……着いたぞ」
バルトロ教授が懐中電灯を点けた。
光の束が、闇の中に整然と並ぶ書架を浮かび上がらせる。
金属製の棚だ。
上の階の木製棚とは違い、冷たく、飾り気がない。そこに収められた書物も、装丁された美しい本ではなく、黒や茶色の事務的なファイルや、紐で綴じられた報告書の束ばかりだった。
「ここが禁書庫だ」
バルトロが一歩足を踏み出す。
靴音が硬い床に響き、吸い込まれるように消える。
「歴史の掃き溜めであり、王家の恥部を隠す金庫でもある」
私はレオニスの後ろから顔を出した。
広い。
奥行きが見えない。棚の列がどこまでも続いている。
耳を澄ます。
ここにある本たちは、上の階のように騒がしくはなかった。
むしろ、沈黙している。
誰にも読まれたくない、あるいは、読む者を拒絶するかのような、重苦しい「秘匿」の意志。
――開けるな。
――忘れてくれ。
――知れば死ぬぞ。
「……歓迎されてないわね」
私はコートの前を合わせた。
寒気がする。物理的な寒さではなく、ここに渦巻く情念の冷たさだ。
「探すぞ」
レオニスが歩き出した。
「『アナスタシア計画』。そのタイトルのファイルがあるはずだ」
「手当たり次第に見るわけにはいかん」
バルトロが棚の側面にあるプレートを確認する。
「分類コードがあるはずだが……ここは年代順でもジャンル別でもない。『危険度』順に並んでいる」
「危険度?」
「ああ。国家転覆レベルの秘密ほど、奥に置かれる」
私は目を閉じた。
視覚情報は邪魔だ。
この数万冊の沈黙の中から、私を呼んでいるたった一冊の声を聞き分ける。
歩く。
棚の間を抜ける。
私の足音に合わせて、左右のファイルがざわめく。
『暗殺リスト』『疫病の散布記録』『不正選挙の証拠』。
ろくでもないものばかりだ。
さらに奥へ。
空気が重くなる。
耳鳴りがキーンと高音を奏で始める。
――ここよ。
――私がいる。
――かわいそうな子。
声が聞こえた。
女の声だ。
悲しげで、それでいて、どこか懐かしい響き。
私はその声に引かれるように足を速めた。
「……こっち」
私は通路を左に折れた。
一番奥の突き当たり。
黒い鉄の棚が、壁と同化するように立っている。
その中段に、一冊だけ、分厚い革表紙のファイルが刺さっていた。
背表紙には何も書かれていない。
「これだわ」
私は立ち止まった。
指先が震える。
触れるのが怖い。
このファイルから発せられる「悲しみ」の波動が、私の胸を締め付けている。
レオニスが追いついてきた。
彼は私の震える手を見て、無言で手を伸ばし、代わりにファイルを抜き取った。
ズシリ、と重い音がする。
「……見るか」
彼が私に問う。
「見ないで済むなら、燃やしてもいい」
「見るわ」
私は唇を噛んだ。
「ここまで来て尻尾を巻くなんて、私のプライドが許さない」
レオニスは頷き、近くにあった閲覧用の鉄机にファイルを置いた。
バルトロがライトを照らす。
表紙を開く。
一枚目。
タイプライターで打たれた文字。
『極秘:プロジェクト・アナスタシア 最終報告書』
『日付:帝国暦 三〇五年 十月』
私が生まれる少し前の日付だ。
ページをめくる。
そこには、難解な医学用語と、人体の図解が並んでいた。
脳の断面図。神経回路の接続実験。
そして、北の廃鉱山で見た「赤い石」の成分分析表。
「……やはりな」
バルトロが呻いた。
「これは『人造兵士』の開発記録だ。胎児の段階から脳に干渉し、特定の命令に服従する兵器を作る……狂気じみている」
私はさらにページをめくった。
手が止まる。
一枚の写真が貼られていたからだ。
セピア色に変色した写真。
白衣を着た若い男女が写っている。
二人は寄り添い、真ん中に小さな赤ん坊を抱いていた。
幸せそうな笑顔。
どこにでもある家族写真だ。
だが、その下に書かれたキャプションが、私の呼吸を止めた。
『検体名:なし(通称・アナスタシア)』
『提供者:主任研究員 アルベルト・ヴァン・ローズ夫妻』
『備考:夫妻は実験への協力を拒否。反逆罪により処分。検体は没収・確保済み』
「……え?」
声が掠れた。
意味がわからない。いや、わかりたくない。
私は写真の赤ん坊を凝視した。
おくるみから覗く右肩。
そこには、小さな苺のような形の痣が、黒いシミのように写っていた。
私だ。
この赤ん坊は、私だ。
「……作られたんじゃない」
私が呟くと、レオニスが顔を上げた。
「私は……普通の子供だった。両親がいて、愛されて……」
次のページには、実験の詳細が記されていた。
両親を殺された赤ん坊が、どのようにして実験台に乗せられ、脳に干渉を受け、そして「失敗作」として廃棄されたか。
その過程が、淡々とした事務的な文章で綴られている。
『聴覚野への過剰負荷により、被験者は異常な聴力を獲得。しかし、精神的な不安定さが残り、兵器としての実用化は見送られた』
『処分決定。孤児院へ送致し、経過を観察する』
私は机に手をつき、体を支えた。
吐き気がする。
私は「特別な存在」でも、「王家の血を引く姫」でもなかった。
ただの、殺された科学者の娘。
そして、両親の研究の成果を証明するために、モルモットにされた被害者。
「……嘘よ」
私は首を振った。
「こんなの、あんまりじゃない」
親の顔も知らない。
ただ、便利屋として、したたかに生きてきたつもりだった。
でも、私の根底にあったのは、こんな血塗られた悲劇だったなんて。
「レティ」
レオニスの手が、私の肩に置かれた。
重い。
だが、温かい。
「顔を上げろ」
彼の声は、いつも通り平坦だった。同情も、憐憫もない。
「それが真実だとしても、お前自身が変わるわけではない」
「変わるわよ!」
私は叫んだ。
「私は被害者だったのよ! ただの実験動物の生き残り!」
「だからどうした」
レオニスは私の肩を強く掴み、無理やり自分の方を向かせた。
アイスブルーの瞳が、私の動揺した目を射抜く。
「お前はジャムが好きで、寒がりで、口が悪く、そして誰よりも耳がいい『レティ』だ」
彼は断言した。
「親が誰であろうと、過去に何をされようと、今ここに立っているお前は、俺が知っている相棒だ。それ以外の何者でもない」
私は言葉を失った。
彼の目は揺らいでいない。
私の出生がどれほど悲惨でも、彼にとっての私の価値は、1セントも変わらないと言っているのだ。
「……不器用な慰めね」
私は鼻を啜った。
目頭が熱くなるのを、必死でこらえる。
「飴玉の一つでもくれれば、もっと感動したのに」
「あいにく在庫切れだ」
レオニスは手を離し、ファイルを閉じた。
バタン、という音が、過去への扉を閉ざす音のように響いた。
「これを持って帰るぞ。セレナに見せれば、奴らの悪事を暴く切り札になる」
「待って」
私はファイルを奪い返した。
「写真は貰うわ。……形見だから」
私は震える手で、セピア色の写真を剥がした。
糊が剥がれる音が、私の胸のつかえを取るような気がした。
両親の顔。
初めて見る、優しそうな笑顔。
私はそれを懐にしまい、コートの上から押さえた。
その時、頭上で爆発音が響いた。
ドォン!
天井の土埃がパラパラと落ちてくる。
「……来たか」
バルトロが天井を見上げた。
「防火シャッターが破られた音だ。奴ら、ここへ降りてくるぞ」
「時間切れだな」
レオニスが銃を抜いた。
「行くぞ。感傷に浸る時間は終わりだ。ここからは、生き残るための戦いだ」
私は涙を袖で拭い、頷いた。
「ええ。行きましょう、ボス」
私はもう、実験体のアナスタシアではない。
レオ&レティ商会の、レティだ。
そう自分に言い聞かせ、私は走り出した。




