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無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


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第100話 湿った百科事典

 水たまりを踏む音が、地下回廊の静寂を乱暴に叩き割っていた。

 天井の裂けた配管から、黒く濁った水がまだ滴り落ちている。床は浅い川のようになり、浮いた古書が船のように漂っていた。


 「ああ、私の本が……! 『西方建築史』の初版が!」

 バルトロ教授が濡れた本を拾い上げ、子供のように嘆いた。

 「乾かしても波打ってしまう。なんてことだ」


 「燃えるよりマシよ」

 私は教授の腕を引いて立たせた。

 「嘆くのは後にして。まだ掃除が終わってないわ」


 前方では、レオニスが一方的な「鎮圧」を行っていた。

 彼は銃を撃たなかった。

 発砲炎が揮発した油に引火するのを避けているのだ。

 代わりに彼が手にしているのは、床に落ちていた分厚いハードカバーの本だった。


 「ぐっ……!」

 焚書官の一人がナイフを構えて飛びかかる。

 レオニスは濡れた床を滑るようにステップを踏み、手にした本――『王立植物図鑑・全巻』のような厚みがある――の角を、男の顎に叩き込んだ。


 ゴッ。


 鈍い音がして、男の膝から力が抜ける。

 レオニスは追撃の手を緩めず、よろめいた男の鳩尾みぞおちに、今度は本の背表紙を突き入れた。

 男は呼吸を忘れ、水たまりの中に突っ伏した。


 「……知識は重いな」

 レオニスは汚れた本を棚に戻し、次の獲物を探した。

 「物理的にな」


 残りの敵は二人。

 彼らは松明を失い、水浸しになった仲間を見て怯んでいたが、それでも任務を放棄する様子はない。

 腰から警棒を抜き、ジリジリと間合いを詰めてくる。


 「レティ、教授を連れて下がれ」

 レオニスが指示する。

 「ここは狭い。巻き込まれるぞ」


 私たちは本棚の陰に退避した。

 私は濡れたコートの重みを感じながら、耳を澄ませた。

 視界の悪い薄暗い回廊で、敵の位置を把握するためだ。


 バシャ、バシャ。

 水音。

 そして、それとは違う、微かな摩擦音。


 シュッ。


 「レオ! 右!」

 私は叫んだ。

 「マッチよ! 隠し持ってる!」


 右側の男が、懐から防水ケースに入ったマッチを取り出し、擦った音だ。

 警棒はおとり

 彼らの目的は戦闘ではない。あくまで「本を燃やすこと」だ。


 男が火のついたマッチを、油の撒かれた棚へ放り投げようとする。


 レオニスには届かない距離だ。

 だが、彼の近くには、天井まで届く巨大な移動式梯子はしごがあった。

 車輪のついた、木製の梯子。


 レオニスは梯子の側面を蹴り飛ばした。

 

 ガシャァァン!


 梯子がレールの上を滑走する。

 猛烈な勢いでスライドした梯子の脚が、マッチを持った男の足首を刈り取った。


 「あぐっ!」

 男が転倒する。

 手から離れたマッチは、空中で弧を描き、水たまりの中に落ちてジュッと消えた。


 「ストライクだ」

 レオニスは残ったもう一人に向き直る。

 男は戦意を喪失し、後ずさりして逃げようとした。

 だが、濡れた床に足を取られ、無様に転んだ。


 レオニスは男の襟首を掴み、壁に押し付けた。

 「……誰の命令だ」

 低い声。

 「誰がこの図書館を焼く指示を出した」


 男は震えながら、視線を泳がせた。

 口を割る気はないらしい。

 レオニスは無言で、男の懐から予備のマッチ箱を抜き取り、目の前で握り潰した。


 「まあいい。どうせ『蛇』の尻尾だ」

 彼は男のこめかみに手刀を落とし、気絶させた。

 男がずるずると崩れ落ちる。


 静寂が戻った。

 天井からの水滴の音だけが、時計の秒針のように響いている。


 「……野蛮な」

 バルトロが、水浸しになった床を避けて歩み寄ってきた。

 「本を武器にするとは、学問への冒涜だぞ」

 「燃やされるよりはマシでしょう」

 レオニスは手を拭った。

 「それに、厚い表紙は盾にもなる。実用的な装丁だ」


 私は倒れた男たちのポケットを探った。

 これ以上の発火具を持っていないか確認するためだ。

 オイルライター、マッチ、導火線。

 すべて没収し、水の中に沈める。


 「片付いたわ」

 私は立ち上がった。

 「でも、これだけじゃないはずよ。上階からも焦げ臭い匂いが降りてきてる」

 「別働隊か」

 レオニスが天井を見上げる。

 「地上班が突入されたのかもしれん。急ぐぞ」


 私たちは回廊の奥へと進んだ。

 バルトロの案内によれば、この先に「禁書庫」へと続く隠しエレベーターがあるはずだ。


 道中、本棚から聞こえる声が変わってきた。

 入り口付近の「読んでくれ」という自己主張の強い声ではない。

 もっと低く、重く、そして警告を含んだ声。


 ――来るな。

 ――知る必要はない。

 ――蓋を開けるな。


 「……嫌な感じ」

 私は耳を塞ぎたくなった。

 「本たちが拒絶してる。『帰れ』って」

 「歓迎されるとは思っていない」

 レオニスは懐中電灯で足元を照らした。

 「真実というのは、大抵の場合、知りたくないことの塊だ」


 突き当たりに、鉄格子のエレベーターが現れた。

 北の工場で見たものよりは古いが、装飾が施された高級品だ。

 バルトロが操作盤のカバーを開け、複雑な手順でボタンを押した。

 ガコン、と音がして、扉が開く。


 「ここから先は、歴代の館長と、王族しか入れない領域だ」

 バルトロが言った。

 「空調はない。空気は澱んでいる。覚悟はいいか」


 私はポケットの飴缶を叩いた。

 中身は空っぽだ。

 「覚悟なら、北の雪山に埋めてきたわ。今はただ、腹が減ってるだけ」


 私たちはエレベーターに乗り込んだ。

 扉が閉まり、箱が降下を始める。

 水音も、焦げた臭いも遠ざかり、私たちは完全な沈黙の底へと沈んでいった。

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