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無愛想な旦那様は、私の『耳』を溺愛しているようです 〜機密情報を囁くだけで、甘いお菓子と安全なベッドが手に入りました〜  作者: 河合ゆうじ


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第10話 女医の警告

 眼鏡の男の指が止まった。

 彼が握るペン先が、紙の上で乾いた音を立てる。壺の中の筆記用染料が尽きたのだ。

 彼は震える手で予備の瓶に手を伸ばそうとして、机の角に肘をぶつけた。

 ガタン、と瓶が倒れる。青い染料が床に広がり、コンクリートの細かな亀裂に吸い込まれていった。


 「……もう、限界です」

 男は床に広がった青いシミを見つめたまま、掠れた声で言った。

 「私の手が動きません。それに、紙も足りない」


 私は山積みになった書き損じの台帳を見た。

 五十人。

 それが、私たちが二時間で「名前」を返した死者の数だ。地下室の冷気の中で、三百の袋のうち六分の一が処理されたことになる。


 「そうね。私も限界」

 私は丸椅子の上でぐったりと背中を丸めた。

 耳鳴りが止まない。

 五十人の人生の最期を連続で再生したせいで、脳の処理領域が熱を持っている。視界の端がチカチカと明滅していた。


 レオニスが懐中時計を確認する。

 「効率は悪くないが、持久力に難ありか」

 彼は倒れた瓶を拾い上げ、眼鏡の男の机に戻した。

 「今日のところは引き上げる。残りの袋には手を触れるな。明日また来る」


 男は何度も頷いた。私を見る目は、すでに化け物を見る目つきに変わっている。

 私は椅子から立ち上がろうとして、膝の力が抜けるのを感じた。

 床が急激に近づいてくる。


 「っと」

 顔面を強打する寸前、襟首を背後から掴まれた。

 首が絞まる苦しさに、意識が少しだけ鮮明になる。


 「気絶するなら場所を選べ」

 レオニスが私を吊り下げたまま言った。

 「ここで倒れれば、検死リストに一行追加されるだけだ」

 「……手荒ね。お姫様抱っことは言わないけど、せめて肩くらい貸して」

 「軍服が汚れる」


 彼はそう言いながらも、私の脇に手を差し込み、強引に立たせた。

 彼の腕が私の体重を支える。硬い筋肉の感触が伝わってくる。


 *


 地下室を出て、長い螺旋階段を登る。

 一段登るごとに、空気が変わっていくのがわかった。

 防腐剤とカビの冷たい空気から、紙と埃、そして人間の体温が混じり合った生ぬるい空気へ。

 

 鉄の扉を開け、一階の廊下に出る。

 喧騒が戻ってきた。

 職員たちの早口な会話、タイプライターの打鍵音、靴底が床を叩く音。

 地下の「声」よりも、生者の「音」のほうが、今の私には暴力的に響く。


 「うぇ……」

 私は口元を押さえた。

 「車酔いみたい」

 「脳が情報を拾いすぎているんだ。遮断しろ」

 レオニスは歩調を緩めず、私を廊下の奥へと誘導する。


 すれ違う職員たちが、レオニスに敬礼し、そして私のボロボロの姿を見て眉をひそめる。

 「あの子供は?」

 「地下から連れてきたぞ」

 「まさか、生き返った死体か?」

 

 ひそひそ話が聞こえるが、訂正して回る気力はない。


 レオニスはある一室の前で足を止めた。

 『医務室』というプレートが掛かっている。

 ノックもせずにドアを開ける。


 中は紫煙で白く霞んでいた。

 薬品の匂いと、安いたばこの匂いが混ざり合っている。

 診察机に足を乗せ、気だるげに天井を仰いでいる白衣の女が一人。

 短い金髪を乱雑にかき上げ、口元には細いシガレットがくわえられていた。


 「診療時間は終わりだよ。腹痛なら正露丸、頭痛なら阿片チンキ、それ以外なら教会へ行きな」

 女は私のほうを見ずに言った。


 「糖分だ」

 レオニスが短く告げる。

 「あと、過度な聴取による消耗のケアを頼む」


 女が片目を開けた。

 レオニスの顔を認めると、ゆっくりと足を机から下ろし、シガレットを灰皿に押し付けた。

 「なんだ、将軍か。また厄介なのを拾ってきたね」


 彼女は立ち上がり、私の前に来た。

 私より頭一つ分背が高い。目の下に濃いくまがあるが、瞳は鋭い緑色をしている。

 彼女は私の顔を覗き込み、瞼を指で押し上げた。


 「瞳孔が開いてる。顔色は死体の一歩手前。脱水症状と低血糖だね」

 彼女はレオニスを睨んだ。

 「こき使ったのかい?」

 「能力のテストをしただけだ」

 「テストで壊したら世話ないよ」


 女は棚からガラス瓶を取り出し、コップに白い粉末を山盛りにした。

 水を注ぎ、スプーンで乱暴にかき混ぜる。

 透明だった水が、白く濁っていく。

 

 「飲みな。特濃のブドウ糖水だ。味は保証しない」

 コップを突き出された。

 私は両手で受け取り、一気に流し込む。

 甘いというより、喉が焼けるような刺激があった。

 だが、胃に落ちた瞬間、指先の震えが止まるのを感じた。脳の奥の熱が引いていく。


 「……ふぅ。生き返った」

 私はコップを机に置いた。

 「ありがとう、先生。名前は?」

 「リサだ。この掃き溜めの管理医をやっている」


 リサは私の腕を取り、脈を測り始めた。

 その手つきは、口調とは裏腹に丁寧で、温かかった。

 「あんた、名前は」

 「レティ。新入りの職員よ」

 「職員? このナリで?」

 リサは私の大きなコートと、煤けた顔を見て鼻を鳴らした。

 「どうせレオニスが無理やり連れてきたんだろう。この男は、使えるものは石ころでも使うからね」


 「石ころじゃなくて、高性能な集音マイクよ」

 私は訂正した。

 「それに、条件は悪くないわ。衣食住付きで、時々チョコレートが出る」


 「チョコで釣られたのか。安いもんだ」

 リサは呆れたように笑い、聴診器を私の胸に当てた。

 冷たい金属の円盤が肌に触れる。


 「心音は少し速い。不整脈はないが、慢性的な疲労があるね」

 彼女は聴診器を外し、レオニスに向き直った。

 「将軍、忠告しておくよ。この子の『耳』の話は噂で聞いている。だが、脳への負荷は未知数だ。使い潰せば、二度と元には戻らないかもしれない」


 「代わりはいない」

 レオニスは表情を変えずに言った。

 「だからこそ、お前に管理を任せている」


 「管理ねぇ。機械のメンテナンスじゃないんだよ」

 リサは新しいシガレットを取り出し、マッチを擦った。

 「ま、いいさ。私の仕事は、あんたが壊しかけた人間を修理することだ。レティ、明日からは仕事の前にここに寄りな。ビタミン剤を出してやる」


 「苦いのは嫌いよ」

 「甘くしてやるさ」


 リサは煙を吐き出し、私の頭をくしゃくしゃと撫でた。

 たばこの匂いがしたが、それは不思議と嫌な匂いではなかった。

 大人の、守ってくれる人の匂いがした。


 「さて、治療は終わりだ」

 レオニスが私の襟首を再び掴んだ。

 「行くぞ。寮の手配が済んでいる」

 

 「ちょっと、猫みたいに扱わないで」

 私は抗議したが、彼は手を離さない。

 「歩くのが遅い。運んだほうが早い」


 リサが背後で手を振った。

 「大事にしなよ、将軍。その子は、あんたの乾いた心臓よりずっと繊細なんだから」


 レオニスは答えず、私を引きずって廊下へ出た。

 ブドウ糖の効果か、それともリサの手の温かさか。

 廊下の喧騒が、先ほどより少しだけ遠くに感じられた。

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