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第9章_灰雪の夜想

 黒と白が入り混じる帯を抜けたころ、水平線のふちに淡い金が差した。小舟は波の節を読み、拍の余白を守りながら南の入江へ滑り込む。岩肌は濡れた墨のように鈍く光り、岸には黒い砂がうすく敷かれていた。風は低く唸り、鼻腔の奥に古い鉄の味を置いていく。

 「上がる」

  海人が舳先を寄せ、ディランが縄を投げて岩角へ掛けた。舟が止まると、タイは最初に身を翻して岸へ飛び、着地の衝撃で砂がさっ、と散った。こはるは香草布を懐にしまい、慎重に舷側を越える。足裏に伝わる砂は、白海の雪と違い、乾ききらず、冷たさの底にざらつきを隠している。

  入江の奥は崩れた岩棚が覆いかぶさり、風よけにちょうどいい窪地になっていた。ディランが素早く見取り、火を起こす位置と見張りの立ち位置を指で示す。

 「風下に寝床。火は小さく、影を漏らすな。匂いが流れやすい」

  海人は無言で頷き、濡れの少ない流木を選んで並べ、火打金を鳴らした。こはるは樹脂粉を薄く散らし、少量の油を擦り込む。火はすぐに上がらず、くすんだ橙がほぐれるまで、三人は息を合わせて空気を送った。やがて、拳ほどの炎が静かに灯り、窪地に温度の輪をつくる。

  ダルセは竪琴を抱えたまま腰をおろし、弦に手を置いただけで音を出さない。音が闇を呼ぶ夜もある――彼はそう学んでいるのだろう。かわりに、四拍の空白を軽く指先で刻み、呼吸を揃える。拍が落ち着くにつれて、こはるの胸の欠片は、白と紅の脈を静かに重ねた。

  上空から、最初の灰雪が落ちてきた。白い片に、鉛の粉をほんの針先だけ混ぜたような色が混じる。指に乗せると音もなく溶け、嗅ぎ慣れない潮の匂いがひと呼吸だけ遅れて届いた。

 「灰の落ち方が浅い。内陸の渦は遠い」タイが空を見上げ、短く言う。

 「なら、今夜はここで休む」ディランが見張りの順を決め、海と陸、二手の視線で輪を組んだ。

  火の上で湯を沸かすと、香草の匂いが灰の匂いと混ざり、ぎりぎりのところで均衡を保った。こはるは海人の手の包帯をほどき、塗薬を薄く延ばす。皮膚の赤みはまだ残るが、指はしっかり曲がった。

 「痛んだら、言って」

 「言う。……今は、温かい」

  海人は湯気を吸い込み、片手で器を包む。火に照らされた横顔には、眠気と緊張の両方が薄く乗っている。

  砂の向こう、波の黒が時おり肩を持ち上げては、すぐに崩れた。見えないものが、こちらの拍を量るように近づき、また引く。こはるは火から半歩離れ、海のほうを向いた。胸元の欠片が、波の合間にわずかに早まる。

 (怖い。でも、怖さは私だけのものじゃない。波も怖い。砂も怖い。だから、寄せては返す)

  ダルセが小さく頷き、声にならないほどの低い音で弦を撫でた。音とも呼べない呼吸のような響きが、窪地の縁を丸くする。

 「夜は、名前を減らす。名前が減るほど、人は古い声で話す。……それでも拍があれば、戻る道は見失わない」

  彼の言葉に続いて、海人が静かに囁いた。

 「戻るために、進む」

  こはるは火の温度を手のひらで受け、頷いた。

  ほどなく、タイが立ち上がった。

 「見回る。匂いの筋を確かめる」

  彼は影の中へ溶け、足音を砂に吸わせて消えた。ディランも反対側へ回り、岩棚の上から風の筋を読む。二人の背は、それぞれ違う現実に向けてまっすぐだった。

  火の輪が小さくなったころ、海人がふと口を開く。

 「こはる。もし明日、黒海の縁で何かに呼ばれても、答えるのは自分の言葉であってくれ」

 「うん」

 「君が“乙女”に似ていようがいまいが、俺は“こはる”を連れて帰る。……それだけを決めて来た」

  言い切ったあと、海人は照れ隠しのように器を口へ運ぶ。こはるは笑い、火の端に薬草をひとつ落として香りを整えた。胸の欠片が、返事のように一拍だけ強く脈を打つ。

  見張りの交代で、タイが戻った。肩に灰雪をわずかに乗せたまま、彼は火の輪に入らず立ち止まる。

 「この先で、波が逆立つ音がする。……昔、似た音を聞いた」

  彼の声は低く、砂に吸い込まれていく。こはるは問いを喉でほどき、飲み込んだ。まだ、彼が開けない蓋がある。蓋は本人の手で開くものだ。

  灰雪は深くならず、砂に淡い霜のように模様を描いた。やがて雲が裂け、星がいくつも降りてきた。闇は厚いのに、目は慣れる。火の温かさは小さいのに、体は眠りを思い出す。

  こはるは火から離れた場所に毛布を敷き、横たわった。耳の奥で、欠片の拍が、波の節から半歩ずれた位置で鳴っている。ずれは怖さではなく、余白だと、いまは言える。

 (明日、海へ出る。怖れたまま、拍を守る。私の言葉で答える)

  そのときだった。入江の外、二重波の間で空気がくぼみ、砂がほこりのように舞った。音は小さい。けれど、火の輪の誰もが同時に顔を上げるには足る。

 「伏せろ」ディランの指が二度、空を切った。

  海人は火を裾で覆い、こはるは身を沈める。タイが一歩で前へ出て、闇へ視線を投げた。

  波の陰が、ひとつ、立った。人の背丈ほどの高さ、肩から先が細く尖った影。足はない。砂に触れず、海の紐に吊られて揺れる。

  ダルセが弦に指を置き、音を殺す。こはるは息を浅くし、胸元へ手を当てた。欠片が、とくん、と深く沈む。

 「拍は崩すな」海人が囁く。「向こうは、息の乱れを食う」

  影がこちらを向いた。向く、という言葉が似合わない。顔にあたる場所は空洞で、海霧がその輪郭を満たしては崩れる。

  最初の一体が窪地へ滑り込む瞬間、タイが砂を蹴った。剣の腹で地を叩き、乾いた音を二度、規則正しく刻む。影の動きが一瞬たじろいだ。

 「二拍空けろ」タイの声が短く落ちる。

  ディランは影に正対し、半歩引いた位置で刃を傾ける。海人は火の端を守り、こはるは薬包を指先で割った。白い粉が風に乗って、影の空洞へ滑り込む。

  影の輪郭が波の内側でくしゃりと歪み、低い音もなく崩れた。砂の上には、濡れた跡だけが残る。

  すぐに、二体目が現れた。今度は高く跳ねず、地を這う。ディランが前に出ると見せて、足を止める。影がその空白に滑り込み、タイの剣が横から打った。

  闇に、わずかな風切り音。影は裂けず、ほどけて消えた。

  静寂が戻る。火は消えていない。灰雪は星の光の下で、もう灰ではなく、うっすら白に見える。

 「今のは……黒海の、何?」こはるが息を整えながら問う。

  タイは答えず、海を見た。代わりに、ダルセが低く言う。

 「名前は、明日にしよう。今夜の言葉は、拍だけで足りる」

  ディランが頷き、見張りの輪を締め直す。「交代を詰める。あと二度、潮が返る音が来る」

  こはるは毛布に戻り、横向きに丸くなった。火の温度が背中を通って胸へ流れ、欠片の拍は、さっきより静かに整う。海人が半歩の距離で座り、彼方を見ているのがわかる。

  眠りは浅いが、奪われない。目を閉じるたび、波の節と拍の余白が近づき、灰雪はただの冷たい点に戻った。

  夜が深みを抜け、星が青く薄れていく。東のふちに淡い光が芽吹く少し前、ディランの短い合図が落ちた。

 「起きろ。潮が変わる。出るぞ」

  こはるは毛布を払い、立ち上がる。海は黒さを残したまま、波の筋だけが白く縁取られている。怖れは残った。けれど、その上に拍が乗った。

 「歩幅を合わせよう」

  ダルセが四拍を指先で空へ描く。海人が舟の縄を解き、タイが舳先を押し出す。ディランが最後に岩角を蹴り、舟は闇の縁から朝の前へ滑った。

  灰雪はもう降らない。砂に残った薄い輪郭を、波が一つ、二つ、そっと消していく。

 明け六つ。小舟は再び沖へ出た。海はなお墨色を保ったまま、白い筋だけが縁を縫う。東の空で金がほどけ、雲の内側をゆっくり温めていく。櫂のきしみは控えめで、船底に当たる波は浅く軽い。

  こはるは香草布を首元へ下げ、両手で舷側を押さえた。胸の欠片は一定の速さで拍を打つが、ときおり遠い鼓動に引かれるように、半拍だけ先へ走る。

 「急がなくていい」

  海人が櫂をゆるめ、拍を一つ、意図的に長く空ける。舟の進みがわずかに緩み、欠片の速さが戻る。

 「ありがとう」

 「こちらこそ。拍を合わせてくれて助かる」

  岬から半日の距離で、海は突然、深く落ち込んだ。色の境目ではない。匂いの層が変わったのだ。鼻腔の奥にわずかな甘みが混ざり、舌へ古い金属の粉が乗る。

 「ここから黒海の表層」タイが短く告げる。「沿岸の地形が複雑だ。着岸できる窪みは……あれだ」

  彼が顎で示した先に、切り立った崖の間が裂け目のように開いていた。波が二度呼吸してから吸い込まれ、静かに吐き出す。

  小舟が裂け目へ入ると、外界の風は遮られ、音が一段落ちた。崖の壁には渦を刻んだ古い浮き彫りが続く。指でなぞれば指先に浅い凹凸が触れ、苔が薄い光を返す。

 「祠の跡……?」

  こはるが呟くと、ディランは石の縁を調べ、崩落の新しさを見極めた。

 「人の手は入っていない。潮と風だけだ」

  ダルセは崖の奥を見やり、声を低く落とす。「音が吸われる。歌は短く」

  舳先を石棚に寄せ、全員が岸に上がった。砂の代わりに黒い小石が敷き詰められ、足の裏で静かに鳴る。こはるは膝を折り、小石を一つ拾った。硬質なのに、握るとひどく冷たい。胸の欠片が、それに呼応するように一拍だけ深く沈む。

 「ここ……欠片が嫌がってる」

 「無理はするな」海人が肩に手を置く。「十分休んでから、奥を見る」

  石棚の陰で小さな火を起こすと、黒い灰は落ちず、煙はすぐに上へ抜けた。暖かさが戻るにつれ、指先の震えが収まり、匂いの層が薄くなる。

  タイは崖の壁に手をつき、目を閉じた。掌で岩の温度を測るように、わずかに呼吸を深くする。

 「ここで、俺は――」と、そこで言葉が切れた。

  こはるは顔を上げたが、呼び止める代わりに、火へ小枝を一本くべた。ぱち、と小さな音が跳ねる。ダルセがその音と同じ高さで、弦をそっと弾いた。

  休息ののち、最奥の窪みへ進む。道は細く、足場は滑る。ディランが先頭でピトンの代わりに楔を打ち、縄を渡す。海人が二番手でこはるを誘導し、タイは殿で視界の外を監視する。

  窪みの底には、水面とほとんど高さの変わらない石の台があった。台の中央に、拳ほどの円い穴。

 「供物台だ」ディランが縄を張り直しながら言う。「水位が上がると満たされる」

  こはるは胸の欠片を片方だけ取り出し、掌にのせた。脈は穏やかだが、穴の上でわずかに速くなる。

 「落とすのは違う」

  海人の声がすぐに背で受け止められる。

 「わかってる。ただ、確かめたいの」

  こはるは掌を穴の上にかざし、息を殺した。穴の底から、ひゅう、と吸うような冷気が立ち上がり、欠片の拍を乱そうとする。彼女は意図的に呼吸を緩め、ダルセの四拍を思い出して半拍の余白を作った。

  乱れは収まり、拍は戻る。

 「いける」

  こはるは欠片を胸に戻し、台の縁へ指を這わせた。薄く刻まれた文字の跡――擦れて読めないが、渦と潮を示す符の並びだけが辛うじて残っている。

  戻り道で海が鳴った。裂け目の外から、低く長い音が押し寄せる。風ではない。水が遠くで形を変えるときの、腹の底に届く鳴り。

 「潮が起きる。ここは狭い。揉まれる前に出るぞ」ディランの合図で、一行は足早に崖を戻った。

  外の帯へ再び出たとき、空はもう昼の色だった。灰は降っていない。小舟は波の節へ素直に乗り、舳先は自然に南東へ向く。

 「黒海の渦は東へ移る」タイが視線で追い、短く続ける。「沿岸に廃村がある。昔は漂流者を匿うための集落だった。そこに、地図にない祠があるはずだ」

  海人が頷く。「寄ろう。水が荒れ切る前に」

  黒砂の浜に、骨組みだけ残った家々が点々と並んだ。屋根は落ち、壁も半分は抜けているのに、戸口だけが不自然に立っている。風が戸口の穴を抜けるたび、低く哀しげな管楽のような音が鳴った。

  こはるは家々の間を抜け、中央の広場へ出た。広場の真ん中に、背の低い石標が一本。表面の渦は擦れ、それでもなお、海に向かって開いている。

  胸の欠片が、ここでもう一度、深く沈む。だが、先ほどのような拒絶ではない。吸い込んだ息をそっと吐き出すと、拍は細く頷いた。

 「怖くない……いや、怖いけど、進める」

 「それでいい」海人が微笑む。「怖くないときは、だいたい嘘だからな」

  広場の外れに、階段の半分だけ残った地下室の入り口があった。下から冷気が上がり、わずかに潮の匂いが濃くなる。ディランが先に降り、段差の欠けを指示する。

  地下室の奥壁には、手の幅ほどの隙間があり、その先に海の光がわずかにちらついていた。裂け目の向こうは海と繋がっている。

 「ここから、祠だ」タイの声が少しだけ掠れた。「……昔、ここで名前を呼ばれたことがある」

  こはるは彼の横顔を見た。問いは持ち越した。ただ、拍は深く静かになっている。

  外へ出ると、黒い雲が遠い沖で背丈を増していた。潮の鳴りはわずかに高く、午後の短い晴れ間が終わりかけている。

 「今日は戻る。準備を整えてから、明日、地下から祠へ入る」ディランの判断は早い。

 「同意だ」海人が舟へ駆け、積み荷の重心を改める。「濡れが増えた。樽を片側へ寄せすぎない」

  ダルセは短い節を鳴らし、人影のない家々へ向けて「帰る灯の歌」をひとふし置いた。音は風へ溶け、戸口の穴で柔らかく返された。

  戻りの波は行きより重かった。だが拍は崩れない。舟は黒と白の境を斜めに切り、夕刻の前に白海の灯へ届いた。港に立つ人々が手を振り、灯台の火が昼の残光を飲み込みながら強さを増す。

  湯屋に戻ると、老女が黙って湯を差し出した。こはるは両手で椀を包み、熱の重みを掌に受ける。欠片の拍は、今日いちにちの揺れを数え終えて、静かに落ち着いた。

 「明日、祠へ入る」

  海人の言葉に、全員がうなずいた。タイは火の縁で目を閉じ、ディランは糸のような眠りを短くつかまえ、ダルセは四拍を一度、空へ描いて消した。

  窓の外で、夜が白い。灰は降っていない。こはるは毛布の中で横向きになり、胸の前で両手を重ねた。(怖れは連れて行く。拍も連れて行く。明日、扉を開けるのは――私)

  息を一つ、深く。暗闇はやわらいで、眠りは音もなく訪れた。


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