第8章_溶ける境界線
白海の町に短い晴れ間が訪れた日の夕刻、こはるたちは氷宮の外縁に連なる高台へ登った。凍りついた階段は足裏に硬い音を返し、手すり代わりの氷壁は陽を浴びて薄く滴をこぼしている。風は冷たいが、先ほどまでの刺すような鋭さは和らぎ、頬を撫でるたびに息が深く吸える。
高台の端に出ると、白海が一望できた。氷床の裂け目から溶けた水が細い川となって走り、遠くの入江で薄い蒸気になって立ちのぼる。雲の切れ間から差す低い陽光が氷壁の内面を染め、青から薔薇色、さらに淡い金色へと刻々と変えていく。
「……音が違う」こはるは耳を澄ませた。
耳の底で、掌に忍ばせた二つの欠片が同じ拍でとくん、と脈を打つ。氷宮の奥で固く閉ざされていた響きが、いまは雪解けの水音と重なってほどけている。
海人が肩を並べ、氷床の境目を指した。「境が動く。固い線だったのが、波形になってきた。氷と水の話し合いが始まってる」
ディランは少し下がった位置で周囲を見張り、氷の陰から風の筋を読み取っている。タイは崖の角に立ち、視線を黒海の方角へ投げ、目に見えない匂いを測るように鼻先をわずかに動かした。ダルセは竪琴を背中から前へ持ち替え、弦に手を添えたまま、まだ音は出さない。
氷壁の表面で、光が虹に割れて揺れた。滴が連なって落ち、足元の細い溝をちろちろと走る。
「溶けていくんだね、境目が」こはるが呟く。
「境は要るときには固く、越えるときには柔らかい」ダルセがようやく一音、弦を鳴らした。「いまは柔らかさの番だ」
こはるは少しだけ息を整え、海人の手の包帯に目を落とした。白い布の上に、作業の跡が薄く汚れている。
「痛む?」
「動かさなければ平気。動かすから、少し痛い」海人は冗談めかし、指を一本ずつ曲げてみせる。
こはるは腰の薬包を探り、もう一度、薄い薬油を取り出して指先で温めた。
「夜は冷える。巻き直そう。……じっとして」
海人は素直に手を差し出した。包帯をほどく間、彼はあえて視線を外して遠い氷原を見た。「ここまで来られたのは、君が急ぐところと止まるところを間違えなかったからだ」
「違うよ。進むために止まるって、あなたがいつも言うから」
言葉を交わすあいだ、指の腹に触れる熱が、こはるの胸の内の硬さをひとつ、またひとつ溶かしていく。
高台の階段を、雪靴の小さな音が上ってきた。振り向くと、昼に別れた灯台の番人の若い助手が駆けてくる。肩で息をしながら、封蝋の付いた細い筒を差し出した。
「町へ伝言が届きました。海路の一部再開と、黒い灰への対処法が掲示されたって。あと……」
少年は照れくさそうに鼻を掻き、「岬の火が戻って、皆が桟橋に花を置いた」と続けた。
ダルセが短い和音を奏でる。「花の数だけ、帰り道が増える」
海人は筒を開き、紙片を抜く。潮位の観測記録、風向きの推移、沿岸の安全帯。淡々と読んだのち、紙をたたんでこはるへ渡した。「次へ行ける。準備が整いつつある」
そのとき、風向きが変わり、高台の背後から冷気が這い上がった。空の端に、薄灰の幕が一枚、遠慮がちに現れる。
「灰雪だ」タイが言った。
空から舞い降りた雪片に、微かな黒が混じる。掌に受ければすぐに白に溶けるほどの淡さだが、匂いは確かに違う。海の底で長く眠った藻のような、金属に潮が噛みついたあとのような、乾いた匂い。
ディランは即座に位置を変え、崖面に背を預けて風下を開けた。「高台の滞在時間を短縮。視界は保てる。吸い込むな」
ダルセは弦を低く撫で、四拍の間を刻む。呼吸の速度が自然にそろい、胸の上下が灰雪の緊張を超えて整っていく。
こはるは欠片の脈に指を当てた。白と紅――二つの拍が、灰雪の落ちる間隔とは別の律で、小さく、確かに生きている。
「黒海に向かう前に、ここでやりたいことがある」
海人が短く促す。「言って」
「町の外れにある避難所の屋根、雪庇が危ない。さっき通った時、たわみが出てた。今夜の灰雪で重みが増すと潰れるかもしれない」
ディランは頷き、即座に段取りを重ねる。「道具は湯屋の裏にあった。梯子二、縄三巻、樽三。人手は十あれば足りる。日没までに終える」
タイがきびすを返し、「俺が先行して道を作る」と言った。
海人は地図の余白に素早く印を付け、「終わりしだい港へ。黒海行きの小舟を一艘、夜明けに出せるように話を通す」
ダルセは竪琴を背へ戻し、肩を軽く回す。「俺は声を集める」
夕刻、町外れの斜面に人の列ができた。湯屋の老女、番屋の若者、灯台の助手、商人、子を背負った母親――それぞれが梯子を支え、縄を引き、樽に雪を落としては転がす。
こはるは屋根の上で雪の切り目を指示し、海人が下で受ける。タイは雪庇の端に刃を入れ、ディランが落雪の軌道を見て合図を送る。
ダルセは一段高い塀の上で短い節を繰り返し、人々の手の動きと拍を揃えた。
「ひと息、ひと掬い、ひと肩。息を合わせれば、屋根は軽い」
声と拍が重なるたび、灰雪の重さが人の手の側へ移っていくように感じられる。
最後の雪庇が地響きを立てて滑り落ち、屋根材が軽く息を吐いた。老女が掌をこはるの手に重ねる。
「助かったよ。夜のうちに潰れたら、子どもが泣くところだった」
こはるは首を振り、隣に立つ仲間たちを見た。「皆でやったから、間に合った」
海人が空を仰いだ。「風が変わる。灰は薄くなる」
見上げれば、灰混じりの雪は細り、雲の切れ目から星の最初の粒が点った。
作業が終わるころ、港の方角から角笛が一度、低く鳴った。伝令の合図だ。番屋の若者が駆けてきて、額の汗を袖で拭いながら叫ぶ。
「小舟の手配、明けの潮に合わせて用意できるって! 黒海への渡り、明日なら波が落ちるそうだ!」
人々の間にざわめきが走り、同時に静けさが戻る。目に宿る決意の色は、午後に見た氷壁の虹に似て、ひとつでは言い当てられない混ざり合いだった。
湯屋へ戻る道すがら、こはるは桟橋の根本で立ち止まり、波打ち際を見下ろした。白い波と黒い筋が交互に寄せ、引き、互いの輪郭を溶かす。
「境目、やっぱり溶けてる」
「溶けるから、渡れる」海人が並び、指先で欄干を叩いて四拍を作った。
こはるはその拍に合わせて頷く。「渡ろう。怖れたままで」
肩越しに、タイが短く顎を引き、ディランが視線で道順を確認し、ダルセが弦の上で静かに指を置いた。拍はまだ鳴らない。明日の一歩のために、音は胸の内側で温められたまま。
夜の気配が白海の町に降りてきた。屋根の雪庇を落とし切った広場には、樽を伏せた即席の卓が並び、湯屋の老女が鍋を据えた。湯気には香草と魚介の匂いが混じり、冷えた肺の奥まで温かさが満ちていく。
こはるは木椀を受け取り、隣に立つ海人の指先をそっと見る。包帯は乾き、結び目はほどけていない。
「もう一度だけ確かめる。痛んだら、すぐ言って」
「言うよ。……でも、うまい匂いは痛みより強い」
海人は冗談めかして椀を掲げ、熱い汁をすする。喉を通る音に合わせて、こはるの胸の欠片が一拍だけ強く脈を打つ。
広場の端で、ディランが番屋の若者たちに短い言葉で巡回の交代を伝え、地図に印を重ねていく。タイは倉庫の前で縄の太さと金具の磨耗を確かめ、小舟の櫂を影の角度で並べ替えた。ダルセは子どもたちの輪の真ん中で、舌足らずな歌い回しを模倣して笑いを起こし、すぐに四拍の拍手へ導く。拍はやがて、港に近い桟橋の板まで届いた。
食後、港の灯をもう一度点検するため、こはると海人は桟橋へ降りた。潮位は落ち着き、板の隙間から覗く水面は浅い波紋を繰り返している。
「明けの潮に乗れれば、黒海の沿岸へ出られる。戻りの潮は夕刻。寄港できる入り江を二つ、番人が印してくれた」
海人が板札を指で叩き、書き記された印を示す。
「ありがとう。……怖いのは変わらないけど、道が見えると足が前に出る」
「道は見えるだけじゃだめだ。歩幅が合ってこそ、道になる」
海人は欄干を軽く打ち、四拍を作る。こはるも指先で同じ拍を刻み、ふと笑った。
波間に、沈む星が揺れる。こはるは欠片を胸に寄せ、声を落とした。
「海人。もし、私が“聖海の乙女”に似ていることで、また誰かを混乱させたら……そのときは」
「そのときは、その場で名乗ればいい。君は“こはる”だ。俺は“海人”。それで足りる」
言い切る声は大きくないのに、潮風より遠くへ届く気がした。
戻る途中、湯屋の軒先に小さな人影があった。灯台の助手の少年が、両手で固く握った包みを差し出す。
「これ、母さんが。黒い灰が落ちてきたら、鼻と口に当てる布だって。香草を挟んである」
こはるは受け取り、少年の手を包むように握った。「必ず返す。ありがとう」
少年はぶんぶんと首を振り、「返さなくていい。歌、また聞かせて」と言って走り去った。
夜半、湯屋の灯は落ち、指で触れれば壊れそうな静けさが漂った。こはるは床に横たわりながら、眠りのふちで黒海を思い描いた。見たことのない暗い水、聞いたことのある低い唸り、そして小舟の舷側を叩く見えない手。胸の欠片は怯えをなだめるように、一定の拍を守っている。
(怖い。でも――)
彼女はゆっくりと息を吸い、吐いた。拍に合わせて、眠りが波のように寄ってきた。
明け方前、見張りの交代に合わせて全員が起きた。空はまだ藍に沈み、雪面がわずかに青い。湯屋の老女が手早く握り飯を渡し、樽の湯で指先を温めさせる。
「戻ったらまたおいで。温かい湯は逃げないよ」
ダルセが竪琴を背に回し、「湯の歌は忘れない」と微笑んだ。
港では、番屋の若者たちが小舟を岸につけ、櫂の締め具を確かめている。タイは舳先から舷側まで目を走らせ、釘の頭を押さえて緩みを探る。ディランは積み荷の重心を調整し、片側に寄らないよう樽を組み替えた。
「行くぞ」
海人の合図で、こはるは舷側をまたぎ、船底に腰を落とした。木が小さく鳴り、舟が水を受ける。
小舟が港を離れると、白海の町の灯が、背後で点の群れになった。海霧は薄く、進路は灯台の火が指してくれる。櫂が水をとらえるたび、舟は静かに前へ滑った。
やがて、空と海の境が灰に溶け始めるころ、匂いが変わった。ひやりとした鉄の味、湿った草の陰に潜む古い塩の苦さ。
「黒海の匂い」タイが短く告げる。
波が黒みを帯び、表面に細い筋が走った。太陽の気配はまだ遠い。こはるは膝に両手を置き、欠片の拍に耳を澄ます。白と紅の二つの音が、微かに速まった。
「吸い込むな。口布を」ディランが手早く布を渡す。こはるは少年から受け取った香草布を口元に当て、息を浅く整えた。海人は前を見据えたまま、包帯の結びを一度だけ確かめる。
黒い筋の一つが、ふいに蛇のように持ち上がった。水面から肩までの高さ。音はない。
「来る!」海人が櫂を立て、舳先をわずかに斜めへ向ける。タイが身を沈め、舷側を片手で叩いた。
黒い筋は、舟の直前でふっと解け、波紋だけを残して沈む。
「誘ったな」タイが舷側に耳をつけ、海の奥を覗くように目を細める。「波の節の間で待ってる。こちらの拍を計っている」
ダルセが静かに四拍を数え、五つ目をわざと長く空けた。舟の揺れが、その空白に合わせて緩む。
「合わせるのではなく、空ける。向こうの拍に踏み込まない」
こはるは頷き、欠片の鼓動にわずかな余白を作るように、呼吸の間を調整した。
黒い筋は、いくつも現れては、遠巻きに解けてゆく。舟はやがて、わずかな入り江の影に入った。岩肌は濡れた墨のように暗く、苔が低く光る。
「一度寄せる。風待ちだ」海人が舳先を寄せ、ディランが縄を投げて岩角に掛けた。舟がぴたりと止まり、船底を叩く波が細かく変わる。
こはるは立ち上がり、岩棚の際にしゃがんだ。水面に指を近づけると、冷たさの下から、ごく小さな泡の連なりが立ち上がる。
「聞こえる?」
耳を澄ますと、泡は言葉の輪郭を持たない囁きに似て、欠片と同じ高さで細かく揺れていた。
「……海は生きてる。怖いのも、生きてる証拠なんだ」
こはるが呟くと、ダルセが目を伏せ、短く弦を鳴らした。
入り江の奥には、崩れた祠の残骸があった。波に削られて文字は失われているが、基壇の石にだけ、かすかに渦の文様が残っている。
タイが石に手を置き、低く言った。「昔、ここで立った気がする」
こはるは顔を上げ、彼の横顔を見た。問いは飲み込んだ。今は、拍を乱さない。
風向きが変わる。海人が縄を外し、舳先を再び沖へ向けた。ディランが短く「出る」と告げ、ダルセが四拍を刻む。
こはるは香草布を押さえ、胸の欠片に手を添えた。(怖れごと連れて行く。境目が溶けるなら、私も自分の中の境をほどいていく)
小舟は入り江を離れ、黒と白の波が混ざる帯へ滑り出た。水平線はまだ藍に沈み、東のふちでかすかな金が芽吹いている。拍はそろい、舟は静かに、しかし確かに、前へ進んだ。




