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第7章_銀の旋律

 白海の曇天がようやく裂け、淡い陽が雪面にひと筋の川を描いた午後、こはるたちは氷丘の陰に身を寄せる小さな湯屋へたどり着いた。外壁は氷を切り出して積み上げ、隙間を樹脂でふさいだ簡素な造りだが、煙突から立つ白い湯気が寒気に溶けて、柔らかな匂いを漂わせている。旅路で凍えきった指先が、その匂いだけでほどけていく気がした。

 「休もう。氷宮の帰りだ、体を温めないと足がつる」海人が扉を押さえ、こはるを先に入れる。

  店の中は暖かく、床には毛皮が敷かれ、湯の鉢からは薄荷と松の樹脂を混ぜた蒸気が立っている。帳場の老女が目を細めた。

 「遠来のお客かい。二つの湯と小上がりが空いてるよ。傷は? 凍えは?」

  こはるが海人の包帯を見やると、老女は頷き、薬湯の瓶を棚から取って差し出した。

 「塗って巻き直しな。手は熱でも冷でも痛むだろうが、今夜寝れば明日には曲がるようになるさ」

 「ありがとうございます」こはるは深く頭を下げ、瓶を握りしめた。

  そのとき、奥座敷から弦の音がひと筋、湯気を割って流れてきた。澄んだ音色は雪明かりみたいに冷たく、それでいて指先の痺れを撫でるようにやさしい。

 「旅の方だね?」声と同時に姿を見せたのは、栗色の髪を肩に流し、膝に小ぶりの竪琴を抱えた吟遊詩人だった。外套の端をからりと払って一礼する。

 「名はダルセ。道の途絶える土地では、歌が橋になる。よければ湯の支度のあいだ、一つ」

  海人が苦笑まじりに肩をすくめる。「歌で手が治るなら何曲でも頼みたい」

  ダルセは「手は湯で、心は歌で」と軽く弦をはじいた。ゆるやかな旋律が広間に満ち、こはるは思わず息を整える。音に合わせて、氷宮で張り詰めた肩の力が少しずつ解けていく。

  タイは壁ぎわに立ち、視線を落としたまま動かない。ディランは鎧の金具をほどき、簡素な布に着替えてから、湯の縁に片膝をついて温度を確かめた。

 「適温。順に浸かれ。交代で見張りは残す」

  短い指示に誰も異を唱えない。

  湯に身を沈めると、こはるの頬が一気に熱を帯びた。氷の宮で凍りついた内側が、じんわりとほどけていく。海人は湯縁に肘を置き、包帯を外して慎重に薬を塗り直す。

 「しみる?」

 「大丈夫。……ありがとう、こはる」

  彼の声は湯気に溶け、近くの雪解け水みたいにやわらかい。

  ダルセの曲が一巡すると、彼は湯の外で毛皮の上に腰を下ろしたまま、こはるに微笑みを向けた。

 「旅の顔だ。寒さより険しい何かを越えてきた目をしてる」

  こはるは目を瞬かせ、胸元の袋をそっと押さえた。欠片の脈が、歌の拍に合わせて微かに打つ。

 「越えたというより、押し出されただけ。けれど、進むのをやめないって決めたの」

 「それでいい。人は決めた向きに歩くとき、いちばん温かい声が出る」

  タイは湯から上がり、濡れた髪を無造作に払って、入口の陰へ移った。外の気配に耳を澄ませる癖は、焚き火の前でも変わらない。

 「客が増える。足音四つ、軽装」

  扉がきい、と鳴って開き、氷路帰りの商人たちが雪塵を払って入ってきた。彼らは湯屋の老女に短く挨拶すると、小上がりに荷を置き、肩を寄せ合って囁き合う。

 「白い海底が鳴いたのを見た」「黒い雪が混じってたろ」「あれは黒海の匂いだ」

  黒海、という言葉にタイの肩がわずかに強張った。こはるはその揺れを見逃さず、声をかける。

 「聞いてもいい? 黒海のこと」

  タイは答えなかった。代わりに、ダルセが間へ入るように竪琴を抱えた。

 「音に包んでからにしよう。刺のある話は、柔らかい布で包むと運べる」

  細い旋律がふたたび広がる。こはるはその余白に、自分の言葉をすべり込ませた。

 「欠片を集めているの。潮枯れを止めるために。黒海の話は、いつか必ず向き合う。でも今は、白海でできることを」

  老女が湯壺の蓋を叩いた。「腹を満たしな。塩鮭と根菜の煮込みだよ」

  湯上がりの体に温かい汁がしみわたり、皆の頬に色が戻る。ディランは匙を置き、布地図を広げた。

 「白海で手に入る情報は洗い切った。次は……灯台跡か、氷河の割れ目か。どちらにも古い祠の記述がある」

  海人が地図の余白に印をつける。「灯台跡なら、人がいる。情報と物資が手に入る可能性が高い」

  タイは短く言う。「割れ目は危険が大きいが、隠し物はだいたいそういう所にある」

  こはるは二人の提案を順に見て、欠片の脈に耳を澄ませた。微かな潮の拍が、灯台の方角で一度だけ強く跳ねる。

 「灯台へ行こう」

  ダルセが竪琴の弦を押さえ、こはるに目を向けた。「なら、俺も行く。歌は風に乗る。風が荒い場所ほど、道しるべが要る」

  海人が眉を上げる。「危険だぞ」

 「危険な道にこそ歌が要る。俺はそう習った」

  老女が笑い、「吟遊詩人はいつもそう言うのさ」と湯気の向こうから声をかけた。

  夜更け。湯屋の明かりは落ち、外は月が雪面を照らして青く光っている。見張りの番を交代するたび、こはるは胸の欠片を確かめた。規則正しい拍は眠りの底からも呼び、夢のふちに白い波を寄せる。

  やがて、戸口近くでタイが低く呼んだ。

 「風向きが変わる。雪に匂いが混じった」

  こはるは毛皮を肩に掛け、外に出る。月明かりの中、雪片に微かな黒が混じっていた。指先に乗せると、すぐに白へ溶けるほどのわずかな灰。

  ダルセが背後で囁く。「歌が要るね」

  彼は静かに弦をはじき、音を雪へ投げた。細い音が夜気に絡まり、風の尖りを丸くする。

  こはるは空を仰ぎ、ゆっくり息を吐いた。(黒が来る。けれど今は、怖れに名前を与えない。歩くことと、温めること)

  扉の内側で、海人が包帯の結び目を確かめながら言う。

 「夜明けに出る。灯台は東、海霧が晴れる前に着きたい」

  ディランが頷き、剣帯を肩にかける。タイは雪明かりの道筋をひとつ覚え、外套の襟を立てた。

  ダルセは竪琴を背に回し、こはるへ短く笑みを投げる。

 「歩幅を合わせよう。歌は歩の数でできてる」

  こはるも笑ってうなずいた。胸の欠片が、答えるように一度だけ強く打つ。

 夜明け前の空は、墨を薄めたような灰色だった。湯屋の戸が静かに閉じる。こはるは毛皮の裏地に指を潜らせて体温を集め、肩で息をしながら雪上に残る月の軌跡を辿った。

  灯台は東の岬にあるという。氷の段丘を三つ越え、海霧の帯を抜けた先に、古い石積みの塔が一本だけ残っているらしい。足を踏み出すたび、雪がきゅっきゅっと鳴り、前列のディランが刻んだ足跡に後続が吸い込まれていく。

 「風が戻る前に稜線を抜けたい」ディランが小さく告げ、歩調をわずかに上げた。

  タイは後尾で振り返り、遠ざかる湯屋の煙を一度だけ確かめると、視線を前へ戻す。こはるの耳の奥で、欠片の拍が規則正しく刻まれ、歩幅のリズムと重なった。

  最初の段丘を登り切ったところで、海人が振り向いた。

 「指、まだ冷えてるか?」

 「動くたび温かくなる。あなたの包帯……痛まない?」

 「さっきの薬が効いてる。曲がる」

  海人は握ったり開いたりして見せ、冗談めかして片目をつぶる。こはるは頬に入りかけた冷気が、胸のほうでやわらぐのを感じた。

  二つ目の段丘の陰、雪庇の裂け目から、薄い霧が低く流れ出していた。霧の中で、白にまぎれた細い黒がちらつく。

 「待て」タイが手を上げる。

  霧の向こうで、か細い声がした。「こっち……誰か……」

  駆け寄ると、橇のそりが横転し、若い搬送人が足を挟まれていた。荷は毛織物と灯油の樽だ。海人はひざまずき、足場の雪を手早く払った。

 「支点を作る。こはる、樹脂縄」

  こはるは荷から縄を引き出し、ディランが橇の桁に通して即席の滑車を組む。タイが無言で体重をかけ、ぎぎ、と雪が悲鳴を上げた。

 「いまだ」

  橇が持ち上がり、海人が少年の足を引き抜く。こはるはすぐに触診し、脛の腫れを確かめて布で固定した。

 「骨は折れてない。腱を休ませれば歩けるようになる」

  少年は泣き笑いの顔で連発する。「助かった、助かった……灯台へ向かうなら、気をつけて。昨夜から霧に黒い灰が混じるんだ。灯台の番人が、火が弱るって」

  ダルセがしゃがみ込み、少年の肩へ毛皮を掛けた。

 「火が弱れば、船は岸を見失う。歌で風向きは変えられないが、心の向きを揃えることはできる」

  彼は竪琴の弦を一度だけ鳴らし、少年の耳元へ短い旋律を落とす。「帰り道の足取りは、この拍で。怖くなったら、息を合わせて」

  少年は何度か拍を刻み、頷いてから斜面を下っていった。こはるはその背を見送りながら、胸の欠片が一度強く打つのを感じた。

  三つ目の段丘を越えたところで、海が開いた。岬は海霧に包まれ、波頭は薄い硝子片のように白く砕ける。霧の裂け目から、石灰色の塔が突き立ち、頂の火籠にくすぶる火が見え隠れした。

 「急ごう」ディランが駆け下り、鉄の扉を叩いた。

  扉は内側からぎいと開き、痩せた番人が現れた。頬はこけ、眉毛には霜が宿っている。

 「火が……火が喰われる。油を注いでも、炎の芯が黒く窄まるんだ」

  番人は震える手で螺旋階段を指した。海人が先に立ち、全員で塔に入る。

  火籠の室は、煤の匂いと潮の湿りで満ちていた。火は確かに弱い。炎の周りで空気が歪み、黒い細片がときおり渦を作っては消える。

 「黒海の灰……」タイが呟き、火籠の縁を検める。「油に混ざって侵入してる」

  ディランは窓の隙を布で塞ぎながら言う。「火を換えろ。芯から焼き切る」

  こはるは荷から薬草と樹脂粉を取り出した。「酸素を奪わずに灰を沈める配合、試してみる」

  海人が頷き、火箸で炎を起こす。ダルセは背後で竪琴を抱え、呼吸の数を数えるように四拍の空白を刻んだ。

  こはるは樹脂粉をひとつまみ、火の上ではなく籠の周縁に散らす。粉は空気中の微細な水を拾って薄膜になり、黒い細片がそこに絡め取られて、じり、と縮んだ。

 「もう一度」

  二度目の粉が舞う。海人は火箸を引き、息を浅く保つ。ダルセの四拍が、手の動きを穏やかに揃える。

  やがて、炎の芯が白く戻った。黒い歪みは消え、火籠はまるい光を広げはじめる。

  番人は膝をつき、震えながら額を床に押し当てた。「火が……戻った。これで船が、岸を見失わない」

  こはるは胸の奥まで溶けるような安堵を覚え、両手で火の温度を受け止めた。欠片が胸元で淡い脈を打ち、塔の石壁もかすかに応える――海のほうから、遠い鐘の音のような響きが、一度だけ。

  塔を出ると、霧は薄まり、沖に点々と小舟の灯りが戻っていた。岬の岩棚に、氷に閉ざされた小さな祠が口を開けているのが見える。石の額には、擦れて読みにくい古文字が刻まれていた。

 「寄る?」海人が尋ねる。

 「寄ろう」こはるは祠の前で膝をつき、額の文字を指でなぞった。「……『風の向き、一つにあれば、岸は近し』」

  ダルセが微笑む。「だから拍を合わせるんだ。歩く時も、怖れる時も」

  祠の奥から、微かな潮の気配が流れてきた。欠片が応え、こはるの掌に温みが灯る。彼女は両手を胸に当て、仲間の顔を順に見た。

 「白海でやるべきこと、もう一つ。港の人に火の戻った灯台を知らせたい。避難している人がいれば、戻れる目印になるから」

  海人が頷き、ディランが短く段取りを告げる。「灯台の番人に伝令を頼む。俺たちは町へ降り、広場で告知。黒い灰の対処は宿で共有」

  タイは周囲の雪面に視線を走らせた。「戻る道で一度、風の溜まりを避ける。黒い灰は窪地に落ちる」

 「案内を」

  タイは黙って先に立った。いつもよりわずかに歩幅を広げ、背中が風の筋を探る狼のようにしなやかだ。

  町に着くと、広場の中心でダルセが竪琴を鳴らし、小さく口を開いた。

 「灯が戻った。岬は呼ぶ。海は道を返した」

  短い詩が人々の耳に流れ込む。言葉の合間に弦の音が脈のように響き、集まった者たちの息遣いがゆるやかに揃っていく。こはるは湯屋の老女に黒い灰の沈め方を伝え、樹脂粉の配合を書き残した。海人は番屋に赴き、海路の開通を記した板札を掲げる。ディランは巡回路の見取り図に印を加え、見張りの交代を整えた。

  夕刻、白海の雲間から、ほんのわずかに陽が差した。広場の雪面が黄金色にきらめき、子どもたちが歓声を上げる。老漁師は帽子を胸に抱え、こはるへ深く頭を下げた。

 「潮の匂いが戻った。お嬢さん、ありがとうよ」

  こはるは首を振り、仲間たちを見た。「私一人じゃ、何もできなかった」

  ダルセが肩で笑う。「一人の歌は、誰かが聴いて初めて歌になる」

  海霧が薄れた海の彼方に、黒い筋がまだ細く横たわっている。すぐに消えるものではない。けれど、町の灯は一つ増えた。

  日暮れの手前、こはるは桟橋に立ち、冷たい欄干に手を置いた。海人が隣に並ぶ。

 「次は黒海だ」

 「……怖い?」

 「怖いよ」海人はあっさりと言い、それから、ふっと笑った。「でも、君と一緒に歩く道なら、怖いままで行ける」

  胸の欠片が、波打ち際の小さな返し波みたいに、ふくらんで、ほどけた。

 「行こう。歩幅を合わせて」

  背後でダルセが四拍を数える。ディランは剣帯を締め、タイは岬の端で風向きを測って手を上げた。

  白海の町に灯がともる。銀の旋律は、雪明かりの空へ溶け、遠い潮の拍に重なって伸びていった。


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