第6章_氷宮の罠
氷宮の内部は、まるで巨大な水晶の洞窟のようだった。天井は高く、青白い氷柱が垂れ下がり、壁面には無数の氷の結晶が光を反射している。その美しさにこはるは思わず息を呑んだ。
「すごい……まるで別世界」
しかし海人は周囲を警戒しながら言った。「美しい場所ほど危険なことが多い。気を抜くなよ」
ディランは床を注意深く踏みしめていた。「この氷、滑りやすいだけじゃない。……何か仕掛けがあるな」
タイも剣を抜いたまま前を歩く。彼の背中は固く、普段以上に緊張しているようだった。
やがて、廊下の先に鏡のような床が現れた。表面は完全に磨かれており、まるで空を歩いているように錯覚するほど透明だ。
「変な感じ……」こはるが一歩踏み出した瞬間、床が光を反射し、視界がぐにゃりと歪んだ。
気づけば彼女は一人きりで、氷の檻の中に閉じ込められていた。
「こはる!」海人の声が響いたが、彼女の耳には届かない。周囲は音を吸い込むかのように静かで、氷の壁が不気味に輝いている。
(どうしよう……閉じ込められた?)こはるは手で氷を叩いたが、まるで鋼のように硬く、びくともしない。
一方、檻の外では海人が必死に叩いていた。「くそっ、びくともしない!」
ディランは冷静に周囲を観察し、「これは罠だ。氷宮が外敵を閉じ込めるための仕掛けだろう」と言った。
タイは険しい表情でこはるを見た。「お前、動けるか?」
こはるは小さく頷き、必死に答えた。「動ける。でも出口がない!」
すると、氷の床の下から低い唸り声が響いてきた。氷の檻の中央が割れ、氷でできた獣のようなものが現れる。巨大な氷狼だ。目は赤く輝き、吐息は白い霧となって辺りを覆った。
「来るぞ!」海人が叫んだが、檻の中のこはるは一人で向き合うしかない。
恐怖に足がすくみそうになる。しかし、こはるは拳を握りしめた。(ここで立ち止まったら、みんなに迷惑をかける……!)
荷から薬包を取り出し、狼の顔めがけて投げつけた。粉末が爆ぜ、視界を奪う。こはるはその隙に足元の氷を蹴り、狼との距離を取った。
「海人! なんとかならないの?」こはるの声がようやく届いた。
海人は剣を構え、「ディラン、弱点は?」と問う。
ディランは短く答えた。「氷の床自体が魔力の源だ。壊せば檻も消える」
「ならやるしかない!」タイが剣を氷に突き立てた。
何度も剣を振り下ろし、氷にひびが入る。すると檻が音を立てて崩れ、こはるは自由を取り戻した。
「ありがとう!」彼女はすぐさま海人の背に隠れた。
自由になったこはるの目の前で、氷狼が再び咆哮を上げた。今度は全員で立ち向かう。ディランが正面から受け止め、タイが横から斬り込み、海人が補助する。こはるも薬包を投げ、氷狼の動きを鈍らせた。
最後はディランの渾身の一撃が狼の首を跳ね、氷の塊となって崩れ落ちた。
静寂が戻ると、こはるは深く息を吐いた。「怖かった……でも、みんなのおかげで助かった」
海人は微笑み、「もう一人じゃないって忘れるな」と言った。
その言葉にこはるは小さくうなずき、欠片の袋をぎゅっと握った。
氷狼が砕け散ったあとも、宮の奥からは低い振動が続いていた。壁の結晶が共鳴し、青白い光が脈を打つたび、床に刻まれた紋が淡く浮かんでは消える。
「まだ終わってない」ディランが足元の紋を蹴り、剣先で輪郭をなぞった。「中央聖堂へ誘導するための道標だ。先へ行くぞ」
タイは短くうなずき、先頭に立つ。海人はこはるの手袋の具合を確かめ、「指、冷えてないか」と問う。
「大丈夫。……行こう」こはるは息を整え、欠片の袋に手を添えた。指先に伝わる鼓動は、ここに近いと告げている。
迷路のような回廊を抜けると、巨大な円形の聖堂へ出た。天井は半球状に盛り上がり、中央に吊られた氷の燭台から、糸のような光が幾筋も垂れて床の紋と結ばれている。祭壇には、霜に覆われた水鏡が静かに据えられていた。
「鏡だ……」こはるが一歩近づくと、鏡面が波紋をつくり、彼女自身の姿が揺らいだ。揺らぎは次第に形を変え、見知らぬ女の横顔へと重なる。白い外套、海色の冠。
胸の奥がきゅっと縮む。(“聖海の乙女”……? 私と似ている)
鏡の女が唇を開き、声音だけが氷室に落ちた。
「戻れ。お前はここに相応しくない」
足が止まる。喉が乾く。だが海人がそっと肩を叩いた。
「聞くな。ここは試す場所だ。お前が選ぶ言葉だけが、お前のものだ」
こはるは鏡を見据え、息を呑み込み、短く答えた。
「進む。私しか、選べない」
その瞬間、床の紋が眩しく明滅し、氷の柱が四方から立ち上がって彼らを包囲した。柱の内側で霜が一気に成長し、空気が刃のように冷たくなる。
「封氷の結界だ!」ディランの声が響く。「中心の祭壇に“解き火”を入れない限り、凍りついて動けなくなる」
見回すと、円周部に小さな香炉が四つ、氷に埋まるように据えられている。内部には白銀色の石炭が眠ったままだ。
「火種が……ない」こはるが顔を上げた瞬間、海人が走った。
海人は腰の火打金を取り出し、手袋を外して素手のまま火花を落とす。冷気は皮膚を刺し、金属は凍てついて指に張り付いた。
「手袋!」こはるが叫ぶ。
「間に合わない!」海人は奥歯を噛み、火花を何度も散らした。石炭は鈍く赤みを帯び、やがて小さな炎が灯る。彼はその器を抱えて駆け、祭壇へ運ぶ。氷に触れた金属が悲鳴のような音を上げ、腕に熱と冷の痛みが交互に走った。
祭壇の受け皿へ“解き火”が降りる。青白い炎がふっと立ち上がり、天へと糸を伸ばした。結界を成す氷の柱に亀裂が走り、粉雪のように崩れ落ちていく。
海人の手の甲は赤く腫れ、指先は霜焼けと火傷の混ざった色になっていた。
「海人――!」こはるは駆け寄り、息で手を温め、薬包から軟膏を取り出して丁寧に塗った。
海人は苦笑し、「平気だ。これで前に進める」と囁く。
「平気じゃないわ。……でも、ありがとう」
炎が祭壇の奥を照らし、水鏡の霜が音を立てて溶けはじめる。鏡の底から、淡く光る粒が浮き上がった。真珠の欠片――白の輝き。
こはるが両手を差し出すと、欠片はぬるりと水から生まれる雫のように掌へ落ちた。触れた途端、二つの欠片が互いに呼び合い、胸の前で柔らかな脈を揃える。
そのとき、天蓋の氷が鈍く鳴り、別の仕掛けが動いた。鏡面に走る細い文字の筋――古い祈りの文だ。
「読めるか」ディランがたずねる。
こはるは指でなぞり、口に乗せる。「『凍れるものに道を、迷えるものに岸を。心の熱を捧ぐ者、海に祝福あれ』」
読み終えると、鏡の水が静かに閉じた。聖堂の光は落ち着き、風のない穏やかな空気が戻る。
こはるは海人の包帯を結びながら、声を低くした。
「さっきの言葉……“心の熱を捧ぐ者”。あなたの手が証明してしまったわね」
海人は目を細め、肩をすくめた。「大げさだよ。俺はただ、目の前の誰かにできることをしただけだ」
「それを、大げさじゃないって言える人は、そういない」
視線が絡む。氷の聖堂に、焚き火の匂いに似た温度が生まれた。タイがわずかに顔を背け、ディランは気配を消すように天井の結晶を見上げる。
「行こう」タイが促した。「ここは長く留まる場所じゃない」
こはるは新たな欠片を胸に当て、深くうなずいた。「うん。白は手に入った。次へ」
聖堂を出る廊下は、来たときよりも明るかった。結界が緩み、氷壁の奥で閉ざされていた水の流れが細く動き出している。帰路の曲がり角で、こはるはふと振り返った。鏡の間は静かにたたずみ、誰の影も映していない。
(“相応しくない”なんて、もう言わせない。私は、私の選んだ道を歩く)
外へ出ると、白海の曇天が切れ、薄い陽が雪面に広がった。風は冷たいのにどこかやわらかい。こはるは肩で息をしながら、海人の包帯をもう一度確かめた。
「痛んだら言って」
「言うよ。……ありがとう、こはる」
彼の声には、凍てつく空気でも消えない温度が宿っていた。