第5章_白海への氷路
紅海を離れて三日、こはるたちは北の白海を目指していた。道は次第に険しくなり、気温もぐんと下がっていく。吐く息は白く、風は肌を刺すように冷たい。
道中、ディランは無言で前を歩いていた。鎧の金属音だけが氷の世界に響く。タイは後ろで無表情のまま剣を点検し、海人はこはるの歩幅に合わせてゆっくりと進んでいた。
「寒い……でも、景色はきれいね」こはるは周囲を見回した。雪に覆われた針葉樹、氷の粒を散りばめたような湖面。まるで宝石箱の中を歩いているかのようだ。
やがて、足元に広がる氷の道に差しかかる。
「ここが白海へ通じる氷路か」海人は棒で氷を突き、強度を確かめた。「大丈夫そうだ」
「慎重に行け。足を滑らせたら命はない」ディランの声は冷たくも的確だった。
こはるは深呼吸し、氷の道に足を乗せた。靴底がわずかに滑るが、海人が手を差し伸べ、しっかりと支えてくれる。
「ありがとう」
「気にするな」海人は笑った。
だが次の瞬間、風が強まり、氷の上に雪が舞った。視界が揺らぎ、こはるは足を取られそうになった。
「危ない!」海人が引き寄せたと同時に、タイが前方を警戒するように剣を抜いた。
「……何かいる」
氷の道の先、白い影がいくつも走ってくる。狼だ。しかしその体は通常より大きく、毛並みは氷のように光っていた。
「氷狼……」ディランは剣を構えた。「隊列を崩すな!」
群れが襲いかかり、戦いが始まった。タイは前線で鋭い剣撃を繰り出し、ディランは防御を固めながら正確に反撃する。海人はこはるを背後に置きつつ、隙を見て狼を突いた。
こはるは薬包を取り出し、狼の目の前に投げつけた。粉末が爆ぜ、狼の動きが鈍る。
「今よ!」
タイが大きく踏み込み、一撃で狼を斬り伏せた。
氷路は再び静けさを取り戻したが、こはるの胸はまだ早鐘のように打っていた。
「大丈夫か?」海人が肩に手を置いた。
「ええ……でも、怖かった」
タイは剣を拭い、低く言った。「ここでは、躊躇は死に繋がる」
その声には、どこか自身の経験を思い出している響きがあった。
戦いを終え、四人は氷路を進み続けた。遠くには白く輝く氷宮がかすかに見え、その光景はまるで幻のように美しかった。
(ここで……次の欠片が待っているのね)こはるは欠片の袋を強く握りしめた。
氷路を進んで半日が経ったころ、四人は白海の中心地にある小さな村に到着した。村は厚い氷壁に囲まれ、氷でできた家々がまるで宝石のようにきらめいている。しかし、村人の表情は暗く、笑顔はほとんど見られなかった。
村の広場で、一人の老人が声をかけてきた。
「旅の方か。ここを訪れる者は珍しい」
海人は前に出て答えた。「俺たちは〈海を癒やす真珠〉を探している。この近くに、氷宮という場所があると聞いたが」
老人は目を細めた。「氷宮はこの先の氷原を抜けた場所にある。だが、あそこには古い罠と、宮を守る氷の魔物がいると伝わっている」
こはるは欠片の袋を握りしめて言った。「私たちは行きます。どんな危険があっても」
老人はしばらく黙ってこはるを見てから、静かにうなずいた。「ならば、これを持って行くといい」
そう言って渡されたのは、氷を削り出したような小さな護符だった。「これは氷宮の結界を一時的に緩める力があると伝えられている」
こはるは両手で受け取り、深く頭を下げた。「ありがとうございます」
村で短い休息を取った後、一行は氷原へと向かった。そこは一面が白い世界で、地平線まで雪と氷だけが広がっている。冷たい風が容赦なく吹き付け、視界を奪う吹雪となった。
「こはる、離れるな!」海人が声を張り上げる。
「はい!」こはるは必死に返事をし、海人の背中を追った。
そのとき、地面に不自然な影が広がった。次の瞬間、氷の塊のような生物――氷狼の群れが再び現れた。しかし先ほどの群れよりも大きく、明らかに強力だ。
「来るぞ!」ディランが剣を構えた。タイも無言で剣を抜き、前へ出る。
氷狼の一頭がこはるに飛びかかる。海人が素早く割って入り、短剣で防いだ。
「下がれ、こはる!」
こはるは頷きつつも薬包を取り出し、狼の目元へ投げた。粉が弾け、氷狼の動きが鈍る。その隙をタイとディランが逃さず、一気に切り伏せた。
戦いの後、息を切らすこはるの肩に海人が手を置いた。「大丈夫か?」
「ええ……でも、ここ、普通の道じゃない」
ディランは氷の地面を見つめ、低くつぶやいた。「氷宮の結界が影響している。外敵を寄せつけないためのものだ」
タイは剣を肩に担ぎ直し、前を向いた。「急ごう。長居すればするほど危険が増す」
吹雪を突き進むうちに、ついに氷宮の巨大な扉が姿を現した。氷の彫刻が施されたその扉は、冷気を放ち、近づくだけで肌が痛むほどだ。こはるは老人からもらった護符を取り出し、扉の前で掲げた。
護符が青白い光を放ち、扉の氷が音を立てて割れ、ゆっくりと開いていく。
「行こう」海人の声に、全員がうなずいた。
氷宮の中は青白い光で満ち、足音が反響するほど静かだった。だが、この静けさが嵐の前触れであることを、誰もが感じ取っていた。