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潮枯れの王国で“偽”聖女と巡視隊士が恋を知るまで――五つの海と真珠の旅  作者: 乾為天女


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第40章_潮満ちる未来

 朝の端は、港ではなく、町の屋根の上から始まった。

  夜露を吸った瓦が薄金色に変わり、風見の羽根が一度だけ鳴って止む。

  広場の羅針は紙一枚ぶんの沈みを保ち、翡翠の球はその上で静かに“在る”を続けていた。

  こはるは王城の用を終え、長い坂を下りきったところで一度だけ振り返った。

  白壁の上に残る冷たさは、昨夜より薄い。

  胸の棚に白と紅、極薄の灰。浅い谷をひとつ置いてから、彼女は港へ向き直った。

  桟橋の板は乾きかけ、陽が当たる場所は色が浅く、陰はまだ夜の色を残している。

  板の隙間から息を吐く海は、深くも浅くもないちょうどの拍を守っていた。

  海人が先に来ていた。欄干に肘を預け、片手で何かの紙を抑えている。

  こはるが足音を忍ばせて近づくと、彼は顔だけを少しこちらへ向けた。

 「来たか」

 「約束だから」

  短い言葉の外に、昨夜からの息の重なりが残る。ふたりの足が自然に同じ幅で止まった。

  海人が紙の端を押さえ直す。

  それは新しい航路図だった。王城の書記が貸した古い版に、海人の手で細い鉛の線が重ねられている。

  アジュレアの西、五つの海域をつなぐ細い点線が、港の外へ伸び、やがて地図の縁へ消えていた。

 「——『戻る道』じゃないのね」

 「『行く道』だ。戻るなら、呼吸だけで戻れる」

  海人はそう言って、欄干に紙を広げる角度を微調整する。

  潮風が線を撫でても、線は滲まない。鉛の粉が紙に馴染む音が、ほんの少しだけ耳に届いた。

  こはるは指先を地図に触れず、視線だけで辿った。

  藍海の洞窟、紅海の祠、白海の氷宮、黒海の断崖、翠海の神殿——どこも、昨夜の港の拍とつながって見える。

 「ここから先は、名前も線もない場所ばかり」

 「だからこそ、在り方だけは決めていく。押さない、奪わない、走りすぎない。——それと」

 「それと?」

 「人の役に立つ」

  海人は照れも誇張もなく言い、紙の端を指で叩いて一つ折った。

  その手つきには、昨夜の橋で“在す”に徹した人の癖が残っている。

  こはるは桟橋の端まで歩き、海面を覗いた。

  翡翠の球は広場にある——それでも、ここにも翡翠の気配が薄く残っている。

  板の裏を舐める波が、布のように寄せては離れ、木の香りを押し上げる。

  彼女は欄干へ背中を預け、息を整えた。

 「私、あの球に名前をつけないと決めたよ」

 「うん」

 「それから……自分にも、まだ名を貼らない。『聖海の乙女』でも、『転生者』でもなくて」

  海人は頷き、紙から視線を上げる。

 「——こはる、だな」

 「うん。ここで、こはるとして生きる」

  短い沈黙。

  遠く、網を干す竿が砂を擦る。舟の腹が木杭へ低く当たり、鳥が三度、同じ高さで旋回する。

  こはるは胸の棚から白と紅を外し、灰の“空”だけを残した。

  言葉を置くためではなく、言葉の入る余地を開けるために。

 「地図、見せて」

  海人が紙を差し出すと、こはるは欄干と紙の間に掌を入れ、風に攫われないよう軽く押さえた。

 「西は外洋。潮の取り方で道が毎日変わる。——だから点線にした」

  海人が鉛筆を回し、紙の余白に短い目印を描く。

 「港ごとに“間”が違う。灯の回り、橋の高さ、堤と背のずれ。全部、手触りで書く」

 「文字じゃないのね」

 「文字はあとでいい。先に拍だ」

  こはるは笑みをこぼす。「あなたらしい」

  欄干の向こう、潮目の線が薄く傾き、朝の光が一本だけ長く海上へ伸びた。

  そこへ一艘の小舟が出る。帆はまだ畳まれているのに、舟は止まらない。櫂の音が水面をすべり、舟底の影が魚のように揺れた。

  海人が顎で示す。「最初はあの規模でいい。寄港して、拍を写して、地図に『息』を重ねる」

 「私も書く」

 「任せる」

  ふたりの声に、押し付けはなく、余白がある。

  こはるは地図から目を上げ、海と街の境目を眺めた。

  広場の方角から、子どもの笑いが風に割れて届く。

  昨日まで“試す目”に怯えていた港はもういない。外は外のまま、内は内のまま、ただ息が重なっている。

 「ねえ、海人」

 「ん」

 「いつか、この国の外も見てみたい」

 「行こう。点線の先は、まだ余白だ」

  海人は航路図を丸めると、紐でゆるく留めた。きつく結ばないところが、彼らの選びに似ている。

  桟橋を渡って来た足音。

  ディランが旗を肩に、ケイトリンが布袋を、ダルセが竪琴のない背を、タイが木柄を抱えて現れた。

  誰も大声を出さず、手だけを軽く上げる。

 「王太子からの伝言」ディランが口を開く。「『功を並べず、呼吸を伝えよ』だそうだ」

  海人が苦笑する。「難しい注文だな」

  ケイトリンは布袋を欄干に置き、「干し果とパン。喉、通る」と短く言う。

  ダルセは胸で“長”をひとつ、音にせず置いた。

  タイは木柄の結びを一度固め、舟の縁を叩かずに撫でる。

 「出る前に、広場で一度だけ“稽古”を」ダルセが言う。

 「声は出さず、息だけ合わせる。町と港と、外へ向けて一本に」

 「旗は横を保つ」ディラン。

 「水と薬は足りる」ケイトリン。

 「材は噛んだ。折れない」タイ。

  こはるはうなずく。「私が、最後に『在る』を置く」

  海人が地図を片手に掲げた。「俺は道の幅を示す」

  短い打ち合わせのあいだにも、桟橋は朝の温度を増していく。

  目を細めるほどの強い光ではない。

  けれど、昨夜の“満たし”を引き継いだ、生活の光だ。

  皆が広場へ戻っていくとき、こはるが呼び止めた。

 「——海人」

  彼は振り返り、紙束を胸に抱えたまま片眉を上げる。

 「何か?」

 「まだ、言ってなかったことがあるの」

  こはるは欄干から一歩、彼のほうへ近づく。

  胸の棚で白と紅、極薄の灰。浅い谷をひとつ。息は走らせない。

 「この世界に来て……良かった」

  言葉は海へ落ちず、ふたりの間の高さにそのまま“在った”。

  海人は紙束を片腕に移し、空いた手で欄干を軽く叩く。木は鳴らず、拍だけが指先に返る。

 「俺も、良かった」

  彼の声は短く、しかしどの言葉より長く胸に残った。

  ふたりは同じ拍で一歩ずつ寄る。

  こはるは目を閉じず、視線を逸らさない。

  海人が身を傾け、彼女は頬の塩を指で拭いもしない。

  静かな口づけは、波の上ではなく、板の堅さの上で結ばれた。

  港の拍に重ならず、ずれず、ただ同じ高さで。

  遠くで竿が砂を擦り、鳥が一度だけ真上をかすめ、潮が板の裏を撫でる。

  ふたりは離れ、言葉を足さなかった。そこに“在る”があれば、名は要らない。

  海人が地図を掲げ、こはるが頷く。

  桟橋を渡る足音は、昨夜の行軍とは違う。

  軽く、しかし戻らない歩幅。

  広場の羅針が紙一枚ぶん沈み、港の息がそれを見送る。

  こはるは振り返らない。

  この国の内でも外でも、選ぶ拍は同じだと知っている。

  ——押さない、奪わない、走りすぎない。呼吸を合わせ、“在る”を置く。

  彼女は胸の棚から白と紅をそっと外し、灰の“空”だけを残した。

  次の点線を、いま描くために。

 広場へ戻る道は、朝市の始まりと重なっていた。

  干し魚の匂いが風に混じり、木箱を並べる音が早口で続く。

  パン屋の軒先からはまだ湯気が立ち、子どもが小さな籠を抱えて走っていく。

  こはると海人は、わざと速度を落として歩いた。

  広場に着く前に、町の息を胸に入れておきたかった。

  足元を行く猫が一度だけ振り返り、二人の歩幅に合わせてから路地に消える。

  広場の中央、翡翠の球は夜明けと同じ場所にあった。

  羅針の針はほんのわずかに西へ傾き、翡翠の内に白い糸が一本だけ伸びている。

  それは球の中心で止まり、外には出ない。

  こはるはその糸に触れず、ただ視線で“在る”を確かめた。

  仲間たちが半円を作って待っていた。

  ディランが旗を地面に立て、ケイトリンが袋を足元に置く。

  ダルセは竪琴の代わりに、短い木片を手にしている。

  タイは舟用の材を持ったまま、膝を軽く曲げて立っていた。

 「——合わせるぞ」

  海人の声に、誰も返事はしない。

  しかし息がひとつに揃う。

  吸う、止める、吐く——その拍を、広場と港と空が受け取っていく。

  こはるは最後に“在る”を置いた。

  言葉ではなく、息の重さで。

  それは翡翠の糸に重なり、外へ向かう拍と一体になった。

  短い稽古が終わると、旗がゆるく揺れ、袋の口が少し開いた。

  ダルセが木片を地面に置き、タイが材を肩に担ぎ直す。

  広場の空気は、出発前の張りではなく、日常の張りに近かった。

  海人が地図を広げ、皆に向ける。

 「最初の寄港は西の小港だ。距離は短いが、潮が変わりやすい」

  ディランが旗を指で叩く。「風は読む」

  ケイトリンは袋を持ち上げ、「食料は四日分。途中で足す」

  ダルセが笑みを浮かべる。「水は歌わないが、拍は保つ」

  タイが材を軽く撫でる。「舟は折れない」

  こはるは翡翠の球をもう一度見た。

  球の内の糸は、朝より少しだけ太くなっている。

  ——この糸は、きっと外へも伸びる。

  そう思ったとき、胸の棚の灰がひとつ、波紋のように広がった。

  海人が地図を丸め、「行こう」とだけ言った。

  誰も異論はなく、足が自然に港へ向かう。

  広場を抜ける風が背を押し、遠くで鳥が二度鳴いた。

 港へ降りる石段は朝の熱で乾きはじめ、踏むたびに粉のような光が跳ねた。

  桟橋には小舟が一艘、腹を浅く水に沈めて待っている。帆はまだ降り、舫いはゆるく結われたまま。

  舟べりの木は新しい傷を一つも持たず、タイが夜のうちに撫でておいた油の匂いが薄く立っている。

  最初に海人が一歩、舟へ。足裏で木の“目”を確かめ、重心の置き所を決める。

  ディランが旗を短く掲げ、堤の兵へ目で合図。橋の上の並びがひとつ息を揃えた。

  ケイトリンは積み荷の袋をひとつずつ舟底に渡し、「喉、通る」を三本、手の届く位置へ置く。

  ダルセは舳先に腰を下ろし、竪琴のない胸で“長”を畳んでから、笑って見上げた。

  タイが最後に舫いを解きながら、木柄を舟の脇に横たえる。

  こはるは桟橋の端で一度だけ後ろを見た。

  広場の方角から、羅針の刻みが紙一枚ぶん沈んで戻る気配。

  翡翠の球はここから見えない。けれど、胸の奥で静かな脈が同じ速さで続いている。

  桟橋の影から、子どもの声がした。

 「いってらっしゃい」

  母の手に包まれたその声は、風に千切れずまっすぐ届いた。

  こはるは手を振らず、代わりに浅い谷をひとつ胸に置いた。——“在る”で返す。

  海人が手を差し出す。

  こはるはその掌に触れない距離で、しかし同じ拍で舟へ飛び移った。

  板が鳴らず、舟は揺れすぎない。

  海人の目が「見た」とだけ告げ、こはるは頷く。

  舫いが外れ、舟は自分で初めの一寸を出した。

  櫂はまだ水に入らない。

  港の面が、昨日と今朝の“満たし”を覚えたまま、舟をやわらかく送り出す。

  ディランが旗を低く振ると、橋の上の列が音を立てずにほどけ、日常の並びへ戻っていく。

  ケイトリンは最後の袋の口を結び、「喉、通る」を舟べりに滑らせた。

  ダルセは声を出さない歌を胸で転がし、タイは櫂を一本だけ水へ立てる。

  海人が舵を握り、こはるが舳先に立った。

  灯台の帯が三拍目で半分、五拍目で戻り、崖の紋は触れずに光を受ける。

  港口の岩が二つ、左右に“在す”の高さを保ち、外輪の肩は朝の光に紛れて姿を見せない。

 「——出る」

  海人の短い言葉で、櫂が初めて水を掴んだ。

  舟は小さく前へ、また小さく。

  こはるは足裏で舟底の脈を測り、胸の棚に白と紅、極薄の灰。浅い谷をひとつ。

  港は背を丸めず、しかし手放しすぎず、ちょうどの距離を保って舟を見送った。

  振り返れば、町の屋根が低く重なり、羅針の中心へ薄い金が落ちている。

  パンの蒸気、湯の立つ音、錆びた釘の小さな鳴り——どれも耳に届かず、それでも確かに“在る”。

  それらを背に受けながら、舟は港口を抜け、外洋の点線へと舳先を向けた。

  海の色は藍へ深く、風は帆をまだ求めない。

  海人が航路図を膝で押さえ、鉛の先で紙の余白に短い印を置く。

 「今の拍を——ここに」

  こはるは頷き、紙へ触れず、視線だけで拍を渡す。

  ふと、こはるは舳先から身をひとつ乗り出した。

  波頭が砕ける手前で、白が面を薄く張る。

  その縁に朝の光が乗り、細い糸のように伸びかけて、海へ溶けた。

 「見えた?」

  海人が問う。

 「うん。——点線は、今日も伸ばせる」

  彼は短く笑い、舵をほんの少しだけ切った。

  背後から、ダルセの息が静かに重なる。

  歌わない歌。声にならない“長”。

  それでも舟の骨は一本に揃い、櫂は無理なく水を掴み続けた。

  タイが木柄をとん、と舟底に軽く触れ、ケイトリンが袋の位置をすこし詰める。

  ディランは旗を巻いたまま、風の向きを手の甲で受け止めている。

  港は遠ざかった。

  けれど、離れたとは思わない。

  胸の谷の底で、羅針の紙一枚ぶんの沈みが、まだ静かに呼吸している。

  こはるは海人の横に移り、欄干越しに航路図を覗いた。

  鉛の粉が指の腹に薄く付く。

 「これ、全部塗りつぶすの?」

 「いや。余白は余白のままでいい。——呼吸を書くだけだ」

 「なら、きっと全部つながる」

 「つながる」

  二人の言葉は短く、しかし同じ高さで合った。

  沖の光が一本、海上で長く伸び、舟の影を細く引き延ばす。

  帆を上げるには風が穏やかすぎる。

  だが、急ぐ旅ではない。

  押さない、奪わない、走りすぎない。

  “在る”を置き続ける旅だ。

  こはるは空を仰ぎ、まぶたを細める。

  あの世界から落ちてきた朝の記憶は、もう遠い。

  けれど、ここで重ねてきた拍は、これから先も続くとわかる。

  奇跡は天から降ってこない。

  ——自分が、皆が、選び続ける拍の中で息をする。

  海人が片手を伸ばした。

  こはるは今度はその掌を取る。触れる。

  塩の粒がひとつ、指の間でほどけた。

  ふたりは視線を交わし、名を呼ばない。

  名はもう必要ない。ここで呼吸がひとつなら、それで足りる。

  やがて、灯台の帯は見えなくなり、町の屋根も一本の線に溶けた。

  舟は小さく、海は大きい。

  それでも、恐れは舟に乗っていない。

  乗っているのは、選びの重さと、軽さと、そして——

  互いの温度。

  こはるは胸の棚から白と紅を外し、灰の“空”だけを残した。

  新しい点線の最初の一滴を、目の前の海へ落とすために。

  海人が舵をわずかに切り、ダルセが息を合わせ、ディランが風を読み、ケイトリンが喉を見守り、タイが木を“在す”。

  舟は、進む。

  水平線の向こうに、まだ名前のない薄い陸影が一瞬、滲んでは消えた。

  こはるは笑う。

  その笑みは声にならず、しかし舟の骨に伝わり、海人の指先に伝わり、

  昇りきった朝の光に静かに混ざっていった。

  どんな世界でも、恋は心を動かすたったひとつの奇跡。

  それは空から降りてくる光柱ではなく、

  隣に立つ誰かと呼吸を合わせ、同じ高さで“在る”を置くこと。

  こはると海人は並び、点線の先へ舳先を向けた。


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