第4章_紅海の沈黙市場
紅海へ向かう道は、藍海とはまるで景色が違った。赤土の大地が地平線まで続き、陽光を受けて熱を帯びた風が吹き抜ける。遠くに見える海は名の通り紅く染まったかのように輝き、夕暮れ時にはさらに深い色合いを増すという。
こはるは首元のスカーフを押さえながら言った。
「ここ、本当に市場があるの? こんなに静かなのに」
海人は周囲を見渡し、眉をひそめる。「普通はもっと活気があるはずなんだが……」
やがて紅海の港町が見えてきた。そこは交易の要衝として知られ、通常ならば商人たちの声が飛び交い、香辛料や果物の匂いで溢れているはずだった。だが今は違う。通りには人影がまばらで、並ぶ店の多くが戸を閉ざしている。
「変だな……」海人がつぶやく。
タイは腰に手を置き、警戒するように周囲を見回していた。
「匂いがしない。魚も肉も売っていないみたいだ」
「どういうこと?」こはるは不安そうに尋ねた。
その時、鎧を着た一人の男が通りを横切った。背筋を伸ばしたその姿は、典型的な王国騎士のものだった。海人は声をかける。
「おい、どうなってるんだ、この市場は」
男は立ち止まり、警戒するように三人を見た。「お前たちは……旅人か?」
「ええ。俺は海人、巡視隊士で、こっちはこはるとタイだ」
騎士は少し迷ったあと、小声で答えた。「最近、魚影が消えたんだ。海に魚がいなくなり、商人たちは港を離れてしまった」
こはるは胸に欠片を抱えた。「これも、潮枯れの影響……?」
騎士は首を横に振った。「わからない。ただ、この辺りで黒い潮が現れたという噂はある」
タイはその言葉に反応し、拳を握りしめた。「黒潮……」
市場の奥に足を踏み入れると、一軒だけ開いている店があった。中にいたのは、無精髭を生やした若い商人で、机に肘をついて退屈そうにしている。
「客か?」
海人は軽く会釈し、訊ねた。「黒潮のことを知っているか?」
商人は渋い顔をして答えた。「最近、夜になると港の沖合で黒い波が見える。漁師たちは恐れて出漁をやめちまった。……お前らも近づかないほうがいい」
こはるは視線を海人に向け、決意をこめて言った。
「私たち、行くべきだよね?」
海人は一拍置いて頷いた。「ああ。だがその前に、もう一人仲間が必要かもしれない」
「仲間?」こはるが首をかしげる。
「この町には、王都から派遣された騎士がいるはずだ。名はディラン……腕は確かだが、口数が少ないって評判のやつだ」
こはるは小さく笑みを浮かべた。「口数が少ない人って、タイと合うかも」
タイは眉をひそめただけで何も言わなかった。
騎士ディランを探すため、こはるたちは町外れの宿へ向かった。そこは一見すると普通の旅籠だが、外壁には王国の紋章が掲げられており、派遣騎士の詰所も兼ねているらしい。
扉を開けると、中はひんやりとした空気に包まれていた。受付には女性が座っており、帳簿をめくっている。
「ディランという騎士に会いたいのですが」海人が尋ねると、女性は顔を上げ、少し考えてから階段を指さした。
「二階の奥の部屋にいます。ただし、あの人は口数が少ないですからね」
階段を上がり、奥の部屋の扉をノックすると、低い声が返ってきた。
「入れ」
扉を開けると、簡素な部屋の中央に一人の男が立っていた。銀色の鎧を身につけ、短く刈られた黒髪に鋭い目。表情は硬く、感情を読み取りにくい。
「俺がディランだ。何の用だ?」
海人が前に出て名乗った。「王都巡視隊士の海人だ。こっちはこはるとタイ。俺たちは潮枯れを鎮めるため、〈海を癒やす真珠〉を探している」
ディランは黙って三人を見つめた。しばしの沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。
「……手を貸してほしいということか?」
「ああ」
ディランはわずかに視線を落とし、剣を手に取った。「わかった。黒潮が現れた港の調査なら、ちょうど俺も気にかけていた」
タイは小さく頷き、こはるに視線を送る。こはるは安堵の笑みを浮かべた。
その日の夕暮れ、四人は港へ向かった。空は茜色に染まり、海は名前の通り紅い光を帯びている。しかし沖合には黒い影がゆらめき、まるで別の海が混ざり合ったかのように不気味な気配を放っていた。
港の桟橋で、老漁師が一人、網を修理していた。
「黒潮は夜になると強くなる。お前ら、本当に行く気か?」
海人が答える。「行く。放っておけば市場が完全に死ぬだろう」
老漁師は短くため息をつき、海の方を見やった。「なら気をつけろ。あれはただの潮じゃない。生き物のように動くんだ」
夜が訪れ、月が雲間から顔を出したとき、沖合で海面が不自然にうねった。黒い潮が生き物のようにうごめき、こちらに近づいてくる。
「来るぞ」ディランが剣を抜いた。
タイも黙って構え、海人はこはるの前に立った。
黒潮の中から現れたのは、影のような人型の生物だった。半透明の身体が波と同化し、鋭い爪を光らせている。
「眷属か……」タイが低くつぶやき、迷いなく飛び込んだ。
激しい戦いが始まった。ディランの剣は的確で無駄がなく、タイは力任せに敵を押し返す。海人はこはるを守りながら隙を突いて短剣で応戦した。
こはるは荷から薬品瓶を取り出し、敵の足元に投げる。白煙が広がり、影が苦悶の声を上げる。その隙にタイとディランが同時に斬りかかり、黒潮の眷属を打ち倒した。
波が静かになり、海は再び紅い光を映し出した。こはるは胸の鼓動を抑えながら言った。
「……終わった?」
「一時的にはな」ディランは剣を収め、海を見た。「だがこれは始まりに過ぎない」
港の戦いを終えた四人は、宿へ戻った。途中、通りの家々から人々が顔を出し、恐る恐る様子をうかがっていた。こはるは立ち止まり、微笑んで声をかけた。
「もう大丈夫。黒い影は退けました」
すると、老婦人が目を潤ませて手を合わせた。「ありがとう……ありがとう」
こはるは胸が熱くなるのを感じた。
宿に戻ると、ディランが鎧を外しながら短く言った。
「今夜はここで休もう。明日、さらに調査する」
タイは剣を壁に立てかけ、無言で窓際に座った。その背中はどこか落ち着きなく、こはるは少し気になったが、問いかけるのをためらった。
その夜、こはるは欠片を握りながら寝台に腰を下ろした。藍海で手に入れた欠片は、再び淡い脈動を放っていた。
(もしかして、黒潮の影とこの欠片は関係している……?)
思考が巡るうちに、眠りが訪れた。
翌朝、四人は市場の奥にある祠へ向かった。そこは紅海の守り神を祀る場所とされ、古い珊瑚を組み合わせて作られている。祠の中には海色の光を放つ石碑が立っていた。
「これが……?」こはるは石碑に手を触れた。その瞬間、欠片が熱を帯びて震えだす。
「反応してる!」海人が叫んだ。
だが、そのとき祠の外で重い音がした。揺れる影、低いうなり声。黒潮の眷属が再び現れたのだ。しかも前夜よりも数が多い。
「守るぞ!」ディランが剣を構えた。タイも無言で前へ躍り出る。
激闘が繰り広げられた。ディランの剣は精密で、タイの剣撃は重く鋭い。海人はこはるを守りながら攻撃の隙を突き、こはるも薬品を投げて敵の動きを鈍らせた。
「今だ!」ディランの号令に合わせ、タイと海人が同時に切り込み、最後の一体が地面に崩れ落ちた。
静寂が戻ると、こはるは震える手で欠片を取り出した。すると、欠片が石碑に吸い込まれるように光を放ち、赤い輝きを持つ新しい欠片が浮かび上がった。
「……二つ目」こはるはそれを抱きしめ、涙ぐんだ。「これで、潮枯れを止められるかもしれない」
ディランは剣を収め、無表情のまま言った。「まだ道半ばだ。黒潮は再び現れる」
タイは少しだけこはるを見てから、視線をそらし、低くつぶやいた。「……先へ進もう」
こうして四人は、次の目的地・白海へ向かうことを決意した。紅海の空は晴れ渡り、遠くに白く輝く氷の大地がかすかに見えていた。