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潮枯れの王国で“偽”聖女と巡視隊士が恋を知るまで――五つの海と真珠の旅  作者: 乾為天女


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第37章_欠片は光へ還る

 夜の拍が静かに落ち着いたあと、こはるたちは港の外れにある沈んだ聖堂跡へ向かった。

  満ちたばかりの潮は、石畳の隙間に薄い鏡を残し、倒れた柱の影を揺らしている。聖堂の屋根はとうに崩れ、半身だけを水に沈めて月を映していた。

  海人が足を止め、掌で空気の層を撫でる。

 「ここが“置き所”。四つの欠片を——今夜、ひとつに重ねる」

  こはるは頷き、肩から下げた帆布袋を抱き締めた。袋の底には、藍・紅・白・黒、光の色を孕んだ欠片が眠っている。

  翡翠の五つ目は奪われた。けれど、それでも——四つは在る。

  崩れた祭壇の脇で、ケイトリンが手早く場を整えた。

  濡れた石に乾いた布を敷き、温石を四隅に沈める。

 「喉は通る。余計は要らない。——座る場所、ここ」

  こはるが膝を落とすと、布越しに石の冷たさが伝わり、呼吸がひとつ深くなった。

  ディランは周囲に目を配り、旗を半分だけ開いて角度を示す。

 「入口、二。水路、一本。——“待ち”は俺が受ける」

  タイは倒柱の“目”を布先で撫で、きしむ音を先に眠らせる。

  ダルセは聖堂の半ばで竪琴を抱え、弦には触れず胸だけで“長”の形を作った。

  こはるは袋の口を解き、四つの欠片を掌の上へ。

  藍は深く、紅は温かく、白は澄み、黒は静か。

  四色は互いを拒まない。ただ、ひとつ足りない場所を探しているように脈打つ。

  胸の棚に白と紅、極薄の灰。浅い谷をひとつ置く。

  藍を左掌、紅を右掌、白を胸の中央へ、黒をその影に。

  光はまだ立ち上がらない。立たせない。——今は“聴く”。

  海人がこはるの背に回り、肩甲の間へ掌を静かに添えた。

 「呼吸を、港の拍に重ねる」

  橋の“横”、歌の“縦”、堤と背の半拍ずれ——さっきまで全町で合わせたあの束を、いま、こはるの胸へ薄く写す。

  こはるはまぶたを閉じ、灯の三拍目で半分、五拍目で戻る“間”を思い出す。

  祭壇の石が紙一枚ぶん沈み、戻った。

  欠片がそれに応じて、ごくわずかに脈を合わせる。

  ダルセが声を出さずに“長”を胸から落とし、タイが左の柱を二度、鳴らさず叩いた。

  ディランの旗が低く揺れ、ケイトリンが温石を掌で押さえる。四隅の熱は上げない、ただ“通す”。

  こはるは四つの欠片を胸の上で近づけ、ただし触れさせない。

  白は前へ、紅は内へ。藍は縁に、黒は影に。灰で“空”を挟む。

  浅い谷をもう一つ重ねた瞬間——

  四色が、音もなく互いの“外側”を知った。

  海人の息が、こはるの背で一度だけ深くなる。

 「走らない。——“在す”だけでいい」

  こはるは頷き、欠片と欠片の間に、名前でない“道”を一本、細く置いた。

  名を呼ばない。呼べば、誰かの物語の鏡になってしまう。

  そうではなく、ここに在る拍に、帰れ、という道だけ。

  聖堂の水がふっと凪ぎ、月が水鏡の底で揺れを止める。

  四色はその静けさの上にわずかに浮き、欠け合う縁が輪郭をやめ、薄い靄に変わった。

  こはるは胸の棚に白と紅、極薄の灰。浅い谷を長くひとつ。

  ダルセの“短、短”が逆位相で胸に触れ、ディランの旗が横へ寝る。

  タイが倒柱の節を撫で、ケイトリンが「通る」とだけ言う。

  海人は掌を離さない。——支えるだけ。押さない、導かない。

  四つの欠片のあいだで、薄い靄が一輪の渦を作った。

  そこに翡翠色はない。けれど、翡翠が“あった場所”の形だけが、はっきりと浮かび上がる。

  足りないものの“座”。不在の“在る”。

  こはるはその“座”へ灰の“空”を、さらに薄く一枚置いた。

 (ないものは、呼ばない。——いま在るものから、満たす)

  胸の奥で、何かが静かにほどける。守られたいと思った弱さと、守りたいと思う強さが、ひと拍の中で同じ高さにならぶ。

  四つの欠片が、互いの縁を手放し、初めて“面”を作った。

  それは真珠の球ではない。月の皮を一枚めくって、そこに置いたような、薄い円。

  円の中心に、翡翠の“座”がまだ空いている。空いたまま、しかし欠けてはいない。

  海人の囁きが耳のすぐそばに落ちる。

 「こはる——“君”を足せ」

  こはるは息を呑み、すぐにゆっくり吐いた。

 (奇跡は他人ではなく、自分が起こす)

  胸の棚に白と紅、極薄の灰。浅い谷をひとつ。

  自分の拍——港と橋と堤と背、灯の“間”、仲間の“待ち”。

  その全部を、たった一滴にして、翡翠の“座”へ落とす。

  落ちた。

  音はない。

  だが、聖堂の空気がひとつ、深く“息”をした。

  薄い円に、色が満ちる。

  藍が底を支え、紅が温を灯し、白が面を澄ませ、黒が境界を守る。

  そして翡翠は、どこからも借りず、こはるの“今ここ”から湧いた。

  祭壇の石が紙一枚ぶん沈み、戻る。

  水鏡に微細な波紋が走り、月の輪郭が一度だけほどけて、よりくっきりと戻った。

  円は光を帯び、やがて厚みを持ちはじめる。

  海人が掌を離し、こはるの肩へ置く。

 「——もう、足りてる」

  こはるは頷いた。指先の上で、薄い円がゆっくりと球へ移ろうとしている。

  ディランの旗が立ち、タイが木柄を一度だけ握り直す。

  ケイトリンの「喉、通る」が低く落ち、ダルセの“長”が胸の内で光に変わる。

  聖堂跡は静かだった。けれど、その静けさは空洞ではなく、満ちるための“間”だった。

 (名は渡さない。灯は胸に。——この光は、ここへ還る)

 球へと変わりゆく光は、こはるの掌で呼吸をはじめた。

  吸えば白が澄み、吐けば紅が温もる。藍は奥底で満ち、黒は外縁で静かに巡る。

  翡翠は——こはるの胸と、仲間たちの“今”をつなぐ色。

  海人はわずかに距離をとり、光の球を見守った。

 「離しても大丈夫だ」

  その声には指示の強さはなく、ただ確認の温度があった。

  こはるは掌を少しずつ開く。光は落ちず、浮かびもしない。ただ“在る”ことを選び、そこに留まっている。

  ダルセが竪琴を肩に掛け直し、指先で弦を一度だけ撫でた。

  音は聴こえなかった。けれど、波紋のように胸の奥が揺れた。

  ディランは旗を軽く振り、港側の入口に立つ影へ合図を送る。

  ケイトリンは温石を取り上げ、布で包みながらも視線を逸らさない。

  タイは足音を殺して背後へ回り、水路の先を確かめに消えた。

  光の球は、こはるの拍と聖堂の拍をゆっくりと合わせはじめる。

  港の波間、橋の軋み、灯の揺らぎ、堤の吐息。

  それらが一つの呼吸に溶けて、球の中に収まっていく。

  海人が低く告げる。

 「これを港へ戻す。潮が変わる前に」

  こはるは頷き、立ち上がった。布を巻いたままの球を胸に抱え、足を踏み出す。

  石畳に映る月が揺れ、足音の代わりに波が返す。

  聖堂を出ると、夜風が頬を撫でた。

  潮の匂いは強くなく、むしろ木と土の湿りが混ざっている。

  遠くで灯台の光が、三度瞬いて消える。

  港までの道は短いが、左右から細い路地がいくつも伸びている。

  ダルセとディランが前後を固め、ケイトリンが右、タイが左を守る。

  海人はこはるのすぐ後ろ、背中を覆う位置を崩さない。

  路地の奥から、金属を擦るような音が微かに響いた。

  タイが手を上げ、左手の短棒を握る。

  ディランは旗を傾け、ダルセが“短”を胸で二度打つ。

  ケイトリンは声を出さず、足元の温石を路地の入り口にそっと置いた。

  こはるは足を止めない。胸の球はわずかに脈打ち、港の拍を求めている。

  海人が一歩だけ近づき、肩越しに囁く。

 「気を取られるな。光は前を見てる」

  こはるは視線を逸らさず、波の音を耳で拾い続けた。

  やがて、港の開けた気配が前方に広がる。

  灯の列が道沿いに並び、海面の揺れがその光を切り刻んでいる。

  潮は緩やかに引き始め、岸壁の石が露わになりつつあった。

  港の中央に、小さな石積みの“島”がある。

  かつて海神の像が立っていた場所。いまは土台だけが残り、波がそこへ当たっては白い泡を作る。

  海人が顎でそこを示す。

 「戻すなら、あそこだ」

  ダルセが“長”を一度だけ胸に置き、ディランが旗を真っ直ぐ立てた。

  タイは左右を確認し、ケイトリンは温石を抱えて最後尾へ回る。

  こはるは石積みへ向けて歩を進めた。

  潮の引き際を見計らい、海人が先に飛び石を渡る。

  こはるも後を追い、球を胸から離さないよう両腕で抱える。

  足元に海水が触れ、冷たさが皮膚を駆け上がる。

  石積みの中央まで進むと、そこだけ潮がわずかに渦を巻いていた。

 「置くぞ」

  海人の声に、こはるは頷き、膝をついた。

  胸の前で球を両掌に載せ、ゆっくりと石の上へ。

 光の球が石の上に触れた——はずなのに、沈まない。

  石は紙一枚ぶん沈み、すぐ戻った。沈んだのは石で、球ではなかった。

  こはるは掌を離し、両手を膝に添える。球は“在る”を保ち、波に濡れず、しかし波を拒まない。

  海人が低く囁く。「息を、港に合わせろ」

  こはるは胸の棚に白と紅、極薄の灰。浅い谷をひとつ——長く。

  港の背で“耳”が半拍先に支え、堤が半拍遅れて返る。灯の“間”は、もう夜の空に溶けている。

  ダルセが胸の“長”を細く落とし、ディランは旗を肩で支え、タイは石積みの“目”を先に撫で、ケイトリンは「喉、通る」とだけ落とした。

  球の縁が、海面と同じ呼吸をした。

  吸えば白が澄み、吐けば紅が温もる。藍は底で満ち、黒は外で輪郭を守る。

  翡翠の光は、こはるの鼓動と港の拍のちょうど真ん中で、微かな脈を刻む。

  外輪の肩で、白くない影がひとつ、寝返りを打つ気配。

  名も音も投げてこない。ただ“在る”の外側を試すように、潮の皺がひとつ増える。

  こはるは谷をもう一段だけ深くする。押さず、囲まず、ただ“外”を薄く示す。

  影はほどけ、港口の闇は静かに“外”であり続けた。

  「今が“還す”の拍」

  海人が石積みの縁に指を触れ、脈の高さを示す。

  こはるは球に手を添えず、言葉も与えない。

 (名は渡さない。——道だけ)

  その時、球の奥で翡翠がふっと濃くなった。

  濃さは重さではない。内側で“座”が温度を持ち、港の拍にぴたりと乗る。

  薄い音が、耳ではなく胸の内で鳴った気がした。

  水が、ひとつ、満ちた。

  波は砕けず、形を変えず、ただ“上がる”。

  石積みの周りで、退いていた潮が戻り、足首の冷たさがふっと緩む。

  ディランの旗がきりりと立ち、堤の“耳”が返る。

  ダルセは封じた鈴を腰で押さえ、短い二つを胸の底で噛み、落とさない。

  タイは石の継ぎ目を布でひと撫でし、ケイトリンは温石の火を上げないまま掌に移した。

  球の光が、石の上からわずかに浮いた。

  浮いたのに、離れない。

  球の影が石へ沁み、石の影が球へ沁む。二つは同じ“座”を分け合い、どちらも奪わない。

  こはるは浅い谷を保ったまま、胸に一滴を集める。

  それは恐れでも歓喜でもない、——決意の温度。

  彼女はその一滴を球の“座”へ落とす。

  翡翠が、応えた。

  球の内側で、四色が同時に息をし、中心がほんのわずか厚みを持つ。

  水面の月が一瞬ほどけ、よりくっきりと戻った。

  海人が短く頷く。「通った」

  こはるは頬に気づかぬ涙をひと筋感じ、拭わずに目を細めた。

  石積みの上で、球は“港のもの”になった。誰かの名ではなく、ここに住む呼吸のひとつとして。

  と、その瞬間——

  港口の暗がりで、細い“線”が立った。

  黒でも白でもない、名を持たない線。

  今まで寝返りで済ませていた外輪の肩が、初めて瞼を上げたのだ。

  こはるは布を鼻口へ押し、胸の棚で白と紅、極薄の灰。浅い谷を長く、もうひとつ。

  球は揺れない。港の拍も乱れない。

  ただ、外の線だけが“こちらを見た”。

  海人が前へ半歩。刃は上がらず、柄を半分だけ握る。

  ディランが旗を横に寝かせ、橋の“切っ先”と同じ高さを作る。

  ダルセは胸の“長”をさらに深く噛み、ケイトリンは「喉、通る」を一段低く落とす。

  タイは石積みの外縁に木柄の先を置き、音にならない音で二度、地を叩いた。

  外の線は“名”を投げてこない。

  だが、見る。

  ——試す者の目で。

  こはるは球へ触れず、視線だけを“外”から外す。

  港の拍を胸に、灯の“間”を指に、堤と背のずれを踵に。

  (こちらは、走らない。名は渡さない。——道は、もう在る)

  外の線がわずかに揺れ、消えた。

  寝返りよりも浅く、しかし確かに“退いた”。

  球の翡翠は濃さを保ち、港の面は紙一枚ぶん高くなる。

  海人が息を吐き、声を落とす。「戻ろう」

  こはるは頷き、球へ最後の一瞥を落とす。

 「——また来る。朝に」

  球は答えない。けれど、港の拍が一度だけ優しく返った。

  飛び石を戻る足元で、水はもう冷えすぎていない。

  潮は満ち方を覚え、街はその息を受け取った。

  彼らが岸に上がると、灯台の光が遠くで三度、静かに瞬いた。

 岸に着くと、港の音が変わっていた。

  さっきまで硬く詰まっていた水音が、丸みを帯び、板壁や船腹にやわらかく当たっている。

  こはるは耳でなく、足裏でそれを感じた。木の桟橋の下で、波が深呼吸を繰り返している。

  「……これで、一息つけるのか?」

  海人が問いかけるが、声は控えめだ。

  こはるは首を振らず、肯くでもなく、ただ港の拍を胸に映したまま歩く。

  まだ夜は深く、潮も静かだが、“外”が完全に退いたわけではない。

  ダルセが桟橋の端で足を止め、腰の鈴に手を置いた。

 「港の奥は、まだ少し重い。けど……すぐには崩れない」

  彼の言葉に、タイが桟橋の支柱を軽く蹴る。コツ、と乾いた音が返った。

 「今夜は、これで守れる。あとは——」

 「——あとは、朝だ」ディランが言葉を引き取る。旗を肩に掛け直し、灯台のほうを見る。

  ケイトリンは温石を火にかけず、掌で覆ったまま立っていた。

 「港の呼吸が続くなら、朝には“外”はここを通らない」

  その声はいつもより低く、けれど揺れはなかった。

  こはるは皆のやり取りを背で聞きながら、ふと振り返った。

  石積みの向こう、翡翠の球はもう見えない。だが、胸の奥で港の拍が変わらず刻まれている。

  (……まだ、ここにいる)

  小さな灯を頼りに、港町の路地を進む。

  軒先の桶には薄く水が張られ、表面に灯りが揺れる。

  猫の足跡が濡れて残り、角を曲がるとパン屋の煙突からかすかな香りが漂った。

  この香りを、外の線は知らない。知らなくていい——こはるはそう思った。

  広場に着くと、中央の井戸の縁に老人がひとり座っていた。

  夜更けの寒さに薄い外套だけだが、姿勢は揺らいでいない。

 「……やったな」

  老人は彼らを見ず、井戸の水面を覗きながら呟いた。

  こはるは答えず、井戸の水に映る自分たちの影を見た。

  そこには六つの影があり、背後に港の灯がかすかに揺れている。

  海人が井戸の縁に片手を置き、「明日の朝も、行く」と短く告げた。

  老人は頷きもせず、ただ井戸の水をもう一度覗き込み、低く笑った。

 「朝は、もうすぐだ」

  彼らは広場を抜け、それぞれの持ち場へ散っていった。

  こはるは一人、灯台へ向かう坂道を登る。

  石畳の隙間に残る潮の水が、月明かりで細い銀色を見せている。

  振り返れば、港の闇が少しだけ浅くなっていた。

  灯台の扉を押すと、潮と油の匂いが混じった空気が迎える。

  螺旋階段を登る途中、窓から港を見下ろすと、外輪の肩はもう闇と区別がつかなくなっていた。

  それでもこはるは視線を外さず、胸の中で港の拍を確かめる。

  灯台の最上段に着くと、ランプがゆっくりと一周して海と街を照らした。

  こはるはその光を見送りながら、静かに息をつく。

  この光は、港の息と同じ速度で回っている。

  “外”が退いても、戻る可能性は消えない。

  だから——

 (朝まで、保つ)

  風が窓を鳴らし、遠くで鐘の音がひとつ。

  こはるはランプに手をかざし、光の温度を確かめた。

  冷たすぎず、熱すぎず。港と同じ、ちょうどいい温度だった。


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