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潮枯れの王国で“偽”聖女と巡視隊士が恋を知るまで――五つの海と真珠の旅  作者: 乾為天女


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第36章_大潮門の拍

 大潮門は夜の海と一枚になっていた。外から見れば、ただ黒い壁が水面を押し返しているだけに見える。しかし内側に立つ者には、その壁が拍で膨らみ、拍で戻り、まるで息をしているように感じられる。

  海人は門楼の手前、桟橋の影に足を止めた。足下の板は波に合わせてわずかに上下し、その動きが脚の骨を伝って心臓まで届く。橋からの“横”と歌からの“縦”は、もう背骨の中に染みついている。

  横の拍は港の幅をなぞり、縦の拍は水底を探る。堤と背の半拍ずれが、その二つを束ねる糸になっていた。

  「……始めるぞ」

  低く呟くと、背後で旗が持ち上がる音がした。ディランが門前の影に立ち、横列の合図を送る。

  ダルセは“鳴らさない鈴”を腰に下げ、指先で輪を転がす。その輪が光を反射した瞬間、堤の“耳”が小さく震えた。

  門楼の腹に目をやる。そこは灯の三拍目で半分、五拍目で戻す“間”を受け止める場所。こはるが灯室から送る光の筋が、波頭に沿って薄く走っている。

  海人はその筋をなぞるように呼吸を合わせた。

  三拍目——橋の横が走る。

  五拍目——歌の縦が落ちる。

  半拍ずらして、堤と背が返る。

  港の腹が門楼の下で沈み、水が一瞬だけ止まった。外輪の肩がまた寝返りを打とうとしたが、すぐにほどけていく。

  「今だ」

  海人の合図に、ディランが旗を斜めに振る。剣列が動き、橋の横が二重になった。

  タイが舟の影から現れ、木柄を門楼の石に打ちつける。低い音が水底に響き、縦の拍がさらに深く落ちた。

  こはるの灯は白を前、紅を内、灰で空を受ける。

  三拍目で半分、五拍目で戻す——その律動が、門楼の腹を内側から満たしていく。

  門がきしむ。

  外海の圧が一瞬だけ弱まり、内海の水がふっと息を吸うように動いた。

 内海が息を吸った瞬間、門楼の石が紙一枚ぶん沈み、すぐ戻った。

  海人はその“戻り”を待たず、半拍先で声を落とす。

 「——束ねる」

  ディランの旗が斜めから水平へ。横列の剣が欄干と同じ高さで滑り、橋の“横”が二重の帯になって門へ向かう。

  ダルセは胸の底で“長”をひとつ育て、まだ声にはしない。封じた鈴が腰で重く、音は出さず、ただ輪の重みが縦の芯を教える。

  タイは木柄の結び目を一段固くし、門前の石に“目”を見つけると布先で先に撫でて眠らせた。

  堤の“耳”は半拍遅れて返り、背の“耳”は半拍先で支え続ける。

  灯台から届く帯が三拍目で細く、五拍目で戻る。

  こはるの“間”が脈の外側に薄く敷かれ、門楼の腹は押されず、しかし満たされる。

  海人は足幅を半歩だけ広げ、踵に“待ち”を置いた。

 (押すな。噛ませるな。——満たして、置く)

  右の掌が剣の背を撫で、左の指が空を指す。横の拍を“道”に変える合図。

  剣列が息を合わせ、横は横のまま圧に変わらず、ただ空所を作って進む。

  「今」

  ダルセが声を出す前に、胸で“長”が落ちた。

  縦は音にならず、門楼の石の腹へ沈む。

  その沈みと同時に、堤が返り、背が支える。港の腹が紙一枚ぶん、もう一段沈む。

  門楼の蝶番が鳴り、外海の圧がわずかに退く。

  外輪の肩が起き上がりかけて——やめる。灯の帯が“外”を撫で、囲いの外側を示し続けているからだ。

  ケイトリンが門楼の影から短く告げた。「呼吸、通る。喉、乾かない」

  温石を兵の掌へ一つずつ押し当て、余計を足さない。

  兵の肩が同じ高さに落ち、走らない。

  海人は門楼の腹へ視線を据えた。

  石の“目”が三つ、縦に並び、間に薄い陰りが揺らいでいる。そこが“置き所”。

  彼は刃を振らない。柄を握る手を半分だけ開き、横の拍をそこへ“置く”。

  ディランの旗が同じ角度で止まり、剣列の足が一拍ぶん沈む。

  その空所へ、ダルセの“長”が落ちた。

  封じた鈴は鳴らない。だが輪の重みが縦の芯を通し、門楼の腹の奥で水がふっと受け取る。

  堤の“耳”が返り、背の“耳”が支え、港の腹がもう一度だけ紙一枚ぶん沈む。

  灯は三拍目で半分、五拍目で戻る。

  帯の縁が崖の紋を撫で、返りの光が堤から一つ、背から二つ、順に返ってきた。

  「——満ちろ」

  海人が低く言うと、門楼の内側で水がわずかに膨らんだ。

  押し分けるのではない。外から満たすのでもない。

  内側の“待ち”に束を置き、そこが自ら形を思い出すのを助けるだけ。

  外輪の肩が四度目の寝返りをやめた。

  名は呼ばれない。音の角も立たない。

  ただ、外が外のまま囲われ、内が内のまま深く息をする。

  タイが木柄で門枠の“目”を二度、軽く叩く。鳴らない音が材を通って沈み、蝶番の震えがほどけた。

  ディランの旗が縦から横へ、ゆっくり返る。剣列の肩が落ち、刃は欄干と同じ高さで止まる。

  ダルセは胸の“長”を細くし、短い二つを門楼の床へ落とした。

  門が、呼吸を思い出したように動いた。

  外の黒が一歩退き、内の水が静かに満ちる。

  波がひとつ、門前で伏せられ、砕けずに形だけを変えて消える。

  海人は息を吐く。(まだだ。——もう一束)

  背から「通る」の合図が来る。ケイトリンの短い声。

  こはるの灯は変わらず三拍目で半分、五拍目で戻る。

  海人は踵の“待ち”をもう一段沈め、刃の背で空所を撫でた。

  横の帯が再び一本に集まり、縦の芯が静かにそこへ落ちる。

  門楼の腹が、今度ははっきりと膨らんだ。

 外の圧がわずかにずれる。

  そのずれが堤と背を通って返り、港の腹を押さずに撫でた。

  海人はそれを待っていたかのように、右の掌で刃の背を押さえ、左の指で門楼の陰を指す。

  ダルセが短い“長”を二度、胸から落とす。

  封じた鈴は鳴らず、しかし輪の重みが門楼の縦芯を通って床へ沈む。

  タイが布先で蝶番の根元をなぞり、金属の硬さをやわらげる。

  門楼の石の“目”が一瞬、深い色に変わった。

  それは海の底で陽が差し込む瞬間のように、色が濃く、輪郭が柔らかくなる変化だった。

  ケイトリンが兵に短く告げる。「ここで、止める」

  兵の肩が一斉に沈み、呼吸が低く揃った。

  灯は変わらず三拍目で半分、五拍目で戻る。

  こはるの手は微動だにせず、帯の端が港の輪郭を正確になぞっていく。

  外輪の肩は動かず、ただ外の闇が“待ち”を見守っているように見えた。

  海人は一歩だけ前に出た。

  刃先は動かさず、柄を握る手を半分だけ開き、空所へ“道”を通す。

  横の拍がそこに流れ込み、縦の芯が静かに落ちる。

  ——門楼の腹が、完全に膨らんだ。

  外の圧は押さず、内の水は逃げず。

  ただ、境界が境界のまま“息”をし続ける。

  ディランの旗が低く振られ、剣列が後退し始めた。

  刃は欄干と同じ高さを保ち、足は一拍ごとに確実に石を踏む。

  ダルセは封じた鈴を腰から外さず、その重みを胸に残したまま後ろへ下がった。

  タイは木柄を抱え、門枠の“目”を撫でるように二度叩く。

  音は鳴らない。だが材を通って沈んだ震えが蝶番を完全に落ち着かせる。

  灯台の帯が最後の一拍を撫で、港の輪郭を閉じた。

  海人はそこで初めて刃を下ろす。

  柄を握る手を開き、呼吸を整える。

  潮の匂いが静かに戻り、外の黒はもう肩を起こそうとはしなかった。

  こはるが灯を消す。

  暗闇の中でも、門楼の“目”は深く息をしているように見える。

  堤も背も、拍を外さず、ただそこに“待ち”を置き続けていた。

  ケイトリンが短く告げた。「完了」

  誰も声を上げず、旗も剣も音を立てず、港は自分の息を守り続けた。


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